帝王,領主といった支配者もしくは主権者の壮麗な館を指す。古代専制国家の時代以来,今日にいたるまで建設され続けてきたが,歴史的背景,風土的条件によってその内容は多岐にわたる。場合によっては,城と同格のこともある。ヨーロッパでは,英語のパレスpalace,フランス語のパレpalais,ドイツ語のパラストPalast,イタリア語のパラッツォpalazzoといった語に対応するが,それらの意味するところは,地域や時代によって異なる。とりわけパラッツォは,近世以降のイタリアの貴族や大ブルジョア層が築いた壮大な都市住居(邸館)を指した。また壮麗な館という意味が転じて,palazzo municipale(市庁舎),palais de justice(裁判所)のように,公共建築に用いられることもある。その点で,宮殿にあたるヨーロッパ諸語の指示するところは,本来,主権者の私的領域(住む)と公共領域(つかさどる)の双方にまたがり,近世以降は,国家や自治体の中枢をなす行政・立法・司法施設の意味でもしばしば用いられる。さらに今日では,movie palace(映画館),palais de sport(スポーツ会館)といった用法も見られる。
なお,中国の宮殿については〈都城〉の項を参照されたい。
宮殿の発生は,シュメールやアッシリアなど古代専制国家の時代にうかがうことができ,マリの宮殿(前3千年紀末),サルゴン2世の宮殿(前8世紀,コルサバード)などの遺跡が発掘によって確認されている。とりわけ後者は古代帝国の威容を誇るにふさわしく,約300m2の広さで,国王の居室だけでなく,神殿,ジッグラト,政庁などを収め,あらゆる権力をひとつに集めていた。また,古代ペルシア帝国のペルセポリス宮殿(前518建設開始)も460m×275mの敷地の上に築かれた巨大な建造物で,特に〈百柱の間(玉座の間)〉が名高い。一方,古代の宮殿は,後世の人々の夢と想像力をかきたて,さまざまな神話や伝説を生んだ。クレタ島クノッソスのミノス王の宮殿(前15世紀)は,ラビュリントス(迷宮)とミノタウロスの伝説を生み,バビロンのネブカドネザル2世による宮殿(前6世紀前半)は,後世に〈空中庭園〉の伝説を残した。
古代ヨーロッパの宮殿が最高の規模と壮麗さに達したのは古代ローマ時代で,ローマ市内のパラティヌスの丘の上にアウグストゥス帝以降の諸帝が建設を繰り返した宮殿や,スプリトのディオクレティアヌス帝の離宮(300ころ)などが名高い。当時の架構技術の粋を集めて造られた古代ローマの宮殿には,皇帝の居室,後宮,浴場,神殿,政庁,アカデミー,兵営などが収められ,ひとつの都市に匹敵するほどの規模であった。
古代ローマが崩壊した後,ヨーロッパは農村の土地支配を基盤にした封建制へと移行する。したがって君主の宮殿も,きわめてつつましい規模であった。中世に特徴的なのは,キリスト教社会であるために,聖堂(教会堂),修道院と一体となった宮殿が造られたことである。アーヘンのカール大帝の宮殿(790-805)やゴスラーの神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の宮殿(11世紀)などは,いずれも聖堂を中心とした居城のかたちをとっており,古代に比べてはるかに質素であったが,精神的にきわめて純化された建築であった。アビニョンの教皇庁(1316-64)もその点は変わらない。
中世末期にいたって,生産力の向上を背景に,封建諸侯の支配を次々に統合していったヨーロッパの君主たちは,しだいに壮麗さを競う居館を建設するようになる。古代以来,先進的な都市社会を築いてきたイタリアでは,フィレンツェのパラッツォ・ベッキオ(政庁。1298-1314)やベネチアのパラッツォ・ドゥカーレ(総督宮。1309-1424)といった,支配者のための居館が建設され,都市のシンボルをなした。こうした伝統はルネサンス期にイタリアの他の都市にも受け継がれ,富豪・貴族層のためのパラッツォ建築が各地で花開く。アルプス以北でも,中世末期からルネサンスにかけて王侯たちは城館を発展させ,政庁としての機能も兼ね備えた大規模な宮殿建築が建設されるようになる。イギリスのハンプトン・コート(1520ころ建設開始),フランスのルーブル宮殿(1546建設開始),フォンテンブロー宮殿(1528建設開始)などが続々とその威容を現すが,これらはその後も増改築を繰り返して,それぞれの時代に応じた機能や装飾が加えられた。こうした宮殿の拡張は,王権の拡大にみごとなまでに対応していた。
