火災についての定義は現在のところ統一されたものはない。各分野、各方面においてそれぞれ定義され使用されている。たとえば、消防関係では火災報告取扱要領(消防庁長官通知)において「火災とは、人の意図に反して発生し若(も)しくは拡大し、又は放火により発生して消火の必要がある燃焼現象であって、これを消火するために消火施設又はこれと同程度の効果のあるものの利用を必要とするもの、又は人の意図に反して発生し若しくは拡大した爆発現象」と定義されている。すなわち(1)人の意図に反し、または放火により発生すること、(2)消火の必要性がある燃焼現象であること、(3)消火施設を必要とすること、の三つの要素がすべて含まれているものとされ、このうちいずれか一つでも該当しなければ火災ではない。爆発現象は(2)(3)の有無にかかわらず火災に該当する。また、ISO(国際標準化機構)では「時間的および空間的に制御されず拡大する急激な燃焼」と定義されている。このように、被災箇所において人の意に反した燃焼現象があり、損傷物件が確認されれば、火災と認定される。燃焼がおこるためには可燃物、酸素、熱エネルギーの三つの条件(これを燃焼の三要素という)が同時に満たされ、火災がおこるには燃焼反応が継続する必要がある。
火災の種類は各分野において、それぞれの用法で区分されるが、消防統計上では建物火災、林野火災、車両火災、船舶火災、航空機火災、その他の火災に区分される。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
火災の発生・拡大の要素の一つに気象が取り上げられる。強風注意報、異常乾燥注意報、火災警報などは、火災の発生・拡大しやすい条件のとき警告を発して予防に役だてている。
火災警報発令は、気象庁等からの通報に基づき、市長村長が発令するもので、その基準は地域によって多少異なるが、いずれの地域も湿度と風速を対象としている。発令中は山林、原野で火入れをしないなど、火気の使用制限が市町村条例で定められている。1949年(昭和24)、消防庁と中央気象台(現気象庁)が東京を標準として定めた発令基準には「実効湿度が60%以下であって、最低湿度が40%を下り、最大風速が7メートルを超える見込みのとき」「平均風速10メートル以上の風が1時間以上連続して吹く見込みのとき」と定められている。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
日本の気候は低温時に低湿度となって乾燥するため、着火しやすい状態になる。また、火災が発生したときには燃え広がる速さも大きくなる。火災と気温との間には直接的な関係は少ないが、湿度との間には密接な関係がみられる。しかし、これも林野火災においては顕著であるが、建物火災においてはかならずしもそうではなく、寒い季節に火気を多く使用する人為的要因の影響のほうが大きい。
[岸谷孝一・神 忠久]
火災と風速は密接な関係にあるが、風の強い日には出火件数はむしろ少なくなっている。これは風の強い日には、一般に多くの人が火の用心をするからである。しかし、いったん出火すると、燃え広がる速さが大きくなることと飛び火によって、大火に発展する要因となる。
[岸谷孝一・神 忠久]
気圧配置によっては、強い季節風やフェーン現象などが発生し、これはとくに大火の要因となる。日本の場合、大陸または日本海側の気圧が高い冬季には、太平洋側では北の風が強く、またフェーン現象もおこり大火が発生しやすい。太平洋側の気圧が高い春から夏にかけては、強い南の風が日本列島に吹き込み、日本海側ではフェーン現象を伴い、乾燥した強風となるため、いったん出火すると大火に発展しやすい。1952年(昭和27)の鳥取市の大火や、1955年の新潟市の大火がその例である。
[岸谷孝一・神 忠久]
日本で全国的な火災統計がとられ始めたのは1926年(大正15)である。明治、大正、昭和の初期における出火件数は年に1万件から2万件の間であったが、第二次世界大戦中は一時減少している。戦後、社会環境の変化、経済の伸展、人口・世帯数の増加などの要因により出火件数が年々増加し、1970年(昭和45)には6万件を超えたが、その後はおおむね横ばいが続き、2002年(平成14)以降は減少傾向に転じ、2010年には約4万7000件(1日当たり128件)となった。
これを火災の種別でみると、2010年には建物火災が全出火件数の約60%を占め、車両火災、林野火災、船舶火災、航空機火災の順となっている。また、出火件数を四季別にみると、季節的変化の大きいものは建物および林野火災である。これらの火災は冬季から春先の火気使用の多い時期および気候(湿度)と密接な関係があるためである。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
各地の出火の多少を比較する場合に用いる指標として「出火率」がある。これは生産活動や家庭生活などを営むなかで火事を出す確率を人口1万人当りの年間出火件数で表すもので、出火件数を人口で割った数字に1万を乗じることで求められる。2010年(平成22)の全国の出火率は3.7で、1973年(昭和48)の6.8をピークに、それ以降は減少を続けている。これを都道府県別にみると、最高は島根の5.2で、鹿児島・栃木の4.4がこれに続き、最低は富山の2.0で、京都の2.2、石川の2.5、新潟の2.7の順になっている。2010年の建物火災1件当りの焼損面積は、約43平方メートルである。また50平方メートル未満の出火件数が全体の80%を占めており、建物火災の多くは大きく燃え広がることなく早い段階で消し止められていることがうかがえる。ちなみに火元建物への放水開始時間別の状況をみると、消防隊が出動して放水を行った件数は1万4000件(建物火災の50%)で、119番受信時から放水開始までの時間が10分以内のものは、放水した建物火災の65%となっている。
