二宮尊徳(読み)ニノミヤソントク

デジタル大辞泉 「二宮尊徳」の意味・読み・例文・類語

にのみや‐そんとく【二宮尊徳】

[1787~1856]江戸後期の農政家・思想家相模の人。通称、金次郎。農家に生まれ、没落した家を再興。のち、諸藩・諸村の復興に尽力、幕臣となった。徹底した実践主義者で、その思想・行動は報徳社運動として受け継がれた。

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精選版 日本国語大辞典 「二宮尊徳」の意味・読み・例文・類語

にのみや‐そんとく【二宮尊徳】

  1. 江戸末期の農政家。通称金次郎。名は尊徳(たかのり)相模国(神奈川県)の人。苦学の末没落した一家を再興。文政五年(一八二二下野国(栃木県)芳賀郡の荒廃地の復興に努め、その後印旛沼、日光領八九か村などを復興。実証主義の立場にたち、報徳社を創始、自ら陰徳、積善、節倹を励行した。天明七~安政三年(一七八七‐一八五六

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改訂新版 世界大百科事典 「二宮尊徳」の意味・わかりやすい解説

二宮尊徳 (にのみやそんとく)
生没年:1787-1856(天明7-安政3)

江戸後期の農政家。幼名金次郎。小田原栢山(かやま)村生れ。少年時に父母を失い,伯父の家を手伝い,苦しい農耕をしながら《論語》《大学》《中庸》などを独自に学ぶ。青年期に家を再興。その後,小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功した。この経験をもとに独特の農法,農村改良策(報徳仕法)により,小田原,烏山,下館,相馬藩などのおよそ600村を復興。晩年は日光神領の立直しの命をうけ,得意の計量的,合理的な策を立てたが業半ばに死去した。農村の生産力に応じて分度を定め,勤倹を説き,その結果としての富を推譲(譲り合う)という社会的行為に導く報徳思想を広めた。主著に《三才報徳金毛録》など。すぐれた門人が多く,幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を進め,農村の振興に益した。彼の人と思想は,福住正兄《二宮翁夜話》,富田高慶《報徳記》などによって知ることができる。
執筆者:

尊徳の思想と行動は,生前や没直後には報徳社運動の周辺に影響をもつだけであったが,明治10年代になると,政府によって注目,称揚されるようになる。門人の手になる《報徳記》と《二宮翁夜話》は相次いで天覧に供せられ,さらにそれらを大日本農会などが印刷,頒布し,1889年尊徳は従四位を追贈された。これは,尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって,荒廃した農村を立て直した人物として理解されたことによると考えられている。また内村鑑三は《代表的日本人》(1894)の中で,〈その精神の“自然”の法則と結ばれたる〉〈農民聖人〉として尊徳を評価している。一方,門人や後継者たちによって報徳社は発展し,92年には神奈川県小田原と栃木県今市に尊徳を祭神とする報徳二宮神社が創建され,のちにいずれも県社となった。

 教育の場においては,明治30年代から修身の手本として顕彰されるようになる。尊徳は1900年の検定教科書《修身教典》にまず登場し,04年から使用された最初の国定教科書《尋常小学修身書》では孝行,勤勉,学問,自営の4徳目に現れる。また唱歌では,1902年の幼年唱歌に見え,11年の尋常小学唱歌には〈柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり,親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し,兄弟仲良く孝行つくす,手本は二宮金次郎〉と歌われた。かくて尊徳は明治天皇に次いで国定教科書に最も多く登場する人物となったが,いずれもその少年時代の姿を語るものであった。なお,薪を背負って書を読む少年金次郎の像を小学校に建てることが広く行われるようになるのは,昭和に入ってからのことで,当初は銅像であったものが,戦時中の金属供出によって石像にかえられたものが多い。戦後最初に発行された1円札の図柄も尊徳の肖像であった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二宮尊徳」の意味・わかりやすい解説

二宮尊徳
にのみやそんとく
(1787―1856)

