硫黄島(読み)いおうじま

精選版 日本国語大辞典 「硫黄島」の意味・読み・例文・類語

いおう‐じま いわう‥【硫黄島】

[一] 小笠原諸島の南西部、硫黄列島の中央にある火山島。中硫黄島ともいう。面積二二・三六平方キロメートル。太平洋戦争の激戦地。戦後、アメリカに施政権があったが、昭和四三年(一九六八)日本に復帰し、東京都に編入。いおうとう。
[二] 鹿児島県大隅諸島の北西方にある火山島。面積一一・七八平方キロメートル。硫黄岳(七〇四メートル)がある。平安時代に俊寛が流された場所といわれる。硫黄が島。鬼界ケ島。喜界ケ島。薩南硫黄島。吐噶喇(とから)硫黄島。

いおう‐が‐しま いわう‥【硫黄島】

※平家(13C前)二「鬼界が嶋へぞ流されける。〈略〉硫黄と云ふ物みちみてり。かるがゆへに硫黄が嶋とも名付たり」

いおう‐とう いわうタウ【硫黄島】

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デジタル大辞泉 「硫黄島」の意味・読み・例文・類語

いおう‐とう〔いわうタウ〕【硫黄島】

東京都、小笠原諸島の南西、硫黄列島の中央の火山島。第二次大戦の激戦地。現在は自衛隊の基地が置かれている。中硫黄島。いおうじま。
菊村到短編小説。昭和32年(1957)発表。同年、第37回芥川賞受賞。昭和34年(1959)映画化。
[補説]明治時代以降「いおうとう」と呼称されていたが、第二次大戦で占領した米軍が「いおうじま」と呼んだ。昭和43年(1968)の返還後は旧呼称に復したが、昭和57年(1982)の地図改訂で「いおうじま」と誤記されて以降この呼称が定着。平成19年(2007)に元島民らの要求が受け入れられ、国土地理院海上保安庁によって「いおうとう」の呼称が正式とされた。

いおう‐じま〔いわう‐〕【硫黄島】

いおうとう(硫黄島)
鹿児島県の火山島。三島村みしまむらに属する。かつては硫黄の採掘が行われていた。俊寛しゅんかんの流された所といわれ、墓がある。薩摩さつま硫黄島。鬼界きかいヶ島。いおうがしま。

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日本歴史地名大系 「硫黄島」の解説

硫黄島
いおうじま

[現在地名]三島村硫黄島

鹿児島港から一〇八キロの洋上にある。主峰硫黄岳(七〇三・七メートル)が噴煙を吐く周囲一四・五キロの火山島。古くは鬼界きかい島とよばれたとされ、俊寛説話で知られる。海岸は鬼界カルデラの壁で、ほとんどが断崖。東は新硫黄しんいおう(昭和硫黄島)を挟んでたけ島、西はくろ島。北方約五〇キロに薩摩半島南端の枕崎市、南方約四〇キロに屋久島がある。面積一一・七八平方キロ。元禄国絵図には島回二里五町とあり、権現・へいけの城などの記載がある。また「三国名勝図会」では鹿児島から三一里、山川やまがわ(現山川町)から一八里。また硫黄岳について「海上より聳へ立ち、形状奇高なり、土俗の説に、登り三里、下り一里といへども、大抵半里許もあるべし、山面都て焼石にて艸木生ぜず、山の半腹より上は処々硫黄燃上り、山頂最も多く燃出づ」などとみえる。

