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熊野信仰 くまのしんこう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

熊野信仰
くまのしんこう

和歌山県の熊野三山,すなわち本宮の熊野坐 (くまのにます) 神社,新宮の熊野速玉神社,那智山の熊野夫須美神社に対する信仰。熊野は古代より神秘的な聖地とされ,奈良時代よりこの地で修行をする者が多かったが,寛治4 (1090) 年,白河上皇の熊野御幸があってから政治権力を背景とする宗教的権威が生じ,熊野信仰も飛躍的な隆盛をみた。かくて熊野詣での参詣人は全国各地から集るようになったが,これには熊野の御師 (おし) や山伏の活動によるところも大きかった。御師は八咫烏 (やたがらす) の故事にちなんで熊野牛王を配布し,魔よけの信仰を広め,また各地に神事芸能を伝えた。

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デジタル大辞泉の解説

くまの‐しんこう〔‐シンカウ〕【熊野信仰】

熊野三社を中心とする信仰。

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百科事典マイペディアの解説

熊野信仰【くまのしんこう】

熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心にした信仰。古く三熊野(みくまの)と呼ばれ霊山視されていたが,平安後期に至り,密教呪術(じゅじゅつ)と修験(しゅげん)道の隆盛に伴い,熊野三山の本地(ほんじ)が阿弥陀仏とされ,神宮寺の建立,修行場としての清水,長谷,金峰山の確立があった。
→関連項目王子信仰熊野

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世界大百科事典 第2版の解説

くまのしんこう【熊野信仰】

和歌山県の熊野山(熊野三山,熊野三所と呼ぶことが多い)を中心とした民俗的信仰。熊野地方は近畿の南端に突出した山岳地帯であるが,ふもとには大河がうねって流れ,しかも洋々たる大海を見渡すことのできる地である。そのせいか早くから霊地とされ,《日本書紀》の一書には,伊弉冉(いざなみ)尊を葬った所を熊野の有馬村としている。おそらく,熊野は死者の霊のこもる国として知られていたのであろう。それはやがて聖地と仰がれ,平安時代初期には,熊野坐(くまのにます)神社(のちの本宮),熊野早玉(はやたま)神社が成立し(《延喜式》),同中期にはその一角で埋経も行われ,卒都婆も建てられていた(《いほぬし》)。

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大辞林 第三版の解説

くまのしんこう【熊野信仰】

熊野三山を中心とする信仰。白河上皇の行幸以降、院政期から盛んになった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