[窪田和弘]
2009年の世界主要都市の火災発生件数と括弧(かっこ)内に出火率を示すと、北京(ペキン)3262件(2.6)、香港(ホンコン)8462件(12.0)、ソウル6318件(6.0)、クイーンズランド1万8595件(41.8)、モントリオール8634件(46.7)、サンフランシスコ2322件(28.3)、ニューヨーク47万3024(573.4)、東京5088件(3.9)、大阪1172件(4.4)となっている。火災の定義、火災統計システム等の相違により数値をそのまま比較することはできないが、出火率をみると、日本を除いて諸外国の多くは2桁(けた)台となっている。
また、出火原因では、日本では放火(放火の疑いを含む)が1位を占めるが、諸外国では、漏電など電気系統によるもの、たばこの不始末、調理加熱、放火と都市によって異なる。
[窪田和弘]
2006年(平成18)~2010年の5年間の全火災に対する失火の割合は平均65%である。これに放火(疑いを含む)および不明を含めると約98%となり、このことから、火災を他の自然災害に対して人為的災害とよんでいる。これらの失火は大部分が火気の取扱いの不注意や不始末から発生している。
出火原因の時代的変遷をみると、昭和初期においてはかまど、取灰(とりばい)、灯火(石油ランプ、裸ろうそくなど)などが多く、昭和20年代は煙突、たき火、漏電が上位を占めている。昭和30年代の前半は石油の消費が増加し、石油こんろ等が1位であった。昭和20年代の後半よりたばこが上位に現れ、1960年(昭和35)以来1位となった。1990年代に入り全国統計で、放火(疑いを含む)がかつてのこんろ、たばこ、たきびを引き離して1位となり、以降、同じ傾向で推移してきている。出火時刻は夜間から明け方に多い。不況になると放火が増える傾向にあるが、防犯灯の設置、ゴミ・可燃物の片付け等、地域ぐるみで放火しにくい環境をつくることが必要である。以上は日常火災の出火原因である。
1995年(平成7)に発生した阪神・淡路大震災では、6400人以上もの人命を失ったが、その多くは耐震性に乏しい老朽化住宅の全・半壊、家具類の転倒による窒息死・圧死で、死者のうち1割が火災によるものである。2011年(平成23)の東日本大震災では、津波に起因する火災が約300件発生した。漏電・短絡(ショート)のほか、漁船用燃料タンクから流出した燃料に火がついたものが津波に流され、浸水していない地域との境界付近に集積した漂着物等に引火、付近の家屋に延焼した。また、千葉県市川市、宮城県多賀城市などの石油コンビナートでも火災が発生した。
その他の地震時の出火原因として化学薬品の混触発火がある。これは特定物質(化学薬品等)が接触混合することによって発火あるいは爆発をおこすもので、容器の落下、棚の転倒などにより誘発され、過去の大地震においても高い出火比率を示している。なお、特異な出火原因として低温出火がある。通常、木材は260℃が出火危険温度であるが、100~150℃程度の温度でも長期間加熱すると木質系の材料は出火することがある。火を使用する設備と、まわりの壁や天井までは、火災予防上安全な距離を保つように、火災予防条例で定められている。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
火災による損害には統計上から物的損害と人的損害がある。物的損害は焼損面積、焼損棟数、罹災(りさい)世帯数、火災損害額等で表され、人的損害は死者数、負傷者数で表されている。損害額は建物や収納品などの「焼損損害」と消火活動による水損や破損などの「消火損害」の合計をいい、その算定には、減価償却等を見込んだ時価によることとしている。また、年次別・地域別の物価の変動を各種の指数を用いて補正する方法がとられる。1989年(平成1)から1998年までの10年間の火災損害の傾向をみると、出火件数、焼損面積および火災損害額ともにおおむね横ばい、または漸減の傾向を示している。
近年でとくに火災による死者数の多かった2002年を起点として2010年までの推移をみると、死者総数が2235人から1738人(-22.2%)へと減少し、そのうち放火自殺者数(放火自殺の巻き添えとなった者および放火殺人による者を含む)が863人から458人(-46.9%)へと減少している。しかし、2010年の放火自殺者は火災による死者総数の26.4%と4人に1人の割合で発生しており、日本の火災損害の大きな特徴となっている。2010年の建物火災における死者数は火災による死者総数の75.6%を占め、その大部分が一般住宅、共同住宅で発生している。主な死亡原因は、一酸化炭素中毒および窒息、火傷である。この住宅火災での死者のうち、65歳以上の高齢者の死者の占める割合が1990年代に増加の一途をたどり、2010年には60.5%を占めるまでになっている。人口高齢化の進展に伴い、死者数の増加が予測されることから、2004年に消防法が改正され、すべての住宅に住宅用火災警報器の設置が義務付けられた(消防法9条の2)。住宅火災による死者数は、2005年が1220人、2010年が1022人と、減少傾向にある。なお、死者発生の時間帯は22時~6時台が多い。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
