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末次平蔵 すえつぐへいぞう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

末次平蔵
すえつぐへいぞう

[生]?
[没]寛永7(1630).5.25. 長崎
江戸時代初期の海外貿易家,長崎代官。平蔵は通称で,名は政直。博多の豪商末次氏の一族で,父興善の代に長崎に移住し貿易に従事した。平蔵も文禄1 (1592) 年豊臣秀吉から朱印状を得て安南貿易を行い,慶長9 (1604) 年以降は徳川幕府から朱印状を与えられ,ルソン (呂宋) ,シャム (暹羅) ,トンキン (東京) ,台湾などと交易して巨利を博した。元和5 (19) 年長崎代官村上等安と争い,代って長崎代官に任じられ長崎の町政に権力をふるった。またオランダの台湾長官 P.ノイツと台湾貿易について争い人質を取ったことは有名 (→スペックス ) 。延宝4 (76) 年,孫 (あるいは曾孫) 茂朝のときに密貿易が露見,一族はことごとく処罰された。

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デジタル大辞泉の解説

すえつぐ‐へいぞう〔すゑつぐヘイザウ〕【末次平蔵】

[?~1630]江戸初期の海外貿易家。長崎の人。名は政直。南洋各地との朱印船貿易で巨富を築き、のち、長崎代官となった。

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百科事典マイペディアの解説

末次平蔵【すえつぐへいぞう】

江戸前期の朱印船貿易商人。名は政直(まさなお)。父興善は博多の豪商末次氏の一族で1571年開港後の長崎に移り貿易で巨富を得た。平蔵も幕府から朱印状を得て末次船と呼ばれた朱印船をルソン,シャム,台湾などに派遣。

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朝日日本歴史人物事典の解説

末次平蔵

没年:寛永7.5.25(1630.7.5)
生年:生年不詳
近世初頭の朱印船貿易家,長崎代官。父は末次興善,兄は与三郎広正宗得といい博多の豪商。元亀2(1571)年ごろ長崎に移り,金屋町(のち興善町)に住み,乙名役であった。町方の有力者として,長崎貿易従事し,財力を蓄積していた。元和2(1616)年代官の村山等安の支配を憎んで,幕府に告発した。等安はもともと末次の配下の者であったが,奸計によって豊臣秀吉に信任され,主人を追いこして長崎代官になり,平蔵は快く思っていなかった。そこで,等安の長崎における苛政と,大坂の陣で等安の息子が大坂方に味方したこと,海外に追放されかかったキリシタンを途中で連れ帰り,自宅にかくまっていたことなどを告発,対決の結果等安は江戸で斬罪となった。こうして元和4年平蔵が長崎代官に任命され,長崎外町を支配し,外交・貿易・市政に関与した。元和・寛永期(1615~44)には朱印船貿易の主流のひとりであったが,末次船の台湾渡航のことから,台湾のオランダ商館長P.ヌイツと関税のことで紛争となり,平蔵は幕府に強硬外交の展開をすすめ,寛永5(1628)年自分の持ち船2艘に武装船員470人余を乗り組ませ,船長浜田弥兵衛に対決を命じ,ついに台湾事件(浜田弥兵衛事件)を引き起こした。この事件直後平蔵は狂って病死。春徳寺に葬られたが墓石は現存しない。子孫は代々代官職を継承したが,4代にして延宝4(1676)年不正があってお家断絶となった。平蔵以後幕府の外交政策が消極化し,外国とトラブルを起こさぬよう寛永鎖国となっていく。<参考文献>『増補長崎略史』上下,『長崎市史』,『長崎県史』,川島元次郎『朱印船貿易史』,岩生成一『新版朱印船貿易史の研究』,幸田成友『日欧通交史』,中田易直『近世対外関係史の研究』

(中田易直)

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世界大百科事典 第2版の解説

すえつぐへいぞう【末次平蔵】

?‐1630(寛永7)
江戸初期の長崎代官。名は政直。博多の貿易商人末次興善の次男として生まれ,父に伴われて長崎に転居。1619年(元和5)長崎代官村山等安の不正を幕府に訴え,彼に代わって代官となり,長崎奉行長谷川権六とともにキリシタンを弾圧した。平蔵は台湾に朱印船を派遣していたが,オランダ人も台南の外港安平に商館を設け,朱印船の輸出品に輸出税を課したため,紛争となった。28年末次船の船頭浜田弥兵衛と台湾長官ピーテル・ヌイツとの衝突を機に,日蘭貿易は一時中断し,平戸オランダ商館員も抑留された。

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大辞林 第三版の解説

すえつぐへいぞう【末次平蔵】

?~1630) 江戸初期の貿易家。長崎代官。名は政直。朱印状を得て、ルソン・シャムなどとの貿易に従事。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

末次平蔵
すえつぐへいぞう
(?―1630)

江戸前期の長崎代官、朱印船貿易家。博多(はかた)の豪商末次氏の一族で、名は政直。父興善(こうぜん)は1571年(元亀2)長崎開港後同地に移り、私費を投じて興善町を開き、貿易により富をなした。その子平蔵政直も貿易に従事し、幕府から朱印状を得て、商船を呂宋(ルソン)、暹羅(シャム)、台湾、交趾(コーチ)、東京(トンキン)など各地に派遣した。その船を末次船と称し、1634年(寛永11)交趾から帰航した同船の絵馬が長崎の清水寺に献納されている。平蔵は1619年(元和5)長崎代官村山等安(とうあん)と争い、その私曲を幕府に訴えてこれにかわって代官に任ぜられ、市政や貿易上に大きな力を振るった。その後彼の朱印船が台湾に渡り、オランダ側よりしばしば妨害を受けたため、28年(寛永5)彼の持ち船の船長浜田弥兵衛(やひょうえ)らは、台湾長官ヌイツにより抑留されたが、逆にこれを制圧、ヌイツに迫り和して長崎に戻った。平蔵の上申と工作により、幕府はオランダ人の貿易を差し止めた。この紛争は30年5月平蔵の病死と32年ヌイツの日本引き渡しにより解決した。その子平蔵茂房(しげふさ)はむしろオランダ人との貿易に積極的に参加している。のち76年(延宝4)正月、孫の平蔵茂朝(しげとも)のとき召使いのカンボジア密貿易が発覚、一族すべて処罰された。[沼田 哲]
『川島元次郎著『朱印船貿易史』(1921・巧人社) ▽岩生成一著『朱印船貿易史の研究』(1958・弘文堂) ▽永積洋子著『平戸オランダ商館日記』(『日記記録による日本歴史叢書7』1981・そしえて)』

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世界大百科事典内の末次平蔵の言及

【長崎代官】より

…直茂が文禄の役で朝鮮に出陣すると,後任に唐津藩主寺沢広高を任じて初代奉行とし,長崎町人の村山等安を代官として郷地の年貢徴収に当たらせた。徳川家康もこれを踏襲したが,豪商末次平蔵は等安をキリシタンで豊臣秀頼に内通したと告発して1616年(元和2)代官となり,鎖国の形成にらつ腕をふるった。4代目平蔵は長崎周辺7ヵ村のほか一時天草を管したが76年(延宝4)に改易され,事務は町年寄が兼管した。…

【村山等安】より

…洗礼名はアントニオ(安東)。名古屋の出身(ほかに広島,博多の説がある)で天正年間(1573‐92)長崎に来て,末次平蔵の父興善の庇護をうけた。才知,弁舌にすぐれ,南蛮菓子,南蛮料理に通じていた。…

※「末次平蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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