大坂城(読み)オオサカジョウ

デジタル大辞泉 「大坂城」の意味・読み・例文・類語

おおさか‐じょう〔おほさかジヤウ〕【大坂城/大阪城】

大阪市中央区にある城。豊臣秀吉石山本願寺跡に、天正11年(1583)から3年かけて築いた。名古屋城熊本城とともに三名城の一。元和元年(1615)大坂夏の陣で落城し焼失。江戸時代に再建され、幕府の直轄で城代を置いた。その後、数度の火災と修築を経て明治元年(1868)大部分を焼失。昭和6年(1931)天守閣を復興。金城。錦城。

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共同通信ニュース用語解説 「大坂城」の解説

大坂城

豊臣秀吉が1583年、築城に着手し、5層の大天守や多くのやぐら、御殿などを配した絢爛けんらん豪華な城だったという。1615年の大坂夏の陣で焼失し、豊臣家も滅亡。江戸幕府は城跡に数メートル~数十メートルの盛り土をして豊臣時代の遺構を完全に埋め込み、全く新しい大坂城を築いた。しかし、その天守も65年に落雷で全焼。1931年に市民の募金で鉄筋コンクリートの天守が再建された。現在、地上に残っている堀や石垣はいずれも徳川期で、豊臣期のものはない。

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改訂新版 世界大百科事典 「大坂城」の意味・わかりやすい解説

大坂(阪)城 (おおさかじょう)

大阪市中央区にある城跡。金(錦)城ともいう。城の位置する上町台地の北端は,北側に淀川,東に大和川支流と低湿地,西は平地から海に臨み,南方にのみ台地が続くという要害の地である。戦国時代,1532年(天文1)本願寺がここを本拠とし,御堂を中心に寺内町をつくり,濠,土塁を築いて城構えをしたのにはじまる。統一政権樹立を目ざす織田信長は,本願寺に大坂からの退去をせまり,両者の対立は11年にわたる石山合戦に発展した。石山の城は容易に落ちず朝廷の斡旋で和議が成り,本願寺は紀州鷺森に移り,そのさい寺内は炎上した。信長は城を手中にしたが,築城をみずに本能寺の変で急死した。その後1583年(天正11),賤ヶ岳の戦の勝利で信長の後継者の地位を確立した羽柴(豊臣)秀吉が入城,ただちに築城を開始した。まず本丸・内濠の石垣普請が始められ,このとき各国から集めた武士人足の数は2万~3万人と伝える。85年春には天守,本丸御殿以下が竣工。86年からは前回をはるかに上まわる規模で二の丸,外濠の普請,作事が行われ,88年に三の丸の普請が再開されたと思われる。94年(文禄3)には総構(そうがまえ)の濠が整備されるとともに,朝鮮使節を迎える千畳敷大広間が造られた。秀吉の没後,嗣子の秀頼が伏見城から移り,ここを居城としたが,1614年(慶長19),徳川家康と不和を生じ,大坂冬の陣が起こることとなった。籠城する豊臣方は善戦したが,結局和議が成り,その条件を曲解した徳川方は,惣堀のみならず二の丸・三の丸の濠までも埋めた。翌15年(元和1)の大坂夏の陣で豊臣方は敗れ,大坂城は猛火の中に落城した。

 戦後,1619年に徳川幕府は大坂を直轄地とし,以後城代を置いて統轄,守衛させることとした。一方,20年から藤堂高虎の縄張りで城の再築をはかり,まず三の丸,二の丸と東・西・北3面の外濠の普請が行われ,22年には本丸の天守台,24年(寛永1)からは本丸・内濠,28年には二の丸の南面外濠の普請が,伏見廃城の石などを用いて西国諸大名の助役で行われた。こうして再建はなったが,65年(寛文5)雷火で天守を失い,1868年(明治1)には鳥羽・伏見の戦に敗れた幕府軍がここに拠ったため戦火をこうむり,大半の建物を焼失した。その後は陸軍の管理下にあったが,太平洋戦争で再び被災した。