日本の経済の成長と都市への人口の集中化が進むにつれ、超高層建築をはじめ、大規模な複合用途建築物や地下街が出現するようになった。これに伴い建物火災の様相も複雑となって、建物内の人命を脅かす度合いも大きくなってきた。2010年(平成22)の全出火件数のうち58%が建物火災である。これを火元建物の構造別にみると、木造建物からの出火が多い。この場合の木造建物とは外壁の防火力のない木造(裸木造)をいうが、年々防火木造や耐火造の建物が増えて裸木造が減少していることもあって、建物火災における木造建物の出火比率も漸減しており、2004年には46%だったものが2010年には42%に下がっている。2010年の火元建物から他の建物に延焼した度合い(延焼率)をみると木造建物が高く、10件に3件は他の建物に延焼している。木造建物では外壁からの延焼がもっとも多く、ついで窓や出入口の開口部となっている。これに比べて、防火構造や耐火造の建物は開口部からの延焼が圧倒的に多い。開口部を含めた外壁の防火性能が延焼阻止には重要であることが如実に示されているが、当然ながら火元建物に近接していれば、防火性能があってもかなりの延焼危険が残ることになる。
次に、用途別建物の出火件数をみると、1993年には居住建物(共同住宅を含む)からの出火が全体の49%を占めており、工場・作業場、倉庫、飲食店の順であったものが、2010年には居住建物からの出火件数が57%に増え、順位も複合用途の建物、工場・作業場、事務所の順位になった。
なお、複合用途の建物は、通称「雑居ビル」といわれ、飲食店、キャバレー、遊技場等が多数入居しているものもあり、防火管理が十分でないと、不特定多数の人々の出入りによる管理の不備や、避難する人々が建物内部に不案内であったり、身体状況が非正常(とくに酩酊(めいてい))状態にあるなどの悪条件が重なり、死傷者が多数発生するおそれがある。1972年(昭和47)5月に発生した大阪市の千日デパートビル、2001年(平成13)9月の東京都新宿区の明星ビルの火災では、それぞれ118名、44名が死亡するという大惨事になった。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
林野火災とは、森林や原野の火災をいい、林木火災と林地火災に大別される。さらに、林木火災には樹冠火と樹幹火とがあり、林地火災は地表火と地中火に区分される。日本の林野火災の出火件数を月別にみると12月から5月にかけて多く発生し、6月から11月は少ない。このことは、林野火災の発生が含有水分と関係の深いことを表している。発生の多い時期は、概して降雨量が少なく、空気が乾燥し、フェーン現象の多発期と重なるためである。しかも、この気象条件の北上に伴い九州から関東にかけての太平洋側で2~3月、日本海と東北地方では4月、北海道は5月と、地域的に発生月が異なるのが特色である。
1960年(昭和35)から昭和の終り(1988年ごろ)までは、4000件から8000件の間で増減を繰り返していたが、平成に入ってから(1989年以降)はおおむね減少傾向となり、2010年(平成22)は約1400件となっている。1994年から1998年の5年間で発生件数が多いのは広島、兵庫、千葉、茨城、福島の各県で、焼失面積は東北から関東にかけての太平洋沿岸の地域と瀬戸内海に面する本州の一部で多い。1961年(昭和36)5月、岩手県下閉伊(しもへい)郡でフェーン現象により発生した林野火災は焼失面積4万0366ヘクタールで、2010年(平成22)までにおける最大規模のものである。そのほか、1971年(昭和46)広島県呉(くれ)市の山林火災では340ヘクタール焼失し、強風にあおられて三方の谷から吹き上がってきた火流にのまれて、17人の消防職員が消火作業中に犠牲となった。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
車両火災は鉄道車両火災と自動車火災に大別される。車両火災全体としては、2003年(平成15)の7366件から2010年の5042件へ、死者数も313人から167人へと減少している。
自動車火災原因としては放火(疑いを含む)、衝突による電気系統や燃料系統からの出火によるものが多い。また、石油、LPGなどを輸送する車両も多く、これらの車両火災は大惨事につながる危険性が大である。
なお、トンネル内での車両火災は発見と通報、消火、避難が一般に困難であるため大惨事につながりやすい。1972年(昭和47)死者30人を出した北陸トンネル内の列車火災、1979年自動車189台が損・焼失東名高速道路日本坂トンネル内の火災や、死者は発生しなかったものの、2011年(平成23)の北海道JR石勝(せきしょう)線特急列車のトンネル内での火災などがある。また2003年韓国大邱(テグ)市では地下鉄列車火災が発生、190人余りの乗客が死亡しており、これらを教訓として、軌道上を有効活用できる消防装備の開発等が求められている。そのほか、1985年(昭和60)東京環状7号線でガソリン・軽油を満載したタンクトレーラーが横転炎上し、付近の住宅6棟が類焼した。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
船舶火災が陸上の火災と著しく相違するのは、初期の消防活動(消火や救助等)が自力依存であること、人的および物的被害が大きいことなどである。とくにタンカーは爆発の危険があり、他の船舶や港湾施設に大きな被害を与えることが予想されるので各種対策がとられている。1974年(昭和49)東京湾で起きた、日本のLPGタンカー第10雄洋丸(4万3223トン)とリベリアの貨物船パシフィック・アレス号(1万0874トン)が衝突、炎上し、両船であわせて33人の犠牲者を出した例がある。そのほか、1988年ソ連の旅客船プリアムーリエ号(4870トン)が大阪中央突堤に衝突し、火災を起こし11人の死者を出している。航行中以外の例として、2002年(平成14)長崎市の三菱重工業の造船所で建造中の豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号から出火し、船体を焼損する火災が発生した。周囲にあった大量の船舶塗料缶に引火、爆発し消火活動は困難を極めたが、人的被害はなかった。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