江戸後期の農政家。名は金次郎、尊徳は後の名乗(なのり)。相模(さがみ)国足柄上(あしがらかみ)郡栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)百姓利右衛門(りえもん)の長子に生まれる。早くから父母に死別、兄弟は親戚(しんせき)の家に分散、二宮家伝来の田地はすべて人手に渡る。17歳のとき用水堀の空き地に棄苗(すてなえ)を植えて米一俵を収穫、「小を積んで大を為(な)す」ことを実感したという。苦難のすえに24歳で一町四反歩の農地を所持し、一家の再興に成功。1818年(文政1)小田原藩家老服部(はっとり)家の家政再建を依頼され、また老中に就任した藩主大久保忠真(ただざね)より模範人物として表彰された。1820年江戸在勤の小田原藩士たちのために低利の貸付金と五常講(ごじょうこう)を考案して苦境を救う。1822年藩主忠真より分家宇津(うつ)家(旗本)の領地再建を命ぜられ、下野(しもつけ)国(栃木県)桜町(さくらまち)領の復興を図り、1831年(天保2)第一期を終了。1833年初夏のナスに秋の味があるのに驚き、稗(ひえ)を播(ま)かせて飢饉(ききん)を防いだという。1837年藩主忠真より前年からの飢饉に苦しむ小田原藩領の救済を命ぜられ、小田原へ赴く。1840年から小田原付近の農村救済のための報徳仕法(ほうとくしほう)を実施する。1842年老中水野忠邦(ただくに)より普請役(ふしんやく)格として幕府役人に取り立てられる。1844年(弘化1)「日光仕法雛形(にっこうしほうひなかた)」を作成、一家、一村、一藩再建のための指導書とする。尊徳の指導は小田原藩領のほか日光神領、烏山(からすやま)、下館(しもだて)、相馬(そうま)各藩に及んだ。日光神領立直し仕法の業なかばに、安政(あんせい)3年10月20日、下野国今市(いまいち)陣屋で病没、70歳。著書に『為政鑑(いせいかがみ)』『富国方法書』『三才報徳金毛録』などがある。おもな門人には『報徳記』の著者富田高慶(とみたたかよし)、『二宮翁夜話』の著者福住正兄(ふくずみまさえ)や安居院庄七(あぐいしょうしち)、岡田良一郎らがいる。

 尊徳は身長6尺(約182センチメートル)、体重25貫(約94キログラム)の強健な大男で、合理的精神に富み、和漢の古典を独自に読み替える独特の才能があった。彼の思想は実践活動と深く結び付いていた。各自が財力に応じて支出計画をたてることを「分度(ぶんど)」といい、分度生活の結果生ずる余剰を社会に還元することを求め、これを「推攘(すいじょう)」と称した。分度をたてて推攘を図ることによって人は苦境を脱し、一村は再興され、藩もまた立ち直るとした。この方法(仕法)の根本は報徳精神とよばれ、明治以後の農村の精神的背骨として多くの影響を与えた。墓は神奈川県小田原市栢山の善栄(ぜんえい)寺、同地には尊徳記念館があり、生家が保存されている。また小田原市および栃木県日光市に報徳二宮神社がある。

[内田哲夫]