 現存する遺構はすべて徳川再築のものであり,〈肥後石〉〈蛸石〉などの巨石を積んだ石垣の高さ,水濠,空濠の広さは徳川幕府の権力を誇示するものであった。江戸時代の天守,本丸御殿は江戸城に次ぐ規模をもち,まわりに三重櫓と多聞櫓を連ねていた。二の丸の西・南・東側の部分には城代・加番の大名邸があり,北側には倉庫群,そして南西,南東,北西,北東に大手口,玉造口,京橋口,青屋口の四門があった。現存する建物は,本丸焰硝蔵,二の丸千貫櫓など13棟にすぎない。

 豊臣時代の大坂城のことは長い間謎とされてきたが,発掘調査などで近年かなり明らかになってきた。築城時の指図と思われる棟梁中井家の〈本丸図〉によると,本丸は徳川時代とかなり異なり,南に表向御殿,中央に秀吉・北政所の住む奥向御殿,その北東隅に天守があった。天守は石垣内一部2階,石垣上6階で,旧黒田家蔵《大坂夏の陣図屛風》にその外観が描かれている。現在のコンクリート造の天守は,徳川期の天守台石垣上に,この絵をもとに復元したもので,1931年に竣工した。豊臣時代の二の丸は徳川時代とほぼ同じだが,外濠はずっと狭かった。また《冬の陣図》などによると,玉造門外に算用曲輪(くるわ),京橋門外に篠の丸,大手口門外にも大きな曲輪があり,三の丸とはそれらの総称として,また大手口の曲輪の呼称として使われたらしい。冬の陣のさいに防御線となった総構は,東は猫間川,北は淀川,西は東横堀川,南は今の空堀通にあった空濠からなっていた。その内側には大名邸や社寺,町家があり,城下町の中核をなしていた。豊臣時代の石垣の一部は,本丸の地下や南外濠,森の宮などから発見されており,建物の軒先を飾った金箔押しの瓦も出土している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大坂城」の意味・わかりやすい解説

大坂城
おおさかじょう

戦国期から江戸期の城。大阪市中央区大阪城にある。金城(錦城)(きんじょう)ともいい、明治以後は大阪城と書かれる。南から北に延びた高さ20メートルほどの台地が淀川(よどがわ)流域の低地に突き出た北端(上町台地(うえまちだいち))に位置し、大和川(やまとがわ)がその東を巡り、三面を水に囲まれた要害の地に築かれていた。城は歴史的にみて、石山本願寺の時代、豊臣(とよとみ)氏の時代、徳川氏の時代の3期に分けられる。1496年(明応5)蓮如(れんにょ)がここに別院を設けたのに始まり、1532年(天文1)山科本願寺(やましなほんがんじ)が焼き討ちされたあと、10世証如(しょうにょ)によって本願寺がここに移された。証如は加賀から城づくりを呼び寄せ、堀を掘り塀を巡らせ、城塞(じょうさい)と化したのである。そのため石山本願寺は石山城ともよばれた。のち本願寺は天下統一途上の織田信長と対立し、武田信玄(たけだしんげん)、毛利元就(もうりもとなり)、浅井長政(あさいながまさ)らと結んで信長と戦い、1570年(元亀1)から10年間にわたって信長を苦しめることになるが、これを普通、石山合戦とよんでいる。1580年(天正8)和議が結ばれ本願寺は石山寺を退去し、信長は池田恒興(いけだつねおき)に守らせていたが、本能寺(ほんのうじ)の変(1582)ののち、この地の経済上、地理上の位置に着目した豊臣秀吉によって翌1583年三十数か国から数万の人夫を動員して大修築工事が行われ、1585年ほぼ完成したのである。本丸、二の丸、三の丸のほか、のちには外郭(総構(そうがまえ))を整備し、天下統一の覇者にふさわしい大城郭で、本丸には五層八重の天守閣が建てられていた。秀吉が伏見城(ふしみじょう)に移り病没したあと、子の秀頼(ひでより)が継いだが、1614年(慶長19)大坂冬の陣が起こり、そのときの講和条件によって、総構の堀、三の丸の堀はもとより、二の丸大手の堀まで埋められてしまい、本丸だけを残す裸城となってしまった。ついで翌1615年(元和1)の夏の陣では天守閣以下の建物が次々と焼け落ち、城は落城し、豊臣氏は2代で滅亡したのである。

