国指定史跡ガイド 「高山彦九郎墓」の解説
たかやまひこくろうのはか【高山彦九郎墓】
福岡県久留米市寺町にある墓所。久留米市の中心部に近い寺町の真言宗遍照院の境内にある。高山彦九郎は江戸時代後期に活躍した上州(現在の群馬県)出身の尊皇家。郷士高山良左衛門の二男として生まれ、諱(いみな)は正之。先祖は平氏の流れをくむ高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされている。13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤皇の志をもち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴し勤皇論を説いた。林子平・蒲生君平(がもうくんぺい)とともに寛政の三奇人といわれ、王政復古を唱え、幕府の監視を受けた。1793年(寛政5)、身を寄せた久留米の医師・森嘉膳宅で自決。享年46歳。墓石は高さ75cmほどで、正面には法名「松陰以白居士」が刻まれている。多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与え、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。その勤皇思想と行動の先駆的事例として、1931年(昭和6)に居宅跡(群馬県太田市)が国の史跡に指定され、1942年(昭和17)には、この墓が指定された。西日本鉄道天神大牟田線西鉄久留米駅から徒歩約10分。