日本大百科全書(ニッポニカ) 「雁門関」の意味・わかりやすい解説
雁門関
がんもんかん
中国、山西(さんせい/シャンシー)省北部、代(だい)県の北方に位置する交通、軍事上の要地。滹沱河(こだが/フートゥオホー)と桑乾河(そうかんが/サンカンホー)の分水嶺(ぶんすいれい)である恒山(こうざん/ホンシャン)山脈を越える隘路(あいろ)として、古くから句注陘(くちゅうけい)の名で知られており、また句注塞(さい)の名もあるように、要害の地として軍事上も重視されていた。戦国時代、趙襄子(ちょうじょうし)が現在の河北(かほく/ホーペイ)省蔚(うつ)県付近にあった代国を紀元前457年に滅ぼした際も、前漢初期に高祖劉邦(りゅうほう)が匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に白登(はくとう)山(山西省大同(だいどう/タートン)市付近)で包囲された際も、いずれも句注陘を越えている。唐になると、現在の雁門関の西側の雁門山上に関が設けられたが、宋(そう)においても、契丹(きったん)に対する防衛上重視された。その後、元(げん)によって一時廃止されたが、明(みん)初にふたたび現在の内長城沿いの位置に移設された。明代(1368~1644)には、モンゴル高原にあった諸部族が間断なく侵攻を繰り返したため、万里の長城に設けられた雁門関は、偏頭(へんとう)関(山西省偏関県)、寧武(ねいぶ)関(山西省寧武県)などとともに、山西三関の一つとして重要視された。
[關尾史郎]