日本歴史地名大系 「益田市」の解説 益田市ますだし 面積:三〇〇・四三平方キロ島根県の西部。東は那賀郡三隅(みすみ)町と美濃郡美都(みと)町、南は美濃郡匹見(ひきみ)町、鹿足(かのあし)郡日原(にちはら)町・津和野町、西は山口県阿武(あぶ)郡田万川(たまがわ)町と接し、北は日本海に臨む。市域南部は中国山地、東部と西部は小丘陵が連なる。市域北部は、南西部から北流する高津川と南東部から北流する益田川による沖積平野が大部分を占める。高津川と益田川の河口はわずか一キロの距離で、海岸部は防風林が植栽される。東部海岸地帯は磯に恵まれて小港湾が点在し、西部は白砂青松の単調な海岸である。南部山岳地帯は、高津川・益田川が形成する沖積平野や河岸低地に集落を作っている。総面積の七〇パーセントが林野で農林業が主体、河川流域の平野は穀倉地帯である。市域を東西にJR山陰本線が横断し、益田駅から南西へJR山口線が分岐する。国道九号は山陰本線南側で国道一九一号と交差する。一九一号に沿う西部の丘に石見空港が建設され、付近の台地には広大な国営開拓農地が開かれた。益田の地名は「和名抄」に益田郷がみえ、「末須太」と訓じている。「石見八重葎」は真田(ますだ)・舛田(ますだ)という。地名のいわれは益田一帯が良田の真砂田であったことから、その音韻転訛に由来するという(益田町史)。〔原始・古代〕市域は石見地方では遺跡数の最も多い地域である。主要な原始・古代遺跡は、益田・高津両河川によって形成された益田平野とその周辺の丘陵地帯や谷間の平地に分布する。現在縄文時代後期以前の遺跡は未発見。安富王子台(やすどみおうじだい)遺跡では後期後半から晩期前半の縄文土器が出土し、目下のところこれが市域で最初の人の居住を示す徴証となる。また三宅御土居(みやけおどい)跡でも晩期縄文土器がかなり検出されている。弥生時代になると安富王子台遺跡・羽場(はば)遺跡・三宅御土居跡に初期の稲作農耕民の居住が認められ、木部(きべ)・井元(いもと)遺跡でも前期弥生土器が出土している。この遺跡では木杭などが発見され、水田跡の存在が予測された。出土土器には九州東部の高槻式の影響が認められる。また高津川河口の砂丘で発見された松(まつ)ガ丘(おか)遺跡では前・中期の弥生土器のほか古式土師器・須恵器などが採取されている。この遺跡では箱形石棺が存在したとの伝えもあり、埋葬遺跡の可能性がある。羽場遺跡では環濠の一部とみられる中期のV字状の溝が掘出された。益田平野のほぼ中央にも弥生土器が発見された日赤敷地(につせきしきち)遺跡があり、潟湖の陸化に応じて弥生人の生産活動の範囲が広がっていったことが考えられる。 益田市ますだし 2004年11月1日:益田市が美濃郡美都町・匹見町を編入⇒【美都町】島根県:美濃郡⇒【匹見町】島根県:美濃郡⇒【益田市】島根県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「益田市」の意味・わかりやすい解説 益田〔市〕ますだ 島根県西部,日本海沿岸と中国山地の間に広がる市。西は山口県,東は広島県に接する。 1952年益田町と安田村,北仙道村,豊川村,豊田村,高城村,小野村,中西村の7村が合体して市制。 1955年鎌手村,種村,真砂村,二条村,美濃村の5村を編入。 2004年美都町と匹見町を編入。中心は益田,高津,吉田の3地区で,益田は中世末期益田氏の城下町として,高津は柿本人麻呂をまつる柿本神社の門前町,津和野藩の門戸港として,吉田は国鉄 (現 JR) 山陰本線開通後の官公庁街として発展。鳥取県西半部の商業中心地でベニヤ板製造,製材,木工などの工場があり木材の集散地。畳表 (石見表) ,扇子の骨,桐下駄などの伝統工業もある。海岸の砂丘地では野菜やブドウを,山間部ではユズ,シイタケ,ワサビを栽培。雪舟終焉の地とされ,医光寺,万福寺にはそれぞれ雪舟庭園 (国指定史跡・名勝) が残る。市街地北部にはスクモ塚古墳 (国指定史跡) ,また高津連理のマツ,唐音の蛇岩 (いずれも国の天然記念物) があり,蟠竜湖一帯は蟠竜湖県立自然公園に属する。南東部の匹見峡は西中国山地国定公園に属する景勝地。 JR山陰本線が通じ,益田駅で山口線が分岐。国道9号線と 191号線,488号線が交差する交通の要地。面積 733.19km2。人口 4万5003(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by