開発庄
かいほつのしよう
現辰口町上開発・下開発を遺称地とし、一帯に比定される。応永二一年(一四一四)幕府は石川郡倉光(現松任市)を本領とする奉公衆倉光藤増丸に倉光のほか開発・岩内村など七ヵ所を相伝所領として安堵した(同年四月一九日「足利義持御教書」武家手鑑)。倉光氏は当地では地頭職を知行したと推定される。その後、おそらく将軍足利義教の時代に召上げられたと思われ、長禄三年(一四五九)倉光光利に還付されている(同年二月一七日「足利義政御教書」仁和寺心蓮院文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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