航空機火災は年平均5件程度発生しているが離着陸時に発生する場合が多い。1994年(平成6)台北(たいほく/タイペイ)発の中華航空機が名古屋空港に着陸時、機体損傷により燃料が飛散炎上し264人が死亡した。コンビナート火災は石油、高圧ガス等の大規模な集積地帯を形成しているだけに、火災が発生すると周辺に及ぼす影響が大きい。そのため、消防法、高圧ガス保安法、石油コンビナート等災害防止法によって規制が行われ、総合的な防災対策がとられている。1992年の千葉県袖ケ浦(そでがうら)市の製油プラント爆発事故では、熱交換器が爆発炎上し、死者9人となった。このほか、LPG、都市ガス等による爆発を伴うガス火災、火災時に漏出・飛散して周辺に危害を及ぼす毒劇物火災、放射線や放射性物質を扱う施設の火災などがあるが、いずれも消火作業が困難な火災である。1997年茨城県東海村の動力炉・核燃料開発事業団(その後日本原子力研究開発機構に改組)東海再発処理施設では、使用済み核燃料のアスファルト固化体が、発熱反応の蓄熱で出火し、37人が被曝した。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
大部分の火災は火気の取扱いの不注意や不始末に起因するので、防火対策の第一歩は火の用心であることは自明の理であるが、万一火災が発生した場合は、短時間に種々の対応を講じなければならない。対応としては、出火の早期発見、建物内の人々への火災警報、消防機関への通報、初期消火、避難誘導などがあるが、これらをスムーズに実施するためには、建物構造、施設、設備などが万全であることのほか、建物内にいる人を迅速に安全な場所に誘導する要員が確保されていることが重要である。火災の発生と進展に対応させた各種対策を考える際、重要なのはフラッシュオーバーである。これは、出火した部屋で徐々に燃え広がった火炎が瞬時に部屋全体に拡大する現象をいう。したがって、この現象発生の有無や発生時間の長短が建物内にいる人の避難行動の容易さや、救出、救助、消火などの消防活動の効果に影響を与える。初期の火災拡大の時間帯、それに続くフラッシュオーバーに至る時間帯においては内装や家具等の不燃化で対応する。また最盛期においては火災室の区画構造、耐火性能、崩壊時間などが重要になるが、いずれの時間帯も長ければ長いほど火災危険性は低減される。
また、火災の発生から覚知、消火、通報、避難などの対応時間帯を考えると、いずれも短ければ人的、物的損害を小さくすることができる。火災の危険性を未然に防いだり、低減させるために各分野では法律や規制が施行されている。たとえば、建築基準法、消防法、船舶安全法、道路運送車両法、高圧ガス取締法、航空法、石油コンビナート等災害防止法などである。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
防火対策にはアクティブ対策とパッシブ対策があり、前者は出火防止、早期発見、初期消火などにより火災を押さえ込む方法で、後者は出た火を区画(防火区画)内に閉じ込めるために耐火構造などで区画化を図り、これを基本に消防活動をする方法である。アクティブ対策に重点を置くと火災を小さく押さえ込むこともできるが、ときには大惨事にみまわれる危険性もある。パッシブ対策は出火件数に影響は及ぼさないものの、火災が拡大する可能性は小さくなる。日本では前者を、欧米では後者を防火の基本として考えてきたが、日本でも高層ビルなどでは区画化にも十分な配慮がなされるようになった。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
火災の早期発見の目的は初期消火、避難行動を容易にし、被害を小さく抑えることにある。火災を早期に発見する方法には、視覚や聴覚などの感覚によって知るほか、熱や煙を感知する自動火災報知設備によるものがある。この設備は火災を自動的にとらえる火災感知器と、感知器からの信号を受けて、火災発生とその場所を知らせる受信機で構成されている。
住宅などの火災警報のために開発された感知器として、警報装置を内蔵した簡易型火災警報器がある。日本での普及は欧米に比べて遅れており、住宅火災による死者の6割以上が65歳以上の高齢者で、今後さらに増加するおそれがあることから、2004年(平成16)の消防法改正により、すべての住宅に火災警報器等の設置が義務づけられるようになった。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
火災を発見したら、消火は早いほどよく、遅ければ損害は大きくなる。初期消火設備としては、消火器、簡易消火用具、屋内消火栓設備、スプリンクラー設備などがあるが、消火の方法は出火源や建物の用途・規模によって異なる。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
建物内の人々を迅速かつ安全に避難させるためには、建物内を熟知している人による誘導がもっとも有効であるが、不特定多数の人の出入りする建物内には非常用照明や誘導灯、誘導標識の設置が義務づけられている。また、逃げ遅れた人々の避難のため救助袋、緩降機、避難梯子(ばしご)など避難器具の設置も義務づけられている。
[岸谷孝一・神 忠久]
建築防火の目的は第一に人命の安全を確保することで、第二に財産を保護することである。建物が急速に燃え広がったり、火熱により容易に崩壊したりするようでは、いくら早期に火災を発見しても消火も避難もできない。したがって、火災に対して安全な建物をつくる必要がある。