熊野信仰
くまのしんこう

熊野三山を中心とする信仰で、院政時代(1086~1192)より流行した。和歌山県東牟婁(ひがしむろ)・西牟婁郡と新宮(しんぐう)市・田辺(たなべ)市、三重県北牟婁・南牟婁郡と熊野市・尾鷲(おわせ)市にわたる熊野の地は、その地勢からか、古くから神秘の地とみられ、『日本書紀』神代巻の一書に、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を葬ったとも記されているが、『日本霊異記(りょういき)』では、奈良時代末期に仏教者がこの地で修行していたことを記している。そして、平安初期には大和(やまと)(奈良県)吉野金峰山(きんぶせん)より熊野にかけての修験(しゅげん)の道場が開かれ、一方では907年(延喜7)宇多(うだ)法皇が本宮・新宮に御幸し、10世紀末には花山(かざん)法皇も御幸、那智(なち)で修行したと伝承されている。そのような熊野の三山を中心に急激に熊野信仰が隆盛を極めるようになったのは、白河(しらかわ)上皇の1090年(寛治4)御幸よりのことである。そのとき、上皇は田100町歩を寄進、三山検校(けんぎょう)職を初めて置いて、これに増誉(ぞうよ)をあて、当山別当長快(ちょうかい)を法橋(ほっきょう)に叙したことで、熊野三山の宗教的、経済的な基盤が確立した。
 そのあと続いての御幸ごとに堂塔の建立も行われ、さらに鳥羽(とば)上皇、後白河(ごしらかわ)上皇、女院方の御幸、貴族たちの参詣(さんけい)によって飛躍的な発展をみた。それは、一方に当時の人々が末法の恐怖におびえ、阿弥陀浄土(あみだじょうど)にあこがれていたが、『華厳経(けごんきょう)』入法界品(にゅうほっかいぼん)にいう観自在菩薩(かんじざいぼさつ)のすむ南方の補陀洛迦(ほだらか)山(補陀落(ふだらく)山)を熊野にあて、本宮の本地仏を阿弥陀如来(にょらい)、新宮の本地仏を薬師(やくし)如来、那智の本地仏を観音(かんのん)菩薩と説かれると、生きながら補陀落浄土へ至ることを求めたためである。また当時、一般に物詣(もう)での風が盛んとなっていたためであり、紀州の中辺路(なかへち)、大辺路(おおへち)、また伊勢(いせ)路の両道から「蟻(あり)の熊野詣で」といわれるほど多くの参詣者を出したのである。三山では検校職のもと、それぞれ独自の組織で、師職、先達(せんだつ)を有していたが、熊野道者は紀州路では、若一王子(にゃくいちおうじ)、九十九王子といわれる王子権現(ごんげん)に詣で、三山の宿坊に泊まり参詣するようになると、師職はやがて諸国に出かけて師檀(しだん)関係を結んで熊野信仰を全国的なものとするに至った。
 熊野信仰は、このように初めは浄土信仰、また延命長寿を求めての信仰より発したが、のち八咫烏(やたがらす)を図案化した熊野牛王宝印(ごおうほういん)を配布するような広い信仰となる。さらに三山は豊富な経済力をもって、室町時代にすでに御師(おし)は為替(かわせ)制度を始め、江戸時代には諸大名以下に金融貸付をするとともに、衆庶に広く信仰を説くことに努めたので、遠く東北地方、また九州より沖縄にまで熊野神社が勧請(かんじょう)され、まさに全国的な信仰となっていった。[鎌田純一]

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世界大百科事典内の熊野信仰の言及

【鈴木氏】より

…牟婁郡のほか,藤白(名草郡藤白浦)の鈴木氏は地頭としてこの地に来たといい,そのほか雑賀(海部郡),日高(日高郡),名高浦(名草郡),粉河(那賀郡)などにも存在する。熊野信仰が平安後期から鎌倉期にかけて高まるにつれて全国に勧請され,それとともに鈴木氏も各地へ移り住むようになったと考えられる。【内藤 範子】。…

【土佐国】より


[文化]
 宗教では弘法大師信仰にかかわる平安末期からの四国巡礼があり,室町期にはいわゆる〈四国八十八ヵ所〉の原形が成立する。熊野信仰も比較的早く,御師(おし)による武士階級の旦那化は鎌倉期からみられ,各所に熊野社が勧請されている。南北朝期,土佐南軍の一翼に高岡郡横倉社の熊野衆徒があった。…

【波上宮】より

…社伝によれば,昔,崎山の人が漁のとき霊石を得て,これを神託によりまつったと伝える。しかし,古くより熊野信仰の浄土的な見方があり,東シナ海の彼方を望む隆起石灰岩の断崖の上の現在地に,熊野権現の拝所として社殿を建ててまつっていたと考えられている。琉球八社の第1位で,1890年には官幣小社に列格し,別当寺の波上山護国寺を分離,施設も整備されたが,太平洋戦争末期の戦闘で社殿,宝物などすべてを焼失。…

【弁慶物語】より

…穂久邇文庫蔵の絵巻《武蔵坊弁慶物語》(仮題。1巻)は残闕(ざんけつ)ながら,最古の伝本とされ,熊野信仰を背景とする長大な語り物が室町初期から存したことをうかがうことができ,後の〈自剃(じぞり)弁慶〉〈橋弁慶〉などの短編の母胎ともなった。室町期の絵巻,写本をはじめ伝本も比較的多く,結びの奥州下りが《義経記》とも《十二段草子》とも異なるのをはじめ,義経を〈小男〉とし,具体的な兵法の描写に富むなど,重要な問題点を多く含む作品である。…

※「熊野信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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