朝日日本歴史人物事典 「阿多忠景」の解説
阿多忠景
平安末期の南九州の在地豪族。保延4(1138)年薩摩国(鹿児島県)阿多郡司。別名は財久吉。肥前平氏系の良道の子。兄弟に薩摩,頴娃,揖宿,知覧郡司の祖忠永,加世田別符郷司の祖忠明らがいた。久安6(1150)年阿多権守と称し,薩摩平氏の総領となる。豊後を主に勢力を伸ばした源為朝は女婿で,忠永と謀反を企て薩摩一国を押領し,大隅,日向の在庁に関与,島津庄を押領し南九州に覇を唱えた。が保元の乱(1156)で為朝が敗れると,忠景も勅勘を蒙り,喜海(硫黄)島に逃亡没落。あとは子孫が継いだ。『三国名勝図会』に載せる阿多の「高橋殿(高橋は阿多郡内の3郷のひとつで阿多郡司の所領か)の御代ならば黄金の桝で米計る」という長者伝説は忠景の富裕振りを示している。<参考文献>五味克夫「平安末・鎌倉初期の南薩平氏覚書」(『鹿児島大学法文学部紀要文学科論集9』)
(三木靖)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報