安全という尺度は、火炎(熱)、煙、有毒ガスの三つの要素を考えなければならない。具体的には火災の進展過程において、建築にかかわる部分に対し十分に対処することである。第一段階として、着火源となる家具やカーテン、じゅうたんなどは、容易に燃えないように、不燃性のものや、防炎性のあるものを使うことである。次に、天井や壁に着火することを防ぐことである。そのためには天井や壁の材料に燃えにくいものを使用することである。建築基準法では、建物用途や規模などによっては建物内に使用する内装材料を制限している(35条)。また、これらに該当する材料については、先の三つの尺度を加味した試験法があって、これに合格したものは国土交通大臣認定として公表され、材料の一部分にその表示がなされる(不燃材料、準不燃材料、難燃材料など)。それでも火災が拡大したときには、火炎を区画内に閉じ込めておくことがだいじである。そのためには、区画を構成している柱、梁(はり)、床、壁などの構造部材が火力により崩壊しないだけの耐火性を有していることである。建築基準法には階層に応じてその部分の耐火性能が定められている。この判定には実際の室内火災と同じ温度を与える試験方法(JIS(ジス)に規定)があり、これに合格したものについて国土交通大臣が認定し、公表される。
また、隣家の火災からの防御として、放射熱や直接の火炎によって外壁や軒裏などが延焼しないようにするため、建築基準法では、隣棟間隔や隣地境界線からの距離が基準値以下にある場合には(1階は3メートル、2階は5メートル)、外周部構造については延焼を抑制する性能を有するものでなくてはならない、との規定があり、その試験方法についてはJISに規定がある。
[岸谷孝一・神 忠久・窪田和弘]
火災を起こした者は、民事上、刑事上の責任を問われる。
[高橋康之・野澤正充]
民事上、失火に関する法律として、「失火ノ責任ニ関スル法律」(明治32年法律第40号)がある。この法律によれば、失火者に故意または重大な過失(重過失)があるときに限り、失火者は損害賠償の責任を負い、軽過失の場合には責任を負わないとされている。普通の不法行為(民法709条)と異なり、このように軽過失の場合には免責されるとしたのは、火災による損害は状況によってきわめて大きなものになりうるし、失火者自身も損害を受けることが多いという事情を考慮したからである。重過失とは、著しく注意を欠いた場合であるが、軽過失とは量的な差があるだけで、重過失があったかどうかは、そのつど具体的に判定するほかない。同法律は不法行為の責任に関して適用があるだけで、債務不履行の責任については適用されない。つまり、借家人が借家を焼いた場合には、賃貸借契約上の義務の不履行になるので、軽過失であっても家主に対して損害賠償をしなければならない。その火事が隣家に燃え移ったとしたら、隣家に対しては重過失がない限り損害賠償の責任はないことになる。なお、火薬などの爆発による火災の場合には、この法律は適用されず、軽過失によるときでも、賠償責任はあるとされている。
[高橋康之・野澤正充]
出火原因別では、放火(故意)、失火(過失)、自然出火(無過失)、の三つの分類があるが、このような区別は刑法上も重要である。また、被害態様別にみると、死傷者を伴う火災、物的損害にとどまる火災、火災の予防、に大別できる。このうち、人的または物的被害を伴う火災に関しては、おもに刑法上の犯罪が問題となる。火災の予防については、消防法を中心として各種の行政取締罰則が設けられている。このうち、刑法上の犯罪、とくに、放火および失火の罪を中心に述べる。
放火および失火の罪は、現行法上、公共危険犯、すなわち、不特定または多数人の生命・身体・財産に対する危険性を生じさせる罪としての性格を基本としながら、財産犯的性格が加味されている(刑法108条~117条の2)。公共危険犯には、公共の危険が現実に発生したことを立証する必要のない抽象的公共危険犯(刑法108条、109条1項)と、立証する必要のある具体的公共危険犯(刑法109条2項、110条など)の区別があるが、とくに抽象的公共危険犯については、その財産犯的性格に関連して、それらに共通する基本概念である「焼損」の意義をめぐって見解が対立する(なお、焼損に至ればこれらの放火罪は既遂となる)。判例によれば、公共危険の点を重視して、焼損とは火が媒介物を離れ目的物が独立して燃焼しうる状態に至ったことを意味すると解されている(独立燃焼説)。ただ、このような見解に対しては、不燃性や難燃性の強い建造物は、木造の場合のように「独立燃焼」という観念になじみにくいという批判がある。なお、自殺の目的で放火するケースが非常に多いが、この放火自殺も放火罪にあたりうる(自殺未遂を前提とすることはいうまでもない)。
失火、すなわち過失により出火させる場合には、刑法上、他人の死傷を伴うケースにつき過失致死傷罪(209条以下の罪)、物的損害にとどまるケースでは失火罪(116条、117条の2)が重要である。他人の死傷を伴う失火事件につき、過失致死傷罪のほか失火罪の成立を認める余地もあるが、実務上、一般的には過失致死傷罪、とくに業務上過失致死傷罪(刑法211条)の責任を問うにとどまる(例外として、中日スタジアム火災事件、信越化学爆発火災事件などがある)。とくに問題となるのは、ホテル、デパート、病院などビル火災において多数の死傷者が出た場合、失火の直接原因者(直接行為者)のほかに、この者を監督する立場にある者や、ビル全体の防火管理責任を負う者にも、監督義務や防火管理義務の懈怠(けだい)を理由に業務上過失致死傷罪の責任を問いうるかである。この問題は「監督過失」とか「監督(者)責任」とよばれる問題であるが、過失犯のとらえ方とも関連して、学説には大きな対立がみられる。この点につき、消防法上の防火対象物に対して管理権原を有する者(管理権原者)や防火管理者に課せられた防火管理義務懈怠が認められるからといって、ただちに注意義務違反ありとして業務上過失致死傷罪を肯定するわけにはいかない。しかし具体的事例によっては、この義務懈怠により死傷を伴う火災が発生したとか、火災に際して死傷したものと認定できる場合には、本罪の成立を認めることができるであろう。
