須子
すこ
現須子町地域に所在した長野庄を構成する内部の所領単位。当初は吉田郷内に含まれたと推定されるが、南北朝期以降独立した所領としてみえる。暦応三年(一三四〇)三月二九日には長野庄豊田郷内下俣賀村地頭内田円戒後家光阿跡の須子村内田屋敷が上俣賀村地頭内田致義に与えられているが(「上野頼兼書下」俣賀文書、以下断らない限り同文書)、康永三年(一三四四)には覚融庵主による押妨が起こっている(同年二月二九日上野頼兼書下写)。光阿は吉田郷を支配した一族の出かもしれない。一方、暦応四年二月日の益田兼躬軍忠状(益田家文書)によると、幕府軍が前年以来吉田郷内の「須子山御陣」を拠点に高津城・稲積城を攻撃しているが、同三年一二月一二日の平子重嗣軍忠状(閥閲録)には幕府方が「須子原」に陣取ったこともみえている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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