長間村(読み)ながまむら

日本歴史地名大系 「長間村」の解説

長間村
ながまむら

[現在地名]羽島市上中町長間かみなかちようながま

江吉良えぎら村の南に位置する桑原くわばら輪中内の村で、東端をぎやく川が流れる。現名古屋市の宝生ほうじよう(真福寺)蔵の「求聞持秘記」奥書に「于時文正元丙戌三月十五日尾州中島郡長間於神宮寺書写畢」とある。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)にも地名がみえ、天正一二年(一五八四)五月五日の不破源六宛織田信雄書状(不破文書)によれば、織田・徳川軍と羽柴軍は「加々野井」などで衝突、羽柴軍は長間に退いている。

慶長郷帳に村名がみえ、高七〇二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると近藤政成領と平岡頼資(徳野藩)領。

長間村
ながまむら

[現在地名]城辺町長間ながま

比嘉ぴいがー村の西に位置し、北西東仲宗根添あがなかずうにすうい(現平良市)、南は西里添にすだていすうい村、北部は海に臨む。尚敬王一三年(一七二五)王命に従い大神うがむ(現平良市)から七二人を移住させて西銘飛鳥にすみとうびとうい(現同上)辺りに村立てしたが(「球陽」同年条)、漁を生業として田畑になじまず、村が疲弊したので、同一九年新たに他村から二〇〇人余を移住させ、与人・目差役人を配置し、村の存続を図った(同書同年条)。しかし地柄が水利悪く、熱病も多発し、村の存続も危ぶまれたので、嘉慶一七年(一八一二)喜屋慶きやーぎ地方に村を移したという(「球陽」尚王九年条)

長間村
ながまむら

[現在地名]幸手市長間

中野なかの村の南東庄内古しようないふる川右岸に位置する。東は並塚ならびつか(現杉戸町)、南は広戸沼ひろとぬま(現同上)。同川の自然堤防の微高地と後背低湿地からなる。慶長六年(一六〇一)仙台伊達家の久喜鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。寛永一四年(一六三七)検地が施行されたと伝える(風土記稿)。葛飾郡幸手領に属した(同書)。田園簿では田二〇八石余・畑九一石余、ほかに野銭永五五文があり、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本鵜殿領・同山田領で、以後幕末まで両家に伝えられたが、寛政七年(一七九五)検地の新田一石余は幕府領であった(「風土記稿」・旧旗下相知行調など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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