[名和鐵郎]
広く火災に対する予防や鎮圧を目的とするのが消防法である。この消防法は第9章の「罰則」において、火災の予防や鎮圧に関連する数多くの罰則規定を設けている(38条以下)。また、火災予防に関連して、建築基準法には建築物の安全確保を目的とする罰則規定が設けてあり、火災や爆発の危険を有する事業活動については、たとえばガス事業法のように、関係事業法において安全確保のための罰則規定が設けられている。なお、消火活動に関連して、これを妨害する行為につき、消防法のほか、刑法(121条の消火妨害罪)や軽犯罪法(1条8号)に罰則規定がある。
[名和鐵郎]
木造建築の多い日本では、小さな失火からでも大火災になるおそれが大きく、そのため火事を起こさぬようにとの戒めが村ごと町ごとに定められた。「火の用心」と叫んで、冬の間、村回りの警戒を若者に輪番でさせた例は多く、若者組は往々にして消防組の機能をあわせもっており、もし失火でもした場合には、いわゆるハチブとして交際を絶たれる例も多かった。火事を重大な変災の一つと考え、その発生を予兆する動物についての言い伝えは、「赤馬の夢をみると火事にあう」「いたちが鳴くと火事がある」「犬の遠吠(とおぼ)えはどこかに火事の起こったしるし」「牛が夜中に鳴くのは火事の知らせ」「火事の前にはまず鼠(ねずみ)がその家からいなくなる」「烏(からす)が子を運べば近くに火事がある」「つばめまたは川原雀(すずめ)を捕(と)ると火事になる」「月見草を家に持ち帰れば火事になる」とか、戒めを伴った火事の予兆についての諺(ことわざ)、言い伝えは全国に分布している。
火事を避けようとする呪術(じゅじゅつ)も種々みられ、その一端は、「竈(かまど)と流しが向きあうと火事になる」「便所の屋根に物干しを建てると火事にあう」「夜寝るときに水桶(みずおけ)に水をいっぱい入れておくと火事にならない」などの、住生活の機微に結び付けたものがあり、日柄についても、酉(とり)の日が重視され、「酉の日に屋根を葺(ふ)くと火事にあう」「酉の年には火事が多い」「11月に酉の日が三度ある年は火事が多い」などよく言い交わした。民俗の深さを物語るものとしては、「道祖神(さいと)焼きの燃えさしを軒に挿しておくと火事にならない」とか、「七夕(たなばた)様に使った竹を竈に立てておくと火事にならない」などがある。「火事のとき女の腰巻を張るか、あるいは振れば、火が及んでこない」とする俗信も全国的であり、赤色どうしが避けるとの原初的発想が長く尾を引いている。日本の大都市住民は、「火事は江戸の華」に現れるような達観を意識の奥に秘めるようになっており、1876年(明治9)日本に着いたばかりのドイツの医学者ベルツをして、焼け跡で談笑しつつただちに仮建築に着手する住民たちの姿に感嘆の声を放たせている。
[萩原龍夫]
火災の記録が歴史上に現れるのは古代ギリシア・ローマ時代からである。日本と異なり、ヨーロッパの諸都市は陸続きであるがため、外敵から都市を防御するために、その周りを高い城壁で囲み、その内において、神殿、宮殿を中心とする社会生活が営まれていた。しかし、当時の城郭内の建物は大部分が木造であって、そのうえ屋根も草葺(ぶ)きなどであったため、戦火や失火で再三の大火を経験している。当時の著名な大火として、紀元64年に皇帝ネロが放火したといわれるローマの大火がある。火は8日間燃え続け市街地の70%以上を焼失したと記録されている。中世に入ると、ヨーロッパの諸都市は大火のたびに都市を焼失する愚を悟り、また軍事上の必要もあって、都市の再建に防火的な考えを織り込むようになる。木造建物禁止令を発し、建物をれんがや石による耐火構造としたり、道路幅を広げ延焼を阻止するなどの規制や対策が行われている。
都市不燃化史のうえで著名なロンドン市の例をみると、12世紀ごろまでは目抜き通りですら道路幅は狭く、しかも、これに面した建物は木造の3、4階建てが連なって建っていた。このため「全市ほとんど焼失」の記録が多い。1212年の大火後、その対策として料理店外壁の不燃化、草葺き屋根の上に漆食(しっくい)を塗るなどが義務づけられ、さらに瓦(かわら)屋根にすることが奨励された。しかし、種々の社会的情勢から完全に実現することは困難で、依然として大火の危険性は潜在していた。
1666年ロンドン市の約4分の3を焼失する大火(ロンドン大火)が発生した。この大火は後の近代的な建築防火法制や火災保険会社を生み出す契機となったが、復興のために行った「街路の改造」や「木造厳禁の制」などの施策と実行に対して、後世の人々がこの大火を「偉大なる火事」The Great Fireと称賛したことで著名である。当時、イギリスはオランダと交戦中で、国内の財政は破産寸前にあって、しかも前年はロンドン市を中心にペストが猛威を振るい、市の機能は麻痺(まひ)状態にあったという。このように内外政とも困難な時期に大火が発生したのであるが、時のチャールズ2世は復興の大方針を都市の近代化と災害の撲滅に置き、これの実施のために復興法を成立させた。この実現に推進者らは厳然たる態度で挑み、市民もまたこの難事を耐え忍び、復興に全力をあげたのである。この結果、今日の不燃都市ロンドンの基礎が築かれたのである。この大火で生み出された火災保険制度は、保険会社お抱えの私設消防隊やファイアーマーク(保険契約した建物であることを示す表札)を生み出した。また、この保険制度は19世紀に至ってアメリカで防火法制の整備に大きく貢献することになる。
アメリカにおいても、石やれんが造に比べ安価でしかも豊富に入手できるという理由で、木造都市が続々と誕生したが、このため大火が続発した。なかでも1871年のシカゴ大火、翌1872年のボストン大火、1874年の再度のシカゴ大火は多数の保険会社を倒産させることとなった。このため、保険料率の再検討の必要に迫られ、これを検討するため共同して火災保険局(NBFU)を設立し、科学的に火災の研究に取り組むことになった。その結果、火災性状が解明され、世界の範となった防火法制を生み出したのである。さらに、1906年のサンフランシスコ地震火災は、都市の不燃化と消防力の強化をアメリカ全土に推進する引き金となった。
