日本歴史地名大系 「門伝村」の解説 門伝村もんでんむら 山形県:山形市旧南村山郡地区門伝村[現在地名]山形市門伝・明神前(みようじんまえ)・阿弥陀(あみだ)・反町(そりまち)・才津(さいつ)・大道端(おおみちばた)・城森(しろもり)・富神前(とがみまえ)・田吹(たぶき)・富神台(とがみだい)・中屋敷(なかやしき)村木沢(むらきざわ)村の南に位置し、白鷹(しらたか)丘陵の東麓平地に立地。南西に富神山を望む。門田とも書かれた。貞治三年(一三六四)九月一一日の沙弥真季打渡状(相馬文書)に「大□□(曾禰)庄内門田」がみえ、真季は相馬讃岐守胤頼の代官に打渡している。枝郷に七ッ松(ななっまつ)・荻窪(おぎのくぼ)がある。狐越(きつねごえ)街道につながる門伝道は沼木(ぬまぎ)村から須(す)川を越えて当村の本村に入り、富神山の北から七ッ松に達し山道を経て狐越に通じていた。延享年間(一七四四―四八)建立の追分石には「右山ノ辺、左畑谷道」とみえ、狐越街道と山野辺(やまのべ)村(現東村山郡山辺町)に至る南北道が当村で交差しており、当村には出張問屋があった(横山文書)。 門伝村もんでんむら 山形県:山形市旧東村山郡地区門伝村[現在地名]山形市見崎(みさき)・梅野木前(うめのきまえ)・見崎川原(みさきがわら)・本屋敷(もとやしき)・高田(たかだ)・長表(ながおもて)・中道(なかみち)・七十刈(ななじゆうがり)・服部(はつとり)・壇野前(だんのまえ)・割田(わつた)・沖町(おきまち)・境田町(さかいだまち)・天神町(てんじんちよう)中野(なかの)村の南西に位置し、馬見(まみ)ヶ崎(さき)川(白川)西岸平地に立地。中野門伝村と通称した。最上氏改易後は山形藩領、寛文八年(一六六八)幕府領、弘化二年(一八四五)幕府領米沢藩預地、のち再び幕府直轄となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録には「中野門田村」とみえ、高五九四石余。正保郷帳には門伝村とみえ、田四八〇石余・畑一一三石余・寺社領五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by