長崎湊(読み)ながさきみなと

日本歴史地名大系 「長崎湊」の解説

長崎湊
ながさきみなと

[現在地名]長崎市江戸町・樺島町・元船町など

長崎市の南西に開けた入江で、湊津の機能をもつ。中世より永埼浦などとみえ、戦国期には貿易都市・宗教都市の港湾として発展するが、近世には朝鮮半島に開かれた対馬とともに、海禁政策下の、いわゆる鎖国下の日本にあって最大の海外貿易湊として隆盛を極めた。中国およびオランダを通じての物資の流通はこの湊を窓口として行われ、それによって長崎町の繁栄が約束された。また同時に長崎湊の存在により学芸文化が日本列島に流入したことも見逃せない。史料上は長崎湊(崎陽群談)などとみえ、深江ふかえ深津ふかつ江ともいわれた(長崎名勝図絵)。江戸時代には「異国船輻輳の大湊にして、いと珍らかなる所なり」として知られていた(享和二年菱屋平七「筑紫紀行」)。現長崎市江戸えど町・樺島かばしま町などに中心となる港湾施設があったが、長崎湾内にも関連施設があった。

〔国際都市の外港〕

天正一六年(一五八八)五月、長崎を直轄領とした豊臣秀吉は、同年閏五月長崎惣中に対して「長崎江黒船如先々相著之可致商売、並当津地子之事被成御免除」とし(長崎拾芥)、同一九年に「長崎津」における南蛮船・唐船の優遇を含む貿易定めを出している(同年六月一日「豊臣秀吉朱印状写」鍋島文書)。文禄元年(一五九二)とも、慶長六年(一六〇一)ともいわれる異国渡海朱印状による幕府公認の海外交易は、末次平蔵・高木作右衛門・船本弥平次ら長崎六艘などがその担い手であったが(「崎陽群談」「長崎根元記」など)、いずれも当湊より商船を出帆させたものであろう。一五九七年頃、長崎―マニラ間はポルトガル人と日本人によって多様な船が就航していた。日本からの船は一〇月末と三月頃の北風にのってくるが、そのおもな船荷は小麦粉・乾肉・絹布・屏風・刀・武具・書机・装身具・梨・塩漬鮪など、マニラからの船荷は生糸・金・鹿皮・蘇芳・蜂蜜・葡萄酒・茶壺・ガラスなどであった(モルガ「フィリピン諸島記」)。しかし慶長五年に定航船司令官オラチオ・ネレテのポルトガル船が来航、二千五〇〇ピコ(二五万斤)余の生糸を積んでいたが、戦乱のため商人が帰国し、道路が遮断されるなど、その取引は翌年に持越されたという(フェルナン・ゲレイロ「イエズス会年報」)。また同じくポルトガル船が長崎に来航していた頃、「長崎新湊開発御取立異国来船入津」のことがあっても、商人の受入れ体制が整わず、長く滞船して迷惑であったというので(糸割符由緒書)、なお港湾としての整備は十分ではなかったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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