このように、大火を契機として各国とも都市の不燃化を推進し、都市大火は駆逐されていったが、高層ビルの出現とともに新たにビル火災という問題に直面することとなった。火災科学の研究を有するアメリカはいち早くこの対策に取り組み、ビル防火法制の先駆者となったのである。19世紀後半には各国で劇場火災が多発し、多くの犠牲者を生じたが、今日の建築防火法規に影響を与えたのはシカゴのイロコイ劇場火災(1903。死者約600人)である。この火災は防災施設・設備等の必要性について数多くの教訓を残し、アメリカ諸都市に強い影響を与えただけでなく、日本の建築基準法および消防法などの建築防火法規にも大きな影響を与えている。
[佐藤 寛]
日本で火災が歴史的に現れるのは文献(『日本書紀』)によると欽明(きんめい)天皇13年(552)の大殿災からである。防火規制としては養老律令(718)の中に倉庫令があり、倉庫(食物庫)の傍には池を造り、倉庫間は距離を保つことという内容で、江戸時代までこれ以外の防火規制は行われていない。
大和(やまと)朝廷の統一後は、政(まつりごと)を行うにふさわしい土地を探しては遷都を行い、都市が形成されていった。人口が都市に集中するにつれ失火、放火などによる大火が頻発するようになり、京都は平安遷都以来、明治に至る約1000余年間に、400回以上の大火を記録しており、802年(延暦21)には早くも全都焼失という記録が残っている。鎌倉時代になると、幕府の置かれた鎌倉にも大火の記録が頻繁にみられるようになる。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)により室町幕府が失墜すると、群雄割拠する戦国時代となり、戦火による火災が各地に拡大していった。
安土(あづち)桃山時代になると永久的で純軍事的な城郭が築かれるようになった。城は外部をすべて漆食塗りとした耐火的な構造となっていくが、城を取り巻く町並みは依然として可燃家屋であったため、大火は絶えることがなかった。
徳川家康の江戸入府(1590)から江戸の町は巨大都市へと変貌(へんぼう)していくが、たとえば、元禄(げんろく)時代(1688~1704)には人口約80万(同じころロンドン、パリが50万前後)となり、享保(きょうほう)年間(1716~1736)には約130万(1800年代初期のロンドンで約80万)で面積約70万平方キロメートルの世界一の都市となっていた。人口の増加とともに大火(江戸大火)も頻発し、木造密集の都市構造であったため延焼規模も大きくなっていく。1601年(慶長6)には早くも1回目の大火が発生し、以来、明治に至る江戸年間に90回以上の大火が記録されている。日本橋、京橋においては10年に2回以上、所によっては2年に1回の割合で被災している。1657年(明暦3)正月18日、本郷本妙寺より出火した火災(明暦の大火)は、湯島、神田から日本橋、霊厳島(れいがんじま)、佃島(つくだじま)となめ尽くし、翌早朝には鎮火したが、同日新鷹匠(たかしょう)町より、また夜には番町麹(こうじ)町より再出火し、江戸の町を焼き尽くした。この火災で江戸城も焼失し、両日の火災で焼死者約10万7000人、焼失面積約26.8平方キロメートルの被害となった。大火後、幕府は、再建のため江戸の実測を行い、防火対策を伴う都市改造に着手した。このときの防火対策は延焼の防止を主目的にしたもので、火除地(ひよけち)(空き地)や広小路の設定、道路幅の拡張、防火堤の構築(高さ約7.3メートルで松を植え込んだもの)、建築規制(大名屋敷の瓦葺きや、3階建ての禁止)、武家地、寺社地の郭外転出などの施策が実施された。このように当時の防火対策の基本姿勢は、江戸城を守ることを第一にした延焼防止にあった。このため、庶民は逃げるほかに方法がなく、家財をかつぐか荷車に積んで避難をしていたが、消防活動(当時は破壊消防)に支障をきたし、また荷物の山に火がつくなどの理由で、幕府はこれを禁止した。そこで庶民は、財産の保護のため、自衛対策として、こぞって穴蔵(床下に穴を掘った簡易な地下倉庫)を設け対応した。
たび重なる大火は物価、賃金等の高騰を招き、幕府の財政を圧迫するだけでなく、諸藩も江戸詰屋敷の再建などで台所は火の車であった。諸藩の窮状は幕府の存在を脅かすことになるため、幕府としても、町屋を含めた本格的な防火対策をとらざるをえなかった。画期的に対策が進歩したのは、8代将軍吉宗(よしむね)の時代である。その特筆すべき施策は防火建築の奨励で、特定区域内は土蔵造(どぞうづくり)以外は禁止し、町屋には土蔵造や塗屋造(ぬりやづくり)(道路面の2階外壁のみ土塗漆食壁としたもの)を奨励した。また、これまで禁止されていた屋根の瓦葺(かわらぶ)きが許可された。これが容易であったのは、1674年(延宝2)近江(おうみ)国の西村半兵衛により軽くて安い桟瓦(さんがわら)が発明されていたことにもよる。このほかの対策としては、市中の消防活動のために、いろは四十八組の町火消を組織したことである。その後も大火は続発したが、1854年には東海、四国など太平洋沿岸に地震火災が発生し、翌年には江戸を震源地とする直下型地震(安政(あんせい)の大地震)が発生して多くの焼死者・圧死者を生じた。
明治年間にも各地に相当の大火が記録されているが、1872年(明治5)の銀座の大火は日本の都市不燃化の発端となり、都市計画的にも興味深いものであるといわれる。いわゆる銀座のれんが街の出現である。その後、丸の内不燃街の推進も行われたが、一般建物の主流は相変わらずの木造であった。このため明治の中ごろまでは東京も数回の大火をみているが、消防機関がしだいに整備、充実されるにつれ、大火というほどのものは非常に少なくなった。これには水道の完成が大きく貢献している。