近世の宮殿にとって画期的なできごととなったのは,太陽王ルイ14世によるベルサイユ宮殿の造営である。1661年に起工され,その後建設総監J.アルドゥアン・マンサールの指揮によって遂行されたこの事業は,大都市パリの混乱を離れて新しい理想的な宮廷都市を建設し,その中心に宮殿を据えるという壮大な計画であった。ベルサイユの道路や都市造形は軸線を貫いた古典主義的な秩序で構想され,国家の中枢がすべて集められた。さらに,当時のバロック的造形が加わり,奥行き73mの〈鏡の間〉に示される大装飾空間,ル・ノートル設計のフランス式庭園などが,けんらん豪華な建築空間全体に彩りを添えている。ベルサイユ宮殿はたちまちにしてヨーロッパ各国の宮殿のモデルとなり,ウィーン郊外のシェーンブルン宮殿(1696-1713)やペテルブルグ郊外のペテルゴーフ宮殿(現,ペトロドボレツ宮殿。1745-53),ポツダムのサンスーシ宮殿(1745-47)などが相次いで造営される。広大な庭園をもち,国政の支配階級,官僚,外交団を集めたこれらの宮殿は,まさに世界の中心をなす小宇宙的存在であった。バロック宮殿には,ほかにもベルリンの王宮(1698-1707)やドレスデンのツウィンガー宮殿(1711-22)などの例がある。
ヨーロッパは19世紀の半ばに,大規模な都市改造の波を体験する。人口の膨張,新しい交通機関の登場によって近代化を余儀なくされた大都市は,その際,宮殿を中心に新しい装いをとるようになる。パリでは,ナポレオン3世が,16世紀以来建設の続けられてきたルーブル宮殿を完成させ,宮殿の建築群を公共の都市空間と一体化させ,機能面でも象徴的な意味でもパリの中心となした。同じような都市改造はウィーンにもうかがうことができる。13世紀末に着工し16世紀にほぼ完成を見たホーフブルク(王宮)が18世紀後半に大幅に建て直され,19世紀後半の環状街路リングシュトラーセの建設と対応して,ホーフブルクを含む市の中心部にモニュメンタル性と公共性を兼ね備えた空間が造り出される。ホーフブルクの庭園は一部都市公園として開放され,建物を貫く街路を馬車や通行人が横切った。こうした19世紀の都市改造の考え方は,1930年代にも影響を及ぼし,ヒトラー(ベルリン)やムッソリーニ(ローマ),スターリン(モスクワ)の都市計画は,宮殿を中核にした支配の構造を,都市全体に貫こうとするものであった。
執筆者:三宅 理一
7世紀以前の宮は《古事記》《日本書紀》などに名前が残るだけで,7世紀の推古天皇以降の宮になってようやく場所が推定できる。その7世紀の宮も近江大津宮,難波宮,藤原宮が確認できる程度である。7世紀前半までの宮は天皇の日常生活の場(後の内裏(だいり))と,政治を行う公的場であり,同時に儀式を行う場(後の朝堂院)との二つからなっており数haの面積を占めていた。7世紀後半に律令制度が完成するとともにこれに官僚が行政実務をつかさどる役所が宮の大きな構成要素として加わることになる(宮城)。
現在7世紀前半の宮殿はほとんど何もわかっていない。現在判明している最も古い天武朝の朝堂は,大極殿とその前の朝堂院部分のすべてが掘立柱の建物である。持統朝の藤原宮は方1kmの面積になり,そのうち大極殿,朝堂院および宮城十二門が大陸風の礎石・瓦葺建物で,他はすべて古墳時代以来の伝統的な掘立柱板葺あるいは檜皮(ひわだ)葺の建物であった。平城宮に移って一部東に皇太子の住居を足したため124haとなる。ここでも大極殿・朝堂院は礎石・瓦葺建物で,内裏やほとんどの役所は掘立柱建物であったことがわかっている。難波,藤原,平城,長岡の大極殿はすべて回廊でとざされ,前の朝堂院とは別区画であったが,平安宮では前面の閤門(こうもん)を取り除いて竜尾壇に改め威儀をととのえる改良が行われた。