〔古代・中世〕

古代以来、記録・物語類にみえる貴海島・鬼界島などは硫黄島にあたるとする説がある。中世は薩摩国河辺郡十二島のうち口五くちご島に属し、地頭職・郡司職が設定されていた。また中世には流刑地、硫黄産出地として知られていた。「平家物語」巻二は治承元年(一一七七)俊寛・平康頼・藤原成経の配流地を「薩摩潟鬼界が島」とし、延慶本「平家物語」は配流地の鬼界島を島のなかに火山島があり、硫黄を産するので油黄島と名付けられたとしている。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)九月二二日条に「貴海島」とみえ、阿多忠景が勅勘を被って逐電したという。忠景は硫黄島で没したという説がある(「谷山氏系図」川辺郷土史)。正嘉二年(一二五八)に平内俊職が流されたといい(「吾妻鏡」同年九月二日条)、弘安元年(一二七八)には殺害人松夜叉丸が流されている(同二年四月一一日「六波羅御教書」旧記雑録)。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)にみえる河辺郡十二島に含まれた。文保三年(一三一九)東福とうふく(現鹿児島市)で禁を犯した家臣は当島に流される定となった(同年二月五日「島津忠宗禁制」旧記雑録)。元弘の乱では関東調伏を祈祷した科で文観が流された(「太平記」巻二)。興国四年(一三四三)河辺郡「黒島硫黄郡司職」が、かめまつ丸に与えられた(同年一〇月二二日「某書下」旧記雑録)。応永年間(一三九四―一四二八)当島は黒島・竹島とともに「三島」とよばれ、守護島津久豊から種子島氏に与えられた(種子島家譜)

「海東諸国紀」の九州之図や、明代の一五五七年刊の「日本一鑑」の絶海新篇図などに島名が記載され、「万暦三代征考」の日本総図には硫黄山とみえる。

硫黄島
いおうじま

火山かざん列島(硫黄列島)の中心島で、ちち島の南南西約二七五キロに位置する。「いおうとう」ともよぶ。火山島で、島内のいたるところに噴気孔がある。面積は二二・三六平方キロ。島の南西端に最高峰の摺鉢すりばち(一六一メートル)がある。明治二〇年(一八八七)東京府知事高崎五六が島を巡視、同二二年田中栄二郎が硫黄採掘と漁業基地建設の目的で渡島している。同二四年正式に日本領土となり、東京府の所管となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「硫黄島」の意味・わかりやすい解説

硫黄島 (いおうじま)

薩摩硫黄島,鬼界ヶ島ともいう。鹿児島県薩摩半島南岸の南方約50kmの東シナ海にある火山島。東方約10kmの竹島,西方約30kmの黒島とともに鹿児島郡三島村に属し,口之三島の一つ。東西約6km,南北約3km。竹島とともに鬼界カルデラ(カルデラの直径東西約22km,南北約13km,形成時期不明)の北外縁に位置する。北端部から南西部にかけては先カルデラの火山体で,標高約300m以下の山地または台地からなる。東部から南東部は後カルデラ火山で,東部に主峰硫黄岳(704m)が,南西部に小型スコリア丘稲村岳(約240m)がある。硫黄岳は急峻な円錐形成層火山で,山頂に直径約500mと200mの2火口がある。山頂火口および山腹各所で激しい硫気活動があり,そのあるものはきわめて高温(850℃)で,火山ガスの研究上重要である。硫気孔では藩政時代から1960年代前半まで硫黄を採掘していた。南西部に唯一の集落長浜と港があり,零細な農漁業が営まれている。人口114(2010)。東方約2kmにある新硫黄島(標高25m)は1934年の海底噴火で水深300mの海底から溶岩が噴出し,形成されたもの。
執筆者:

産出する硫黄で海面まで黄色くなるのでかつては黄海ヶ島,鬼界島,貴海島と呼ばれた。1177年(治承1)平氏の六波羅政権を倒す計画に失敗した俊寛,藤原成経,平康頼らが配流された島で(《愚管抄》),《平家物語》では鬼界島と書かれている。成経,康頼が大赦で帰島後,俊寛は悲嘆のなかで没した。これは俊寛説話として著名であり,本島に俊寛を祭った御祈神社や俊寛堂がある。同じころ勅勘をこうむった南薩摩の豪族阿多平四郎が本島へ逃亡し,六波羅から追討使が派遣されたが渡海に失敗した。1186年(文治2)河辺平太道綱が本島へ逃亡し,翌年には義経同意のやからが隠れているという疑いがあったため,源頼朝は宇都宮信房と鎮西九国奉行天野遠景をつかわして本島で合戦し,これを帰順させた(《吾妻鏡》)。島内の記録によれば,壇ノ浦で敗れた平資盛と安徳天皇一行は本島に逃れ,1243年(寛元1)安徳天皇はここで没したと伝え,安徳帝陵,黒木御所,硫黄大権現宮など関係史跡がある。この平家落人伝説は1773年(安永2)薩摩藩へ提出された《平家没落由来記》以後知られることとなった。1331年(元弘1)北条氏調伏の罪で文観が本島へ配流され,4年後赦免された(《太平記》)。
執筆者:

