本村(読み)ほんそん

精選版 日本国語大辞典 「本村」の意味・読み・例文・類語

ほん‐そん【本村】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 場所的に離れた分村などに対して、村の主な部分をさしていう語。
  3. 自分の属している、この村。当村。

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日本歴史地名大系 「本村」の解説

本村
もとむら

[現在地名]久居市もと町・野口のぐち町・なか町・射場いば町・井戸山いどやま町・桜が丘さくらがおか町・野村のむら町・持川もちかわ町・小野辺このんべ町・相川あいかわ町・ふじおか町・烏木からすぎ町・しん町・北口きたぐち町・明神みようじん

久居城下の外側、北と東と南を取囲むような形で位置する村で、主たる集落は俗称本郷ほんごうといい、城下のすぐ南に隣接するが、城下の東側にも野村、および小野辺という小集落があり、当村の枝村となっている。また北東部の津へ通じる街道沿いの集落を相川という。こうした環状に近い形状は、元来この村が雲出くもず川左岸の河岸段丘上の小松原一帯を占居する村であったところ、寛文九年(一六六九)その中央付近に久居城下が設置され、その地域が中抜きのように当村から除かれた結果、形成された形である。久居城下形成前の当村が野辺のんべ村と称したことは、織田信長の家臣で当地に土着したとの伝承をもつ大庄屋信藤家の近世初期古文書などにみられるところで、元禄郷帳には「古、野辺村ト申候」と注がある。


本村
ほむら

[現在地名]美土里町本郷ほんごう吉田よしだ多治比たじい

横田よこた村の西に位置し、西は山県郡に接する。北西にかしら津古つこ(六八九メートル)、南に津々羅つづら(六九八・八メートル)がそびえ、その間から流れ出る本村川が北流、北西部より流れ出る上河内うえこうち川を合して横田村に入る。「国郡志下調書出帳」に「本郷、枝郷共東西南北山高、日受あしく八月下旬頃より霜降り、九月下旬頃より雪降り、至て寒冷の地に御座候」とある。「芸藩通志」は「広一里廿五町、袤一里、四面山連り、東のかた僅かに絶て隣村に接く、川一流沼水をうけて東に走る」と記す。


本村
ほんむら

[現在地名]庄原市本村町

大黒目おおぐろめ(八〇二メートル)の東麓から南麓に広がる大村で、本村川の上流域に位置する。北東は奴可ぬか未渡みど村・始終ししゆう(現比婆郡東城町)、南西は上谷うえだに村・みね村と接する。三上みかみ郡に属した。「和名抄」記載の三上郡三上郷の地とされ、郡名と同じ郷名であるところから、郡家所在地と推定され、本村の名もそれにちなむと考えられている。また三上郡の中心地として、式内社蘇羅比古そらひこ神社が権現ごんげん山南麓の鍬寄くわよせ山に鎮座する。平城宮出土木簡に「備後国三上郡信敷郷調鍬壱拾口 天平十八年」とみえ、三上郡は古代以来鉄の産地として知られるが、なかでも当村は幕末・明治に至るまで、その中心地であった。


本村
ならもとむら

[現在地名]安心院町楢本

塔尾とうのお村の西、津房つぶさ川中流域にあり、北は戸方とかた村。中世には津布佐つぶさ庄のうちで、同庄総鎮守とされる若宮社がある。弘治二年(一五五六)七月三日の佐田隆居討死手負注文(佐田文書)によれば、筑前国千手・馬見表合戦で「下楢本次郎三郎」が矢疵二ヵ所を負っている。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名はなく、同改帳では南東の東恵良ひがしえら村に含まれて高付されていたと思われる。なお延宝六年(一六七八)中津藩岩波源三郎の新法によって当村は上・下の二村に分れたという。中間なかま村の一部は古くは当村分で、のち同村は塔尾村に入ったという。また戸方村は上楢本からの分村という。「四日市村年代記」によれば、延宝二年には津房組一四ヵ村の一として楢本村があった。


本村
ほんむら

[現在地名]伊奈町本町・小室こむろ

柄山がらやま村の南に位置し、東は綾瀬川を隔てて埼玉郡中閏戸なかうるいど村・下閏戸村(現蓮田市)。古くは山田やまだ村と称したが(田園簿)、明暦年中(一六五五―五八)の検地後、本村と改称。村内に小室郷八ヵ村の総鎮守氷川社が所在するところから、かつての本村であるとして改めたという(風土記稿)。江戸時代の領主の変遷は小貝戸こがいと村に同じ。田園簿では田一一九石余・畑一一七石余。用水は文政年間(一八一八―三〇)綾瀬川に設置した本村堰(八幡堰とも)を利用。同川の受益村として藻刈役・川浚役を勤めている(嘉永六年「見沼井筋用水配中御用留」国会図書館蔵)


