フランスの画家。司法省の高官を父とし、有力な外交官の娘を母に、1月23日パリの富裕なブルジョアの家庭に生まれる。マネのいかにも都会的な洗練された趣味は、この家庭に由来する。絵の道を歩もうとする彼は、法律家になることを望む父親との間に意見の対立をみ、妥協策として海軍兵学校入りを決意するが、入学試験に二度も失敗。結局、父親も折れ、1850年にトマ・クーチュールThomas Couture(1815―1879)のアトリエに入る。師との間にはときおり意見の相違はあったものの、彼は師から偉大な色彩画家に対する愛好を受け継ぎ、またハーフトーンを排して明部と暗部を唐突に対比する表現技法を学び、このアトリエに6年間とどまる。その間、1853年にイタリア旅行、さらに1856年にはオランダ、ドイツ、オーストリア、イタリアなどを旅行し、過去の巨匠の作品を研究した。1859年『アプサントを飲む男』をサロンに送るが落選、1861年のサロンで『両親の肖像』と『スペインの歌い手(ギタレロ)』が初入選して、後者はテオフィール・ゴーチエの賞賛を得た。それはマネのスペイン趣味を顕著に示すものであり、1860年代の彼の作品にはしばしばスペイン絵画、とりわけベラスケスやゴヤの影が色濃く認められる。
1863年のサロンに落選し、同年開催の落選展に出品した『草上の昼食』は、批評家や観衆の間にごうごうたる非難を巻き起こし、さらに1865年のサロン出品作『オランピア』もまた物議を醸した。両作品とも裸体の女が描かれているが、その十分な肉づけが施されていない平坦(へいたん)な描き方が不評だったのみならず、ニンフやビーナスやオダリスクといった神話的・異国的世界の裸婦ではなく、現実の世界の裸婦を描いたことが、非難と罵声(ばせい)の原因ともなった。とりわけ後者は第二帝政期の高級娼婦(しょうふ)を想起させる。いずれもジョルジョーネやティツィアーノの作品が発想源になっているが、過去の作品のもつ夢幻的雰囲気は排除されて、現代性が力強く表出されている。「自らの時代の人間であらねばならない」というのがマネの信条であり、1850年代以来親交を結んだ詩人ボードレールの説く「現代生活の英雄性」にも反応した。1862年の『チュイルリー公園の音楽会』はその最初の実現と考えられている。しかし彼の作品の多くは、過去の芸術を発想源にしており、その現代性は伝統の尾を引きずっている。
1860年代後半、ゾラをはじめマネを擁護する批評家も登場。また、彼の周囲には、のちに印象派を形成する若い画家や批評家が集まって、彼は新しい芸術の指導的な存在と目されるようになる。1870年代、明るい色彩による筆触分割の手法を取り入れ、印象派の影響がみられるようになるが、若い画家たちの強い要請にもかかわらず、印象派展には一度も参加せず、サロンが画家にとっての真の闘いの場であると考え、サロンへの出品を続けた。
晩年は脚(あし)の病に苦しみ、静物画や肖像画をおもな画題とし、パステルを多用した。しかし、最後の大作『フォリー・ベルジェールの酒場』(1882)によって「現代生活の英雄性」がみごとに表現されている。1883年4月30日、51歳でパリに没。
マネの絵にしばしばみられるよそよそしさ、人間相互の冷ややかさは、主題に対する無関心や意味作用の抹殺、造形性の重視とも解され、造形要素の自立性を強調した純粋絵画の誕生をマネに帰そうとする傾向がある。しかし近年では、彼の絵のなかに寓意(ぐうい)的意味を読み取ろうとする試みも多く、マネはいまだに議論の絶えない画家の1人である。ともあれ、彼は現実に対する生き生きとした好奇心と傍観者的冷ややかさ、高度に洗練された趣味と感覚的喜びを兼ね備えた「ダンディ」であったことに間違いない。
[大森達次]
『P・クールティヨン解説、千足伸行訳『マネ』(1968・美術出版社)』▽『佐々木英世解説『現代世界美術全集1 マネ』(1970・集英社)』▽『H・ペリュショ著、河盛好蔵訳『マネの生涯』(1983・講談社)』▽『A・プルースト著、野村太郎訳『マネの想い出』(1983・美術公論社)』▽『P・ゲイ著、川西進他訳『芸術を生みだすもの』(1980・ミネルヴァ書房)』▽『阿部良雄著『群衆の中の芸術家――ボードレールと19世紀フランス絵画』(1979・中央公論社)』