硫黄島 (いおうじま)

小笠原諸島のうち硫黄列島の三つの火山島の真ん中にある島。別名,中硫黄島。第2次世界大戦後,アメリカ軍の施政下にあったが,1968年復帰し,現在は東京都小笠原支庁小笠原村に属する。面積20.2km2。第2次大戦末期に日本兵が全員玉砕した島である(硫黄島作戦)。火山島といっても付近の南・北硫黄島とは構造が異なり,南端の小円錐形で大きな火口のある活火山(摺鉢山,161m)と標高100m余の平たんな凝灰岩層の台地(元山火山)とが結合して一つの島を形づくっている。摺鉢山は硫黄を噴気するだけで爆発性の活動はしていない。元山火山体は元来海底火山の噴出物(おもに火山砂礫)がまず海底に堆積した後,ドーム状隆起運動を行って海面上に現れたもので,この運動は現在も続いている。1950年以降の測定により島の北東部で最大10mをこえる隆起量が確かめられ,間欠的な地盤上昇の結果,10段の階段状地形が島の周囲の海岸付近に残っている。地熱が高く最高温度は元山付近で観測され,100℃をこえるところもある。飲用に耐える地下水が得られず,天水以外の水源はない。1944年の強制引揚げ以前には1100人余の人口があり,硫黄の採掘やサトウキビの栽培をしていたが,現在は戦前および日米激戦地としての戦中の面影はほとんどない。
小笠原諸島
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「硫黄島」の意味・わかりやすい解説

硫黄島
いおうとう

東京都小笠原諸島の南部,硫黄列島中最大の火山島。活火山で,常時観測火山。別称中硫黄島。小笠原村に属する。海上自衛隊航空基地がある。台地状をなし北東部に元山(115m),南西端には円錐火山の摺鉢山(169m)がある。硫気を噴出し地熱も高い。過去たびたび噴火を起こしており,近年では 2012,2013年に小規模な水蒸気爆発があった。島の隆起を示す海岸段丘断層崖が発達し,今日でも活発な隆起活動が続いている。無人島であったが,安永8(1779)年ジェームズ・クックの探検隊が発見,1891年日本領有後移民が居住。漁業,硫黄採集や熱帯農業に従事した。太平洋戦争の激化に伴い,住民は全員本土に引き揚げ,その後戦史に残る激戦場になった(→硫黄島の戦い)。第2次世界大戦後アメリカ合衆国の軍政権下にあったが,1968年日本に返還された。面積 23.16km2

硫黄島
いおうじま

鹿児島県南部,薩摩半島南方約 40kmの洋上にある火山島。活火山で,常時観測火山口之三島の一つで三島村に属する。最高点は硫黄岳(704m)。硫黄岳は流紋岩からなる成層火山で,噴気活動が活発。1934~35年東方 2kmの海底で溶岩の流出を伴う大規模な噴火が起こり,新島(昭和硫黄島)が形成された。地名の由来となった硫黄採掘は 1964年まで行なわれた。諸説ある鬼界ヶ島の所在地の一つといわれ,鬼界ヶ島の別名をもつ。1994年全国で初の村営飛行場として薩摩硫黄島飛行場が開港した。定期船で鹿児島港と結ばれている。面積 11.65km2。人口 150(2000)。

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世界大百科事典(旧版)内の硫黄島の言及

【境】より

…堺とも書く。あらゆる事物や空間を区切るさまざまな仕切り(境界)。歴史上,境は原始社会から現代に至るまで,小は家と家の境,耕地と耕地の境などから,大は国郡などの行政区分上の境や国境まで普遍的に存在する。 日本の古代では,山や川などの天然・自然の境界物が基本的な境とされていた。《出雲国風土記》に登場する国堺・郡堺の記載50例(重複を含む)をみると,山が15例,水源1例,川が10例であり,さらに埼3例,浜1例,江1例を加えれば,国郡の堺の7割が自然の境界だった。…

【三島[村]】より

…人口513(1995)。薩摩半島南方40~50kmの海上にある口之三島(くちのみしま)(竹島,硫黄島,黒島)からなる。いずれも火山島で,なかでも硫黄島は常時噴煙を上げている。…

※「硫黄島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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