「日本書紀」にみえる孝徳天皇の宮。645年(大化元)の難波遷都により造営を開始し,将作大匠の倭漢直(やまとのあやのあたい)荒田井比羅夫が造営を担当して652年(白雉3)に完成する。宮殿は言葉に表せないほど立派であったという。孝徳天皇の死後も存続するが,686年(朱鳥元)1月,火災により焼失する。大阪市中央区法円坂で発掘された前期難波宮に比定する説が有力。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…また推古朝には難波に四天王寺が建立され,613年(推古21)に難波と飛鳥京を結ぶ大道が置かれ,外客接待のための大郡(おおごおり)や三韓館も難波に設けられたという。645年(大化1)中大兄皇子らは蘇我氏を滅ぼした後,孝徳天皇を擁立して都を難波に移して難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮を営んだ。孝徳天皇の没後,都は大和へかえったが,天武朝には679年(天武8)に羅城を築き,683年に飛鳥の都のほか難波にも都を造ることが詔された。…
…1954年以来の発掘調査によって,上町台地北端部の大阪市中央区法円坂町の地を中心に前期・後期2時期の宮殿址が発見された(図)。前期難波宮は孝徳朝の難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮,後期難波宮は聖武朝に再建された奈良時代の難波宮の遺構であると考えられる。前期・後期難波宮ともに主として内裏・朝堂院など中心部の状況が明らかにされており,その宮域は未確認であるが約1km四方と推定されている。…
…645年(大化1)6月,飛鳥板蓋(いたぶき)宮における蘇我入鹿暗殺事件を発端としていわゆる大化改新が開始されるが,同年12月,孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(ながらとよさき)に移した。東漢直荒田井比羅夫を将作大匠として造営された難波宮は,難波長柄豊碕宮と号され,652年(白雉3)完成し,その宮殿の形状は言葉に尽くしがたいほどりっぱであったという。孝徳天皇が654年長柄豊碕宮で没すると,都は再び飛鳥にかえった。…
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【白鳳期】
白鳳時代から始まる最大の造営事業は,都城と宮殿に関するものであった。645年(大化1)乙巳(いつし)の変以後の難波遷都で巨大な難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)が造営され(難波宮),大陸風の街区と大路のある都城も計画されたらしい。宮は上町(うえまち)台地の最高点に大殿をおき,内裏と朝堂院を一連の壮大な建築群として縦列した。…
※「難波長柄豊碕宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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