青柳篤恒(読み)アオヤギ アツツネ

20世紀日本人名事典 「青柳篤恒」の解説

青柳 篤恒
アオヤギ アツツネ

明治〜昭和期の中国学者 早稲田大学教授



生年
明治10(1877)年8月9日

没年
昭和26(1951)年1月8日

出生地
山形県・米沢

別名
号=柳士廉

学歴〔年〕
早稲田大学経済学科〔明治36年〕卒

経歴
中国語教育の創始者・叔父の宮島大八に師事、東京専門学校在学中、陸大教授兼東京外語講師、後早稲田大学講師も兼ねて中国語を教えた。明治36年早大を卒業、41年教授となった。中国語のほか極東外交史、中国問題などを担当。大正3年から2年間、有賀長雄博士に従って中華民国大総統袁世凱の顧問を務めた。早大に帰任して校外教育部長を12年間兼任。昭和23年定年退職。名講義をうたわれた。著書に「支那語助辞用法」「支那時文軌範」「極東外交史概観」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「青柳篤恒」の解説

青柳篤恒 あおやぎ-あつつね

1877-1951 明治-昭和時代の中国学者。
明治10年8月9日生まれ。41年母校早大の教授となり,中国語,極東外交史などを講義。大正3年から2年間中華民国大総統袁世凱(えん-せいがい)の顧問をつとめた。昭和26年1月8日死去。73歳。山形県出身。号は柳士廉。著作に「支那語助辞用法」「極東外交史概観」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の青柳篤恒の言及

【早稲田軍教事件】より

…早稲田大学軍事研究団事件ともいう。第1次世界大戦後,総力戦体制を構想した軍部は教育機関にも足場を築こうと企図していたが,軍部と接触のあった早大教授青柳篤恒は乗馬学生団を母体に軍事研究団を組織するため,1923年5月10日,陸軍次官白川義則ら陸軍幹部を招いて発会式を行った。文化同盟,建設者同盟,雄弁会はこれに抗議し,12日に雄弁会主催で軍事研究反対学生大会を開き,約5000の学生が結集して〈我等は軍国主義に反対し,早稲田を軍閥宣伝の具たらしむることに反対す〉との決議を採択した。…

※「青柳篤恒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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