養川汐(読み)ようせんせぎ

日本歴史地名大系 「養川汐」の解説

養川汐
ようせんせぎ

八ヶ岳西麓地帯には慶長(一五九六―一六一五)以降数多くの新田ができたが、そこを流れる河川は極めて水量が乏しく、とりわけやな川以東立場たつば川に至る原山はらやま一帯水田耕作に困難をきたし、下畑のほかは広漠とした原野として放置されるものが多かった。これに反して、北方の蓼科たてしな山麓は水量が豊富で、そこの古村では使いきれず余り水が多かった。田沢たざわ村の名主坂本市之丞(通称養川)は水量の豊富な音無おとなし川の水を上流から汐によって滝湯たきのゆ川に落し、更にまた汐によって南方鳴岩なるいわ川に落し、豊富になった水を横汐で広い原野に引き、途中の村々の水田に供給する繰越くりこし汐を中心に諏訪地方の開発を計画し、安永四年(一七七五)一二月、開発意見書を高島藩家老へ、次いで同八年五月、更に綿密な堰筋開発願を奉行所へ提出した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

立春から数えて 88日目で,現行暦では5月2日頃にあたる。八十八夜を過ぎればもはや晩霜も終りになるので,農家ではこれを種まきや茶摘み,その他の農作業開始の基準としている。日本では明暦3 (1657) ...

八十八夜の用語解説を読む