1919年(大正8)市街地建築物法と都市計画法が同時に制定され、さらに1923年には特殊建築物耐火構造規則が制定されて、日本も本格的な不燃建設都市へ一歩踏み出したが、不幸にもこの年に関東大震災が発生している。この地震で同時多発火災や火災旋風が発生し、本所区被服廠(しょう)跡では一挙に約3万8000人が犠牲となった。なお、ドイツのハンブルク市でも1943年の空襲により火災旋風が発生し、約30分で全市が燃え尽き、約4万人の死者が発生したといわれる。関東大震災における死者・行方不明者約10万人の80~90%が焼死であるとの記録は、地震火災の恐ろしさを端的に示している。その後の復興はふたたび木造建築の集積と化した。第二次世界大戦では、連合国側は日本の都市の実態をよく調査し、ドイツ攻撃には破壊爆弾と焼夷(しょうい)弾を半々に投下したのに対し、日本には集中的に焼夷弾を投下したといわれる。その結果、日本の諸都市は焼け野原と化して終戦を迎えたのである。
1949年(昭和24)に消防法が、翌1950年には建築基準法が制定された。さらに、1952年には大火撲滅を意図した耐火建築促進法が制定され、日本も本格的な不燃都市へと脱皮していく。地方の中小都市でも耐火建築等の防火蓄積が進んだこと、消防力が整備されてきたことなどにより10万平方メートルをこえる大火は1956年の魚津大火を最後に姿を消してきたが、1976年に強風下のもと酒田大火が発生(焼失面積22万5000平方メートル)した。経済の発展と大都市への人口集中化に伴い、建築物の高層化、大規模化、複合化が強まり、新たな火災の様相が現れてきた。耐火建築物の本格的な火災としては1932年(昭和7)の白木屋百貨店の火災が有名であるが、1955年ごろより劇場、デパート、ホテルなどで相次いで火災が発生し、国民にビル火災の恐怖をまざまざと見せることとなった。1960年代後半からは耐火建築物苦難の時代で、1966年3月の水上(みなかみ)温泉菊富士ホテル(死者30人)、1968年11月の有馬温泉池之坊満月城旅館(同30人)、1969年2月の磐梯熱海(ばんだいあたみ)温泉磐光ホテル(同31人)などホテル火災が相次いで発生した。1970年代には1972年5月の大阪千日デパート火災(同118人)、1973年11月の熊本大洋デパート火災(同103人)で多くの犠牲者を生じている。これらの火災を教訓として、建築基準法および消防法も逐次改正され今日のものとなっている。また、新潟地震(1964)による昭和石油の火災は、石油コンビナート火災として大きな問題を投げかけ、薪炭(しんたん)から石油、ガス等への熱源の変化は、当時の国鉄静岡駅前ゴールデン街地下で起こった爆発火災(1980)にみられるように、爆発を伴う火災を生じるようになった。1995年(平成7)に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、神戸市を中心に多くの犠牲者を伴う未曽有(みぞう)の被害を生じさせた。この地震火災では同時多発火災による大規模な市街地の延焼があり、約7000棟が灰燼(かいじん)に帰した。
[佐藤 寛]
大火に至った要因として、電気による発熱体等が原因で木造住宅密集地区での延焼が起こった際、幹線道路ががれきに埋まったり、避難する人や車両等の渋滞によって消防車が火災現場にたどり着けなかったこと、水道管の損壊により十分な消火用水が得られなかったこと、などがある。このような大規模災害等に対応するために、全国の消防機関相互による援助体制として1995年に緊急消防救助隊が発足し、消防組織法を改正してその位置付けを明確にした。
また、2011年(平成23)の東日本大震災では、漏電・短絡(ショート)、漁船用燃料タンクからの燃料流出等により286件の火災が発生したが、津波による家屋や車両等の漂着物を介して延焼し、さらにこれらの漂着物や浸水に阻まれて消火活動が不能となり大規模な市街地火災へと進展した。また、地震動や津波により、危険物施設の火災や高圧ガス貯蔵施設等の石油コンビナート火災が発生した。
[窪田和弘]
『日本消防新聞社編『日本火災史と外国火災史』(1977・原書房)』▽『建築学大系編集委員会編『新訂 建築学大系21 建築防火論』(1978・彰国社)』▽『日本火災学会編『火災便覧』第3版(1997・共立出版)』▽『森田武著『世界の高層・超高層・超々高層ビル火災』(1998・近代消防社)』▽『日本火災学会編『日本火災学会50年史』(2000・日本火災学会)』▽『災害対策制度研究会編『防災・危機管理六法』(2007・新日本法規出版)』▽『日本火災学会編『はじめて学ぶ建物と火災』(2007・共立出版)』▽『次郎丸誠男著『消防設備規制と火災予防――予防行政のあゆみ』(2009・オーム社)』▽『自治省消防庁編『消防白書』各年版(大蔵省印刷局。平成13年版より総務省消防庁編、財務省印刷局発行。平成14年版~平成20年版はぎょうせい発行。平成21、22年版は日経印刷発行)』
字通「火」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…火事とは,建造物,山林・原野,輸送用機器等が放火を含め意図せざる原因によって燃え,自力で拡大していく状態にあるものをいうが,人間にとって有用なものが被災するという点からは,火災と呼ぶ。《消防白書》(消防庁編)は,火災を燃焼対象物により,建物火災,林野火災,車両火災,船舶火災,航空機火災およびその他火災(空地・土手などの枯草,看板などの火災)に分類する。…
※「火災」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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