本村
もとむら

[現在地名]新島村本村ほんそん一―六丁目・式根島しきねじま

宮塚みやづか山を隔てて若郷わかごう村の南にあり、島の中央部から南部を占める。また式根島や鵜渡根うどね島・地内じない島・はや島などの小島も当村のうちである。集落は古くから島の玄関口であった西海岸のまえ浜を中心として発達し、江戸時代に島役所が置かれた。地内には島の総鎮守である十三社神社や応永年間(一三九四―一四二八)創建を伝える日蓮宗長栄ちようえい寺がある。安永三年(一七七四)の伊豆国附島々大概書によれば家数三一五・人数一千七〇九。


本村
ほんむら

[現在地名]大宮市宮町みやちよう錦町にしきちよう桜木町さくらぎちよう大門町だいもんちようなど

中山道大宮宿を構成する七組の一。同宿の北東部にある。北原きたはら村と合せて宮町とも称したが、「風土記稿」によると宮町は宿並の内で両村入会の地という。かつて大宮村と称していた頃、村民は氷川神社の大門通に居住していたが、その頃からすでに宮町は新宿中しんしゆくなか町・同下町とともに宿役を勤めていたという(天明六年「当宿七組発端」栗原家文書)


本村
ほんむら

[現在地名]珠洲市三崎町本みさきまちほん三崎町二本松みさきまちにほんまつ

細屋ほそや村の北にあり、南をの川が流れる。「三州志」に上野うわの土坂どさか川淵かわぶちの垣内がみえる。かつては鞍見くらみ村と称し、当地光楽こうらく寺の子唯真は鞍見の里の僧として山城醍醐寺で不思議の往生を遂げたという(能登名跡志)。また三崎権現(現須須神社)の渡御の際にも巡幸最後の地として仮屋を建て、「鞍見の玉居で跡玉居と云諺あり」と記す(同書)


本村
ほんむら

[現在地名]前原市本

ひがし村の南、長野ながの川流域に位置する。南は長野村、東は香力こうりき村、西は松国まつくに(現二丈町)。本・東・神在かみあり岩本いわもと加布里かふりたけ(現二丈町)の六ヵ村を川上かわかみ郷と称したという(地理全誌)正保郷帳に川上本村とみえ、田一千一七七石余・畠一八八石余。初め肥前唐津藩領であったが、延宝六年(一六七八)幕府領となる。元禄国絵図では高一千七七六石余。文政元年(一八一八)一部が対馬藩領になったとみられる(旧「福岡県史」)。明治三年(一八七〇)すべて対馬藩領となり、旧高旧領取調帳には高一千六〇四石余のほか、分郷として高一八四石余の記載がある。


本村
たるもとむら

[現在地名]妙高村樽本

土路どろ川最上流にあり、下流から下樽本・中樽本・上樽本の集落が続く。土路川の水源は毛無けなし(一〇二二・四メートル)の南方にあるぬま(現長野県飯山市)である。文政三年(一八二〇)の頸城郡細見絵図によれば上樽本・下樽本の名が記され、国境を越える道が描かれ、「信州大川村へ一里十五町四十間」とある。山中にあるためかつては木地師の居住地であったとの伝承があり、のち妙高山麓ささみね(現妙高高原町)を経てひめ川上流へ移ったと伝える。


本村
もとむら

[現在地名]熊本市大江おおえ二―六丁目・新大江しんおおえ一―二丁目・大江本おおえほん町・水前寺すいぜんじ三丁目・渡鹿とろく二丁目

東は大江村、西は九品寺くほんじ村、南は田迎手永の国府こくぶ村、北は大江村である。現高を記した慶長八年(一六〇三)の検地帳では田はなく、畑山畑計四三町六反七畝余・分米一九六石一斗余、居屋敷一町七畝・分米八石五斗余、家数三二、男二九(うち年寄二・倅四)、女二四(うち年寄四・娘一)、牛一〇・馬五がいた。


本村
くずもとむら

[現在地名]橿原市葛本町

寺川南岸の平坦村落。東に東竹田ひがしたけだ村がある。「春日社記録」中臣祐賢記の文永六年(一二六九)四月二二日条に「クスモト・竹田」とみえる。

近世初期は大野治長領。慶長郷帳の村高一二一一・九二石の大村。元和元年(一六一五)幕府領(代官角南主馬)、同五年郡山藩(松平忠明)領。同藩の二割半無地高増政策で村高一五一五・七四石。延宝七年(一六七九)再び幕府領、明治維新に至った。その間宝暦三年(一七五三)芝村藩預の時、近郷八ヵ村(常盤・木原・石原田・新賀・内膳・下八釣・吉備・膳夫)とともに重税の減免を嘆願したが容れられず、奈良奉行所に訴え、最後の手段として常盤ときわ村庄屋彦市が首謀者となり、同年五月・七月・九月・十一月、各村の惣代が上洛、京都町奉行所に箱訴した。