フランスの画家。写実主義と印象主義の両方に通じる資質を持つ。パリ生れ。高級官僚の父は息子が絵画の道に進むのに反対し,海軍にはいることで両者は妥協をするが,2度も入学試験に失敗して父はその将来をあきらめる。クチュールThomas Coutureのアトリエに6年間と,並行してアカデミー・シュイスに通う。クチュールは彼の才能を評価せず,マネは1855年の万国博覧会で,とくにクールベの強烈な個性に驚嘆する。次いでドイツ,オランダ,イタリアなどに旅行し,レンブラントやティツィアーノを研究。帰国後の作品はベラスケス風の明暗の強いコントラスト,力強い筆づかい,平坦な画面が特徴で,その斬新さにサロンはこれを拒否し(《アブサンを飲む男》1859),ボードレールは感嘆する。そして彼の周囲には批評家シャンフルリー,ゴーティエなども集まって,マネの展開する新しい世界(都市のブルジョアジーのエネルギー,オペラやカフェ・競馬などの娯楽生活)に賞賛を送った。これらは広くは写実主義(レアリスム)と呼ばれる傾向にはいりうるが,クールベほどには政治的でなく,彼の地方性と風景画に対し,マネはより享楽的な都会生活を主題にとり上げた。しかしはるかに洗練されてはいるものの,その非妥協性はクールベに劣らず,道徳的タブーに縛られた偽善的価値観に真っ向から挑戦する。たとえば,63年の落選展の《草上の昼食》においては,ラファエロやジョルジョーネの作品を下敷きにしながら,それを神話のベールに包むことなく同時代の風俗として描き,65年のサロン(官展)出品の《オランピア》では,それがビーナスでなく一人の娼婦であることを明示して攻撃の的となった。このようにロマン派以来言われてきた〈その時代のものであれ〉というモットーは,マネにおいてますます深く追求され,あらゆる意味で時代の尖鋭な描き手であろうとした。その革新性を慕って多くの若い画家たちが彼のもとに集い,彼はバジル,モネ,ルノアールらと交わり,またドガらが加わって,後の印象派を形成することになる。72年ころからモネやルノアールとの交流が深まり,共にアルジャントゥイユで戸外制作し,明るい色を用いた筆触分割の手法を取り入れるようになるなど,印象派からの影響もみられる。しかし74年からの印象派展には参加せず,サロンに作品を送り続ける。これは彼によれば,他の印象派の画家たちよりも少しは出品の機会を多く持っていた自分が,その場に踏みとどまって戦い続けるという意思表示であった。晩年は健康にすぐれず,庭や静物,肖像画などを多く描いたが,マラルメやゾラとの友情を深めながら,都会生活の多様な側面に興味を示し続け,《フォリー・ベルジェールのバー》(1881)のような作品にその魅力を集約した。洒脱な都会人でシニカルで負けず嫌いのマネは,当時流行した真の〈ダンディ〉の一人でもあった。
執筆者:馬渕 明子
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1832~83
フランスの画家。古典派にあきたらず,明快な新しい色感をもって「草上の食事」「オランピア」を描き,印象派運動の契機をつくった。作品に「ボン・ボック」「笛吹く子供」「ゾラ像」など。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1860年代から80年代にかけてフランスで起こった,絵画を中心とする芸術運動。ルネサンス以来の大きな変化を美術表現にもたらしたといわれ,欧米のみならず日本にもその影響は及んだ。印象主義の概念は音楽に対しても用いられる。
【美術】
[起源と先駆]
印象主義の行った革新は,新しいものの見方といくつかの新技法に支えられているが,それはルネサンス以来の多様な努力が体系化されたものである。部分的には,印象派を先取りする動きが18世紀終りごろから見られるようになる。…
…肌をあらわにむき出す意の〈はだあか(肌赤,膚明)〉がつまった〈はだか〉は,衣服を身につけない状態のことをいう。D.モリスは,人は他の霊長類や哺乳類のような毛皮がない〈裸のサルnaked ape〉であるというが,毛皮の代りに衣服をまとって寒を避け,危険を防ぎ,身を飾る。太古の人類には衣服がなかったが,現在もアフリカ,アジア熱帯地方には裸体で生活する民族がいる。ギリシア語ギュムノスgymnosは〈裸の〉という形容詞で,英語のgymnosperm(裸子植物)などに今も残っている。…
※「マネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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