高知城下(読み)こうちじようか

日本歴史地名大系 「高知城下」の解説

高知城下
こうちじようか

標高四〇メートルの大高坂おおだかさ(高知山)に築かれた高知城を中心に形成された近世の城下町。東流して浦戸うらど湾に注ぐかがみ(潮江川)の下流部北岸にあり、北はくち川が東流する。この両川を南北の境界として、東西に長い城下町が形成された。この高知城下の地は、天正一五年(一五八七)の大高坂之郷地検帳および同一六年の大高坂之村地検帳に、近世の江ノ口村・比島ひじま村・小高坂こだかさ村の地域とともに大高坂村・国沢くにさわ村として検地された地と考えられる。元禄郷帳にも大高坂村が記され、本田高一〇七四・八七石となっている。

〔城下町の建設〕

関ヶ原合戦の後、土佐国を与えられた山内一豊は、慶長六年(一六〇一)一月、旧領主長宗我部氏の居城であった浦戸城に入城した。浦戸城の地は浦戸湾への入口にあたり要衝ではあったが、土地が狭く発展性がなく、また旧領主長宗我部氏の居城であるため、人心の一新を図って新城建設を計画、徳川家康の許可を得て大高坂山を城地として選んだ。大高坂山には南北朝時代、この地の土豪大高坂松王丸の城があり、長宗我部元親も岡豊おこう(現南国市)から一時ここに城を移したこともあったが、周囲は鏡川・江ノ口川による湿地が多く、城下町経営には不適当とされてきた。しかし山内一豊はこうした悪条件の地を、国内統治における要衝、発展性の面で選んだ。同年六月より計画を練り、同年八月家老百々安行を築城総奉行に任じ、五台山竹林ちくりん寺の僧空鏡による地鎮祭を行い、翌九月に着工した。同八年、本丸・二ノ丸が完成し、八月二一日、一豊は浦戸城より移った。その後八年をかけて三ノ丸が完成した。

この築城と並行して城下町の経営も進められた。城下町は当初、南側は鏡川、北側は江ノ口川を境とした。高知城を中心に郭中かちゆうを設け、家臣のうちの上士の者の居住地とし、さらに郭中を挟んで西にかみ(西町)、東にしも(東町)を配した。上町は主として足軽・武家奉公人など下士の者を住まわせ、下町は武士の生活を賄うための町人の居住地区として区画した。郭中と上町・下町との間には堀(外堀)をうがち、幅二間、高さ一間の土堤を築き、松を植えて区画した。その位置は、東は現在の廿代にじゆうだい橋から堀詰ほりづめを経て鏡川に至る線で、西は現在の城西じようせい公園の西側から川岸端を経て金子かねこ橋のあった地を通る線であった。正保年間(一六四四―四八)の高知城絵図によると、郭中の各区画内はすべて「侍屋敷」とあり、上町は北部に「足軽町」、その他は「町屋」となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高知城下の言及

【高知[市]】より

…追手筋(おうてすじ)の日曜市は近世以来の街路市の伝統があり,市民や観光客でにぎわう。【大脇 保彦】
[高知城下]
 土佐国の城下町。古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。…

※「高知城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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