間崎滄浪(読み)まざき・そうろう

朝日日本歴史人物事典 「間崎滄浪」の解説

間崎滄浪

没年:文久3.6.8(1863.7.23)
生年:天保5(1834)
幕末の土佐(高知)藩郷士。本名則弘,通称哲馬。滄浪は号。早くより才覚を表し土佐の三奇童のひとりと称された。嘉永2(1849)年16歳にして江戸に遊学,安積艮斎に入門,塾頭に抜擢された。遊学3年にして帰郷,城下に学塾を営み子弟を訓育し評判が高かった。また吉田東洋の少林塾にも学んだ。徒士になり浦役人や文武下役に任じたが上役と衝突して罷免された。文久1(1861)年再び江戸に上り安積の塾に投じ同門の幕臣山岡鉄太郎と親交,また武市瑞山と意気投合し,土佐勤王党に加盟。2年に上洛,在京の勤王党幹部平井収二郎らと勤王運動に適合する藩政改革を計画,中川宮朝彦親王令旨を得たが,隠居山内容堂(豊信)の激怒を招き,平井,弘瀬健太らと切腹の刑に処せられた。<著作>詩集『滄浪亭存稿』<参考文献>平尾道雄『間崎滄浪』

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「間崎滄浪」の解説

間崎滄浪 まさき-そうろう

1834-1863 幕末の武士
天保(てんぽう)5年生まれ。土佐高知藩士。安積艮斎(あさか-ごんさい)の門にまなび,塾頭となる。帰郷して家塾をひらき,土佐勤王党で活躍。文久2年弘瀬健太らとともに中川宮朝彦親王の令旨(りょうじ)をえて藩政改革をすすめようとしたが,前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))の怒りをかい,3年6月8日自刃(じじん)を命じられた。30歳。名は則弘。字(あざな)は士毅。通称は哲馬。

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