本村
いばらもとむら

[現在地名]岩出町

紀ノ川中流域の北側に広がる田園地帯にある。東は中迫なかばさ村。北東部を根来ねごろ川が南流し、ほぼ並行して根来往還が通る。「続風土記」は「村の乾に弁財天の叢祠あり、里人相伝ふ、昔此森に大樹あり、人其木の名を知る者なし、因りて呼て名無木ななしぎといへり、此木刺あり故に村を本と名くといふ」と記す。古くは石手いわで庄に属したと思われる。


本村
ほんむら

[現在地名]入善町本村

黒部川右岸の河口部に近い所にあり、北は蛇沢新へびさわしん村・高畠新たかばたけしん村、東は本村新村、南東は板屋いたや村。宝永元年(一七〇四)の村名由来書上(清原家文書)によると、周囲の村に先駆けて村立てしたので本村とよぶようになったという。寛永一六年(一六三九)から万治三年(一六六〇)まで富山藩領、以後加賀藩領。正保郷帳では高四八六石余、田方三二町余・畑方三反余、新田高六五一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四四五石、免三ツ五歩、小物成は野役三四匁・鱒役一匁・鮎川役五分(三箇国高物成帳)。黒部川の主流部が西に移ったため洪水にあうことが多くなり、寛文一三年九六石、貞享三年(一六八六)一一四石、宝永三年一九七石、寛延三年(一七五〇)三七石余の引高があり、同年の草高はわずか一斗まで落込んだ。


本村
ほんむら

[現在地名]藍住町富吉とみよし

成瀬なるせ村の南にあり、東は矢上やかみ村、西は東中富ひがしなかとみ村、南は正法寺しようほうじ(吉野川支流)に沿う平坦な地。中世の富吉庄の中心部を占めていたと考えられる。慶長二年(一五九七)の分限帳に本村とみえ、一一九石余が置塩領。同八年徳島藩領となる。正保国絵図では高一一八石余、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳によればこの高はすべて畠方。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳によれば蔵入高一八石余。文化八年(一八一一)には蔵入地八二石余・給地六九石余(「御触之写并住吉組村々高銀目員数控」山田家文書)。同一〇年の高都帳では高一五一石余。


本村
ほんむら

[現在地名]御調町本

岩根いわね村の東に位置する御調川北岸の村。南に湾流する御調川北岸に平坦地があり、北に御調川支流の開析谷をもつ山地が広がる。村の東部に土器散布地のアベノ遺跡と河崎かわさき古墳(円墳)がある。御調川北岸一帯には条里制の遺構が認められる。大雨の年には水害を受けることが多かったという。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では一五八一・〇七二石の浦辺うらべ村に含まれ、分村の時期は不明であるが、旧版「広島県史」所収の正徳(一七一一―一六)頃の記録に村名がみえ、高一九九・二六六石。


本村
ほんむら

[現在地名]八女市本

福島ふくしま町の北東方、八女丘陵および山間地とその麓の平地からなる。文亀三年(一五〇三)河崎かわさき庄内の金剛山正法禅しようほうぜん寺の木造薬師如来坐像が造立されているが(同年四月八日「木造薬師如来坐像墨書銘」坊の薬師蔵)、この寺は当地にあった可能性がある。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に本村とみえ、高六六九石余。本高は七六八石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一千一九五石・役高一千三七〇石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一千三七三石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田七四町一反余・開田六町八反余・畑田五町一反余・畑一一町三反余・居屋敷一町四反余。


本村
ほんむら

[現在地名]本渡市本町本

町山口まちやまぐち村の西に位置し、北は荒河内あらがわち(現天草郡五和町)、南は櫨宇土はじうと村に接する。西方のはしら(五一七・七メートル)から東流する平床ひらとこ川が当地で広瀬ひろせ川と合流する。全般に山地が多い。正保郷帳に村名がみえ、高二〇三石三斗余。御領組に属し、庄屋は鶴田家。万治二年(一六五九)石高半減により一二三石七斗余となった(天草風土考)


本村
ほんむら

[現在地名]和気町本

現和気町の最西端吉井川右岸の平地にあり、西は吉原よしわら(現赤磐郡熊山町)、南は吉井川を挟み奥吉原おくよしわら(現同上)。古くは岩生本いわなすほん村と称されたが、元禄郷帳には本村とみえるから、一七世紀末までには改名されたようである。寛永備前国絵図には岩生村、正保郷帳には岩生本村とみえ、高四八三石余。「備陽記」によると田畑四〇町一反余、家数六四・人数三八七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の本村の言及

【見島】より

…面積7.85km2,人口1320(1995)。玄武岩台地の島で,南に本村(ほんむら),北東に宇津の2集落がある。対馬暖流の影響で冬も霜をみない。…

【口永良部島】より

…屋久島北東岸の宮之浦との間に町営船が運航されているが,冬季には欠航が多い。中心集落は本村(ほんむら)で,古くから避難港として用いられ,役場の出張所,診療所,小・中学校などがある。【服部 信彦】。…

※「本村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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