『『日本の名著26 二宮尊徳』(1970・中央公論社)』『守田志郎著『二宮尊徳』(1975・朝日新聞社)』

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朝日日本歴史人物事典 「二宮尊徳」の解説

二宮尊徳

没年:安政3.10.20(1856.11.17)
生年:天明7.7.23(1787.9.4)
江戸後期の農政家,報徳主義の創唱者。通称金次郎,諱は尊徳。身長5尺5,6寸(167~170cm),筋骨たくましい偉丈夫と伝えられる。相模国足柄上郡栢山村(小田原市)の百姓利右衛門,よしの長男。14歳で父を失い,その2年後に母が死に,伯父の家に預けられたが,奮励努力して没落した生家を20歳で再興した。文化9(1812)年小田原藩家老服部十郎兵衛家の若党となり,文政1(1818)年服部家の財政立て直しを依頼され,倹約と借入金の運用によりそれを成功させた。同5年その功により小田原藩に登用され,藩主の分家旗本宇津氏の領地下野国桜町領(栃木県真岡市,二宮町)の難村復興を命ぜられ,天保8(1837)年にかけて報徳仕法のモデルといわれる桜町仕法を施して成功。天保4年以降,旗本川副氏の領地常陸国青木村,細川氏の谷田部・茂木藩,宇津氏の一族である大久保氏の烏山藩,石川氏の下館藩,真岡・東郷両代官所支配の幕領,日光神領など,現在の茨城・栃木県下の北関東各地の仕法を手がけた。のちに二宮門四大人と呼ばれる富田高慶,斎藤高行,福住正兄,岡田良一郎はいずれもこの間に教えを受けた門弟である。子の弥太郎尊行も尊徳をたすけ,娘文子は富田高慶に嫁した。尊徳は晩年,御普請役格20俵2人扶持の幕臣に取り立てられ,日光領仕法中,下野国今市で病没。これらの領主層から依頼され領主の趣法あるいは主法として行った難村復興事業を行政式仕法というが,そのほか地主,豪農が中心となり,村民の自主的な組織である報徳結社によって報徳の教えを実践する結社式仕法が各地に普及した。 報徳仕法が成功した要因のひとつは,事前に詳細な調査を行ってプランをたて,領主をはじめ地主,農民の分に応じた消費を規定した「分度」を画定し,余財を自己の将来や他人のために「推譲」することとし,報徳金と称する領主と農民との中間に位置する資金を創設運用したこと,もうひとつは,窮乏する共同体の経済から上昇農民の自立を目指す「勤労」エネルギーを褒賞制度などによってひき出したことである。もともと報徳思想は神儒仏3教の折衷より成るが,自然の天道に対し衣食住を生み出す人道を対置し,生産労働と生活規律を重視するなど,民衆の生活意識に根ざす規範を創出した点に新時代へ向けた思想化をみることができる。 明治以降,内村鑑三『代表的日本人』(1894)などは,経済行為の基礎としての道徳を説いた尊徳を肯定的に評価した。他方,明治政府は国民教化の観点から尊徳を顕彰し,明治37(1904)年以降,修身教科書に孝行,学問,勤勉,精励,節倹など,多くの徳を備えた人物として登場させた。昭和初年以降,小学校校庭の「負薪読書」の金次郎像も一般化する。これらは貧しい民衆の能動的エネルギーを開発しつつ,これを体制内にとどめおこうとする支配層の意図にもとづく。戦後の一時期,平和と民主主義のシンボルとしての二宮尊徳像が再生し,1円札の肖像案(1946)ともなったが,今日でも勤倹節約の模範人物としてのイメージが強く残っている。<参考文献>『二宮尊徳全集』全36巻,佐々井信太郎『二宮尊徳伝』,奈良本辰也『二宮尊徳』

(海野福寿)

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百科事典マイペディア 「二宮尊徳」の意味・わかりやすい解説

二宮尊徳【にのみやそんとく】

江戸後期の農政家,農村復興の指導者。通称は金次郎。相模国栢山(かやま)村の人。早く父母を失い,伯父の家を手伝いながら学問に励んだ。のちに家を再興,その後,小田原藩士服部家の再建(1818年より)や同藩領下野(しもつけ)国桜町領の農村復興(1837年より)に成功した。これらの経験をもとに報徳仕法とよばれる独自の農村改良策をもって小田原ほか烏山・下館・相馬各藩の疲弊した農村約600村を再建した。ついで1853年日光神領の立直しに取かかり,奔走中に没した。その思想と業績は明治以後も報徳社が受け継いだ。→報徳思想
→関連項目岡田良一郎酒匂川二宮[町]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二宮尊徳」の意味・わかりやすい解説

