須智城跡(読み)しゆうちじようあと

日本歴史地名大系 「須智城跡」の解説

須智城跡
しゆうちじようあと

[現在地名]丹波町字市森

玉雲ぎよくうん寺の東方、こと滝の北方約三〇〇メートルにあり、標高三九〇メートルの山上に位置し、京街道(山陰道)を口丹波と奥丹波に遮断する要衝にあたる。

観応三年(一三五二)八月日付中津川秀家軍忠状(遠山文書)に「同月(慶応三年五月)十五日又属御手押寄須智之城之刻」とみえる。これによれば当時南朝方に属していたことが知られる。延徳元年(一四八九)九月、船井郡を中心に大規模な国人一揆が蜂起した際、須智氏は一揆の中核的存在となり、守護細川政元が派遣した討伐軍に対抗して須智城に籠城した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む