馬淵嘉平(読み)まぶち・かへい

朝日日本歴史人物事典 「馬淵嘉平」の解説

馬淵嘉平

没年嘉永4.11.11(1851.12.3)
生年:寛政5(1793)
江戸後期の高知藩士。高知生まれ。父は軍貝家孫之進。竹内流小具足組打を修業し,武技にすぐれ高知城下道場を開いた。文政年間勤番で江戸へ赴き,魚屋喜平らに心学を学ぶ。その後勘定小頭に登用され,嘉平を中心に藩内の改革派が結集し,天保14(1843)年には藩主山内豊煕が推進する藩政改革に参加した。しかし改革派は門閥層の藩士から「おこぜ組」と呼ばれ,排撃された。嘉平は前藩主山内豊資により,禁学の心学を教えたかどで投獄され失脚した。高知で獄死

(長谷川成一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「馬淵嘉平」の解説

馬淵嘉平 まぶち-かへい

1793-1851 江戸時代後期の武士
寛政5年生まれ。土佐高知藩士。竹内流小具足組打をおさめ,高知城下に道場をひらく。また魚屋喜平らに心学をまなんだ。天保(てんぽう)14年藩主山内豊煕(とよてる)にとりたてられ藩政改革をすすめたが,保守派から「おこぜ組」とそしられ,同年心学講義の嫌疑で投獄された。嘉永(かえい)4年11月11日獄死。59歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の馬淵嘉平の言及

【土佐藩】より

…18世紀に入ると1707年(宝永4)の大地震津波,27年(享保12)の城下の大火,32年の凶作など災害が相つぎ,藩は家臣の借地,農民の出米徴収,紙の専売制などを強行して,池川紙一揆に代表されるような民衆の抵抗にあい,天明改革では藩費半減の方針を採用した。その後,天保年間(1830‐44)には馬淵嘉平による改革の企てが挫折,幕末には海防問題が切迫するなかで,山内容堂(豊信)に登用された吉田東洋が安政改革を推進した。東洋が土佐勤王党に暗殺されたあと,その志を継ぐ後藤象二郎は豊信の意を受けて藩内の勤王党を制圧,やがて時勢をみて脱藩組の坂本竜馬と提携して大政奉還を実現した。…

※「馬淵嘉平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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