内裏建物群は平城宮までは正殿をはじめすべて1棟ずつ独立していたが,平安宮のある時期に正殿・紫宸殿と後殿・仁寿殿その他が接続して雨天にも行動が自由なように改良された。平城宮では各役所の建物は掘立柱建物であるので耐用年数が20年前後であった。そのため建替えが必要となり,奈良時代に平均3回行っている。しばしばそれ以上建て替えた部分が検出されるが,役所の組織の細分化に従って棟数が増す一方各建物の規模は小さくなっている。大垣の内側にある各省の役所は築地塀で区画され,それぞれの正門やくぐり門をもっていた。
→京都御所
執筆者:坪井 清足
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
皇帝や国王など大きな権力をもつ支配者の住居。一般には私的な生活区と政務などのための公的部分からなり、周辺に多くの建物や施設をもつ複合建造物の形をとる。性格上、大規模かつ壮麗なものが多く、その時代・地域の文化・芸術の集約的存在としても大きな意味をもつ。中国の宮殿については「中国建築」の項を参照。
[友部 直]
現存する最古の宮殿遺跡はメソポタミアにみられる。シュメール・アッカド時代のキシュ、ウル、マリなどがその例である。やや時代は下るが、有名なバビロンの王宮(前7~前6世紀)は大謁見室や空中庭園、聖塔を含む広大なもので、付属建築物を加えてその広さは約4.8ヘクタールに及ぶと推定されている。アッシリアのコルサバード、ニムルード、ニネベなども堅固な城壁を巡らした広大な宮殿である。建築材は生れんがを芯材(しんざい)とし日干しれんがで表面を覆うのが普通で、行列路や門などには、浮彫りを施した石板や、色釉(いろぐすり)をかけた浮彫りタイルを張ることもあった。アケメネス朝時代には首都ペルセポリスに、巨大な列柱を林立させた大広間を中心に、数百の室をもつ大宮殿が建てられた。ヒッタイト帝国の宮殿としては、アナトリア高原中部のボアズキョイ(ボガズキョイ)が名高い。丘陵の起伏の中に大小の部屋がいくつかのグループに分かれて点在する形式をとり、全体は堅固な城壁で囲まれている。小アジアのトロイ、ギリシア本土のミケーネ、ティリンス、ピロスなどには、おそらく北方から伝来したと思われるメガロン形式の主室を中心とした宮殿がみられる。いずれも城砦(じょうさい)としての性格をあわせもち、また有事の際は住民を宮殿区画内に収容するような配慮がみられる。一方、クレタ島では、クノッソス、マリア、フェストス、ザクロに独特の建築様式がみられる。いずれも長方形の中庭をもち、住居など私的空間と執務・祭儀などのための公的空間とが明瞭(めいりょう)に分離され、彩光、通風、給排水などが配慮されている。
エジプトでは初期王朝時代から宮殿に類する王の住居の存在が想定されるが、遺構は存在しない。新王国時代に入ると、アメンヘテプ4世(イクナートン)の治世にアマルナに大宮殿が造営されたことが知られる。その大広間は540本の列柱をもち、床には彩色画が描かれるなど壮麗を極めたと想像される。テーベ(ルクソール)西岸のマルカタにはアメンヘテプ3世の宮殿址(し)がある。90ヘクタールの広大な敷地に四つの建築群を配した複合建築である。ほかにラメッセウムやマディナト・ハブのような葬祭殿に付属したいわゆる神殿宮殿の例が知られる。
[友部 直]
ギリシア・ローマ世界は厳密な意味での宮殿建築をもたず、わずかにこれに類するものとして大規模な別荘建築があった。ネロ帝の「黄金宮殿」、ディオクレティアヌス帝のスパラト(スプリト)の館などがその例である。キリスト教世界に入ると、教会堂や修道院と一体となった宮殿が建てられた。神聖ローマ帝国の主都アーヘンに建てられたカール大帝の宮殿、ゴスラーのハインリヒ3世の宮殿などは好例である。ローマ教皇の権力が強まると、教皇館は大規模になり、宮殿としての性格をもつようになった。バチカン宮、アビニョン宮がその例である。封建君主の居館も、その権力を増すにつれて、宮殿の性格を強めていった。この傾向はやがてルネサンスを迎えて、イタリアのパラッツォ建築となって開花する。中世末期からルネサンスにかけて、大君主が出現するに及び、宮殿はいっそうその規模を拡大し、国家を代表する象徴的建造物となった。一方、かつてもっていた城砦的な性格あるいは宗教的な性格は希薄になった。イギリスのハンプトン・コート、フランスのルーブル宮、フォンテンブロー宮などがもっとも代表的である。この宮殿建築の傾向は18世紀末まで続き、君主制の衰退とともにその幕を閉じる。近世の宮殿建築の集大成ともいうべきものにルイ14世の建てたベルサイユ宮殿があり、各国の宮殿建築の規範となった。
