荻野直正(読み)おぎの・なおまさ

朝日日本歴史人物事典 「荻野直正」の解説

荻野直正

没年:天正6.3.9(1578.4.15)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。丹波国黒井(保月)城(兵庫県氷上郡)城主。丹波国人赤井時家の子。悪右衛門,才丸。天文23(1554)年1月,荻野秋清を殺害して黒井城主となる。丹波国に勢威を拡大し,のち波多野秀治らと連合する。永禄8(1565)年8月,丹波守護代内藤備前守と戦いこれを斬る。同年10月,波多野晴通と共に京都長坂口で松永久秀らと合戦,元亀2(1571)年11月には,丹波国内に攻めてきた山名韶煕(祐豊)と戦っている。織田信長の命により惟任(明智)光秀大軍が押し寄せると,秀治らと抵抗を続け,天正3(1575)年9月光秀軍を黒井城におびき寄せる作戦を実行,これを挟撃,撃退した。しかし光秀軍の攻撃はこののちも続き,黒井城は同7年8月19日ついに落城。直正はそれに先立つ6年3月,面疔のため城中で死去したという。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荻野直正」の解説

荻野直正 おぎの-なおまさ

1529-1578 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)2年生まれ。赤井家清の弟。外舅の荻野秋清を殺し,天文(てんぶん)23年丹波黒井城(兵庫県)城主となり,悪右衛門と称されたという。織田信長の丹波制圧に抵抗し,天正(てんしょう)3年以後明智光秀に攻められたがよく防戦した。天正6年3月9日死去。50歳。本姓は赤井。幼名は才丸。

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世界大百科事典(旧版)内の荻野直正の言及

【丹波国】より

… しかし長頼の軍事力も永続性がなく,64年(永禄7)の長慶の死によって起こった三好政権の内訌の影響を受けざるをえなかった。65年8月氷上郡の荻野直正は黒井城下に長頼を敗死させ,ここに三好政権の丹波支配も崩壊した。以後奥郡荻野氏,多紀郡波多野氏,口郡内藤氏の三者鼎立状態が続くが,75年10月に至って織田信長は丹波征討を決意し,京都代官明智光秀を山陰道の司令官に据えた。…

※「荻野直正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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