山形県南東端の市。1889年市制。人口8万9401(2010)。米沢盆地の南部に位置し,中心市街地の米沢は松川扇状地上に発達した旧城下町で,JR奥羽本線,山形新幹線と国道13号線が福島県に通じ,JR米坂線が分岐する県南置賜(おきたま)地方の中心都市である。中世に長井氏の築城によって開け,戦国期には伊達氏の領国の中心地として城下町の原型が形成された。1601年(慶長6)上杉景勝が会津から移封されて以後明治まで約270年間にわたる上杉氏の統治が続いた。江戸中期の10代藩主上杉治憲(鷹山)が藩政改革の一環として藩士に奨励した織物業は,米沢城下在住の下級家臣による家内工業として発展し,明治以降は〈米織〉の名で全国に知られるようになった。
第2次大戦前は米織を中心とした県下一の工業都市であり,戦後は一般機器などの工場立地が進み,市東部には八幡原中核工業団地が造成され,1995年現在も県下一の工業出荷額をあげている。周辺農村部では米作のほか,〈米沢牛〉として知られる和牛飼育や養鯉,それにリンゴなどの果樹栽培が盛んである。市南部の吾妻連峰北麓には白布高湯温泉,小野川温泉など多くの温泉や天元台,栗子などのスキー場があり,西吾妻道路(スカイバレー。2003年無料開放)で福島県裏磐梯と結ばれる広域観光ルートの拠点となっている。市内には上杉治憲敬師郊迎跡(史)や多くの重要文化財を収蔵する米沢城跡の上杉神社,上杉家歴代の霊をまつる上杉家廟所など米沢藩ゆかりの地がある。春の上杉祭では古式ゆかしい御輿渡御や川中島合戦の模擬戦が催され,観光客でにぎわう。
執筆者:中川 重
出羽国置賜郡の城下町。1538年(天文7)の《伊達氏段銭古帳》に〈よなさハ〉とあるのが地名の初見。市街の成立の端緒は,1238年(暦仁1)と伝える長井氏の米沢築城に求められよう。1380年(天授6・康暦2)ころ伊達氏は長井氏を滅亡させ,1549年(天文18)ころに晴宗が伊達郡桑折(こおり)から米沢に居城を移した。晴宗,輝宗,政宗の伊達氏3代の間に米沢城と米沢城下の整備が行われ,市街の原型もこのころに成立した。当時の町屋敷には大町以下の6町などがあり,大町はのちの門東町の地に位置し,城の東側を南北に通る街道沿いに南から南町,肴町,大町,柳町,立町,荒町(粡(あら)町)が配置されたと推定される。当時の荒町は白子明神の門前で,のちの元籠(もとろん)町の地にあった。肴町は東町と呼ばれた可能性が大きい。これら町方の成立は永禄年間(1558-70)を下らないとみられる。大身侍は在郷の館屋敷とあわせて米沢にも屋敷を与えられ,妻子を集住させられた。また旗本,不断衆など中・下士の屋敷も配置されたと推定される。
1591年(天正19)米沢地方は会津蒲生氏の領国に編入されて蒲生四郎兵衛尉郷安が城主となり,一時松ヶ崎城と呼ばれた。98年(慶長3)上杉景勝の領国となり,宰臣直江兼続が米沢城主となった。関ヶ原の戦の結果,上杉氏は30万石に削封されて米沢はその居城の地となり,ついで1664年(寛文4)の15万石への削封以後も上杉氏の居城として幕末に至った(米沢藩)。1608-09年に行われた拡張工事によって,本丸,二の丸,三の丸から成る典型的な囲郭式の平城が築営された。本丸には藩主居館と役所が,二の丸には勘定所,青苧(あおそ)蔵,味噌蔵その他が,また東西577間・南北1248間の広大な三の丸には上・中級家臣の屋敷が配置された。松川の流路は東側に移され,旧松川跡を外濠とし,町屋敷は外濠の東側に移動した。1591年伊達政宗の玉造郡岩出山への移転に際し,大町以下6町の町民は町ぐるみで岩出山,さらに仙台へと引き移ったが,大町以下の町名はその後も米沢城下に残り,上杉氏による城下拡張に伴い一定の移動を経ながらも,米沢城下町方の中枢を構成し,五斎市などの開催権を保持した。これら商人町の周辺には職人町が置かれた。他方,侍屋敷は三の丸の外(郭外)にも置かれ,最外縁部に北寺町,東寺町ほかの寺屋敷が配置された。正保(1644-48)以後享保(1716-36)ころまでの間に城下北西部の侍屋敷と,原方と呼ばれる福田町ほかの侍屋敷とが増設された。1725年の侍・足軽屋敷などは2769軒,ほかに原方屋敷1444軒であり,町屋敷は40町(本町17,横町23)・2406軒。