 その後、城には徳川家康の外孫松平忠明(ただあきら)が10万石で入ったが、幕府は1619年ここを直轄地とすると同時に大修築を加えることになった。このとき幕府は、豊臣氏時代の大坂城の上に約10メートルほどの土盛りをし、石垣もすべて埋めてしまったうえで、まったく新しい縄張りで徳川氏の大坂城を築き上げている。したがって、現在目にする城の遺構はすべて徳川氏の手による大坂城である。城には大坂城代が置かれ、明治維新に至った。なおその間、1660年(万治3)青屋口の火薬庫に落雷して多大の被害があり、1665年(寛文5)には天守閣に落雷して焼失してしまった。現在ある復興天守は1931年(昭和6)に豊臣氏時代の天守を模造してつくられたものである。現存の櫓(やぐら)としては西の丸の千貫櫓(3層)、乾櫓(いぬいやぐら)、二の丸の一番櫓、六番櫓などがあり、石造りの火薬庫としては全国唯一の焔硝蔵(えんしょうぐら)もあり、また大坂城の見どころともなっている巨石群(蛸石(たこいし)、肥後石)などがあり、1万5000個を超えるという石垣刻印も随所にみられる。

[小和田哲男]

『桜井成広著『豊臣秀吉の居城――大阪城編』(1970・日本城郭資料館出版会)』『岡本良一編『大坂城の諸研究』(1982・名著出版)』


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百科事典マイペディア 「大坂城」の意味・わかりやすい解説

大坂城【おおさかじょう】

豊臣秀吉が築いた城。大阪市中央区にあった。金(錦)城(きんじょう)とも。1583年秀吉は石山本願寺(大坂御坊)跡に諸大名に命じ数万の人夫を徴発,3年を費やして周囲約4里に及ぶ壮大な城を構築。秀吉の死後,秀頼の居城となったが大坂の陣で落城焼失。江戸幕府のもとで再建。戊辰戦争の戦火で大半を焼失。現在の天守閣は鉄筋コンクリート造で1931年完成。
→関連項目上町台地大阪[府]大阪[市]大坂定番神戸港摂津国中央[区]天王寺天満青物市場徳川家茂

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日本の城がわかる事典 「大坂城」の解説

おおさかじょう【大坂城】

大阪府大阪市中央区にあった平城(ひらじろ)。江戸時代に徳川幕府が天下普請で豊臣大坂城の旧跡に築城。国特別史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。1496年(明応5)、石山の地に本願寺8世蓮如(れんにょ)が坊舎を建立したのが始まりで、戦国時代には石山本願寺が置かれていた。周囲に濠をめぐらした城郭寺院で、織田信長に攻められても容易に落ちなかった。和議を結んで紀州(和歌山県)鷺森(さぎのもり)に移った石山本願寺の跡地に築城されたのが、天下の名城として名を馳せた大坂城だった。しかし1615年(元和1)、大坂城は大坂夏の陣で豊臣秀頼とともに灰塵に帰した。豊臣氏滅亡後、松平忠明(ただあきら)が大坂に入り整備にあたったが、1619年(元和5)幕府直轄領となり、翌1620年(元和6)から大坂城築城が開始された。豊臣色を払拭するとともに、西国の軍事拠点として、豊臣氏時代の大坂城を地下に埋め尽くしその上に徳川大坂城を築くもので、ようやく完成したのは1630年(寛永7)である。大坂城の魅力の一つは石垣の美しいことで、巨大な石を用いた高さ30mの石垣は日本最大。築城には40万個の石が使われたといわれる。城跡は大阪城公園となり、大手門・多聞櫓(たもんやぐら)・千貫(せんがん)櫓・乾(いぬい)櫓・一番櫓・六番櫓・金蔵・焔硝(えんしょう)櫓・金明水(きんめいすい)井戸屋形・桜門(以上重要文化財)、内堀・石垣などが残っている。5層5階の大天守は1665年(寛文5)に落雷のため焼失し、現在のものは1931年(昭和6)に復興されたものである。JR大阪環状線大阪城公園駅または森ノ宮駅、地下鉄天満橋駅または森ノ宮駅、谷町四丁目駅から徒歩15~20分。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大坂城」の解説