[友部 直]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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【各部分の構造】
社寺建築はまず基壇を築き,礎石をすえ,柱を立て,貫でこれをつなぎ,上に組物を置いて桁,梁を渡し,垂木(たるき)をかけ,屋根を葺き,いちおう雨のかからぬようにしてから,壁,窓,出入口をつくり,床,天井を張り,建具を入れ,装飾を施す。
[基壇]
神社建築では古くは基壇を設けず,礎石もない掘立柱であったが,飛鳥時代に大陸の建築様式が伝来してからは,宮殿,仏寺などは基壇を設け,神社建築もこれにならうようになった。基壇は土を積み上げて,周囲を石で囲ったものであるが,飛鳥・奈良時代の基壇は幾重にも薄く土を盛り,突き固めつつ築いたものが多く,これを版築(はんちく)と呼ぶ。…
…厨子の形式はいろいろであるが,一般的には正面に両開きの扉を設け,屋根と台座のある独立した施設である。しかし,奈良時代には仏堂を小さくしたような形の厨子を宮殿(くうでん)と呼び,仏画を掛け置く台を仏台,経巻書籍などを納入しておく箱形のものを厨子と呼んでいた。のち厨子はさまざまな形に発展し,その形式から宮殿形厨子,春日形厨子,禅宗様(唐様)厨子,折衷様厨子,箱形厨子,木瓜(もつこう)形厨子,携行用厨子,棚厨子に分類されている。…
…(4)墓廟(クッバqubba,グンバドgunbad,テュルベtürbe,マシュハドmashhad) 方形の墓室にドームや円錐形の屋根を架けたタイプと,円筒形ないし多角形プランの高塔の形式をとるタイプに大別される。(5)宮殿(カスルqaṣr,サライsarāy) 中央に池や噴水などを設けた中庭の周囲に公私の居室を配置したものを基本的単位として,これを多様に組み合わせた例が多い。(6)城砦(カサバqaṣaba,カルアqal‘a) 初期のタイプは,古代ローマの辺境の砦の形式を踏襲している。…
…ブルゴーニュ公は,ディジョンとネーデルラントのヘント(ガン)に宮廷を構えたが,その宮廷生活の栄耀は,ホイジンガの《中世の秋》(1919)にみごとに描き出されている。イタリアの都市国家においても,それぞれの君侯は豪壮な宮殿を構え,廷臣を集め芸術家を抱えて栄華を競った。フィレンツェのメディチ家,ミラノのスフォルツァ家はその典型である。…
…それは日本,朝鮮半島を包摂する東アジア文化圏の中心に位置すると同時に,特定の時期には中央アジアおよびインドとの交流をも消化しており,世界建築史上に特異な地位を占める。歴史的にみて,中国建築史の主流をなすのは,主として漢民族の王朝によって支配された都城,宮殿,壇廟,陵墓,長城など,官営建築の巨大な規模の工事の間断ない繰り返しであって,しかもそれら大群の建築が,中国封建社会に特有の官僚制度によって制御されたことが,時代を貫く不断で不変的な各種の原則を生みだす基本的要因となったと考えられる。 中国の建築は,通常,単体としてではなく,群体としての効用を意図して営まれるのが特徴である。…
…宮殿,館邸,庁舎を意味する語。英語のパレスpalaceに対応。…
…古くは天皇の出遊のために宮都以外に設けられた宮殿をいう。外宮(とつみや)。…
※「宮殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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