執筆者:小林 清治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
山形県南東端に位置する県南地域の中心都市。1889年(明治22)市制施行。1953年(昭和28)上長井村、1954年万世(ばんせい)、広幡(ひろはた)、六郷(ろくごう)、塩井、三沢、窪田(くぼた)の6村、1955年山上(やまかみ)、上郷(かみごう)、南原(みなみはら)の3村を編入。市域の南半は奥羽山脈の一部吾妻(あづま)連峰を頂く山岳地帯、北半はここから流下する松川、大樽(おおたる)川、鬼面(おもの)川など最上(もがみ)川の源流となる諸河川が扇状地群を形成して米沢盆地の南端部をなしている。内陸性気候で、夏は高温多湿、冬は西方の荒川峡谷部から吹き込む季節風の影響で降雪が多く豪雪地として知られる。JR奥羽本線(山形新幹線)と国道13号が県境を越えて福島市に通じ、JR米坂線、国道121号・287号の起点をなす米沢盆地の交通中心地。1997年(平成9)に米沢南陽道路(現在は東北中央自動車道)が開通し、米沢北、米沢中央、米沢八幡原(はちまんばら)の3インターチェンジがある。
中心の米沢地区は中世に長井荘(しょう)の地頭(じとう)長井氏(大江氏)の築城によって開け、戦国期に伊達(だて)領の中心地として城下町の原型が形成された。1601年(慶長6)関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝(かげかつ)が会津から移封されてから城下の整備が進み、町割の基礎が固められた。以後明治維新まで約270年間にわたって上杉氏統治の中心であった。藩政改革を断行した10代藩主治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))が家臣らに奨励した家内工業の織物業は、明治以降米沢織として発展し、第二次世界大戦前までの米沢市は繊維工業を主とした県下第一の工業都市であった。
戦後は弱電関係の工場立地が進むなど電気機器工業の伸長が著しく、最近では情報通信、電子工業が急増、2012年現在、製造品出荷額は県下で第1位を占めている。市東部に八幡原中核工業団地も造成された。昭和40年代後半の市役所移転に伴って金池(かねいけ)地区が新官庁街となり、市役所の跡地にショッピングセンターができるなど市街地の近代化が進んだ。1984年には郵政省(現、総務省)のテレトピアモデル都市に指定された。周辺農村部では米作のほか、米沢牛として知られる和牛飼育や養鯉(ようり)業、リンゴなどの果樹栽培が盛ん。
吾妻連峰一帯は磐梯(ばんだい)朝日国立公園域で、山麓(さんろく)には白布高湯(しらぶたかゆ)、小野川、大平(おおだいら)、姥湯(うばゆ)などの温泉や天元台高原スキー場などがあり、西吾妻スカイバレーラインで福島県の磐梯高原とも結ばれている。上杉博物館と置賜(おきたま)文化ホールがあわさった「伝国の杜(もり)」、運動施設の整った米沢総合公園などがある。米沢城跡(松が岬(まつがさき)公園)にある上杉神社は藩祖上杉謙信(けんしん)を祀(まつ)り、「上杉家文書」(2001年国宝に指定)、伝謙信・景勝所用の胴服、太刀などのほか、「絹本着色毘沙門天(びしゃもんてん)像」や「紫綾金泥両界曼茶羅(まんだら)図」など多くの国指定重要文化財を蔵する。上杉博物館保管の「紙本金地著色洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」は国宝。また、旧米沢高等工業学校本館は1910年(明治43)の建築で国の重要文化財に指定されている。国指定史跡には縄文時代前期の一ノ坂遺跡、平安時代中期の居館跡である古志田東遺跡(ふるしだひがしいせき)、上杉治憲敬師郊迎跡、米沢藩主上杉家墓所がある。上杉・松岬両神社の春の例祭、米沢上杉まつりでは御輿(みこし)渡御や川中島合戦が催される。南郊の笹野(ささの)では民芸品笹野一刀彫りがみられる。面積548.51平方キロメートル、人口8万1252(2020)。
[中川 重]
『『米沢市史』全12巻(1983~1999・米沢市)』
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