大坂城
おおさかじょう

金城(きんじょう)・錦城とも。大阪市中央区,上町(うえまち)台地の北端に位置する近世の平城。豊臣政権の本城。中世には石山本願寺の寺内町があった。賤ケ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉は,1583年(天正11)築城を開始。配下の大名を動員し,86年に5層の天守を完成させた。秀吉のあと豊臣秀頼が城主となるが,1615年(元和元)大坂夏の陣で落城,焼失した。その後松平忠明が入るが,19年から幕府直轄となり,天下普請で修築された。以後は大坂城代がおかれた。幕府再建の5層の独立式天守は,65年(寛文5)落雷で焼失。豊臣時代には台地全域を囲む総構(そうがまえ)があり,冬の陣では南端に出丸の真田丸が設けられた。1868年(明治元)鳥羽・伏見の戦でほぼ焼失,現在の天守は1931年(昭和6)に再建。国特別史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大坂城」の解説

大坂城
おおさかじょう

大阪市中央区にある近世の代表的城郭
金城・錦城ともいう。1583年豊臣秀吉が石山本願寺跡に築城。関西30余国に大石・巨材を課し,3年を費やして完成。当初は5層9階の天守閣をもち,京都・伏見・堺などの町人を移して城下町とした。1615年秀頼のとき大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失,江戸時代再建されたが1868年失火で焼失した。現在の天守閣は1931(昭和6)年再建の鉄筋コンクリート建築。

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世界大百科事典(旧版)内の大坂城の言及

【安土桃山時代】より

…翌83年には宿老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦に滅ぼし,織田信孝を尾張で自殺させた。この年に秀吉は大坂城を築いて畿内先進地帯を軍事的に掌握し,ここを拠点として各地に進出できる体制を固めた。84年には織田信雄・徳川家康の連合軍と戦っている(小牧・長久手の戦)。…

【金蔵】より

…蓮池金蔵は1713年(正徳3)切手門外の金蔵を寺沢門内に移したもの。大坂金蔵は大坂城本丸天守台の東南にあった。蓮池および大坂金蔵の収蔵金銀には,経常支出用の定式御遣方と臨時支出用の別口御除金とがあり,さらに大坂には内仕切と称する非常用のものがあった。…

【加番・加役】より

…正規の勤番に加勢して城郭などを警備する者を加番という。江戸幕府では大坂城と駿府城とに城代,定番,在番に添えて加番が置かれた。大坂加番は大名役で,1709年(宝永6)以降は4員。…

【城】より

…しかしこれらの城は,短期間存在しただけで破壊される。安土城が本能寺の変で焼失した翌年(1583),信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉は大坂石山に築城を開始し,1598年(慶長3)に没するまでの15年間に数次の普請を行って完成させた大坂城は,近世城郭の典型といえる。さらに関白となった秀吉は,京都の邸として聚楽第を築き,太閤となったのちには風光明媚な伏見に城を築いた。…

【摂津国】より

…【宮川 満】
【近世】

[所領配置]
 織田信長は反逆した摂津の大名荒木村重を制圧し,石山本願寺と講和した後,1580年(天正8)大坂,兵庫,伊丹を含む〈摂津一国諸所多く〉を池田恒興父子に与えた。しかし本能寺の変(1582)後,信長の後継者たる地位を確立した羽柴(豊臣)秀吉は83年池田父子を美濃に移して大坂を手にし,石山本願寺の旧地に大坂城を築いて居城とした。85年東横堀川,98年(慶長3)天満川を掘削し,伏見,堺の町人を移住させて大坂城下町の形成を進めている。…

※「大坂城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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