二宮尊徳
にのみやそんとく

[生]天明7(1787).7.23. 相模,栢山
[没]安政3(1856).10.20. 下野
江戸時代末期の農民思想家。通称,金次郎。 14歳のとき父を,16歳のとき母を失い,田畑は酒匂 (さかわ) 川の洪水によって流失して伯父の家に寄食。苦学して一家を再興し,田畑約4町歩をもつ地主となった。文政1 (1818) 年旧主小田原藩家老服部家の家政改革を託され,その手腕を認められて小田原城主大久保忠真から模範篤農家として表彰された。さらに小田原藩領下野桜町,駿河,相模,伊豆の3国,常陸国真壁,芳賀両郡,幕府の日光神領 90ヵ村などの復興に従事。天保 13 (42) 年御普請役格に任じられたが,安政3 (56) 年日光神領の復旧に参与中,病死。弟子富田高慶述の『報徳記』,弟子福住正兄筆記の『二宮翁夜話』がある。 (→報徳思想 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「二宮尊徳」の解説

二宮尊徳
にのみやそんとく

1787.7.23~1856.10.20

江戸後期の農村復興の指導者。通称金次郎。公人としては尊徳を使用。諱である尊徳の正式の読みは「たかのり」。相模国足柄上郡栢山(かやま)村生れ。少年期に父母を失い,災害で没落した家を独力で再興。この体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を形成,また家・村を復興し興国安民を実現する仕法を体系化した。1822年(文政5)に小田原藩に登用され,42年(天保13)には普請役格の幕臣となる。関東と周辺の諸藩領・旗本領・幕領・日光神領の復興や個別の家・村の再建を依頼されて指導。下野国今市(いまいち)の仕法役所で没す。その思想・仕法は報徳社に受け継がれた。著作・仕法書類は「二宮尊徳全集」所収。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「二宮尊徳」の解説

二宮尊徳 にのみや-そんとく

1787-1856 江戸時代後期の農政家。
天明7年7月23日生まれ。勤倹努力して没落した家を再興。小田原藩家老服部家,藩主の分家宇津家の下野(しもつけ)(栃木県)桜町領,陸奥(むつ)中村藩(福島県)などの再建に尽力。のち幕臣となり,日光領の復興にあたる。門下はその教えをうけて報徳社運動を展開した。「二宮尊徳全集」がある。安政3年10月20日死去。70歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。通称は金次郎。名は「たかのり」ともよむ。
【格言など】大事をなさんと思わば小なることを怠らず勤むべし,小積りて大となればなり

二宮尊徳 にのみや-たかのり

にのみや-そんとく

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旺文社日本史事典 三訂版 「二宮尊徳」の解説

二宮尊徳
にのみやそんとく

1787〜1856
江戸後・末期の農政家
通称金次郎。相模(神奈川県)の人。少年期に父母を失い,苦学して学業に励み,没落した一家を再興。徹底した倹約実践家で,また神・儒・仏に基づく報徳精神を説いた。小田原藩桜町領の農村復興に成功して認められ,のち普請役格の幕臣となる。以後常陸 (ひたち) (茨城県)その他各地の農村復興に尽力。彼の弟子たちにより報徳社運動が全国的に展開された。主著に『報徳記』など

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367日誕生日大事典 「二宮尊徳」の解説

二宮尊徳 (にのみやそんとく)

生年月日:1787年7月23日
江戸時代後期の農政家
1856年没

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世界大百科事典(旧版)内の二宮尊徳の言及

【今市[市]】より

…1696年(元禄9)には宿の家数186軒,ほかに水呑百姓が37軒という記録がある。幕末,二宮尊徳が日光山領の農村復興にあたり,1855年(安政2)報徳役所が建てられ,翌56年,彼はそこで病没した。1889年,周辺8ヵ村をあわせて町制をしく。…

【恩】より

…もっとも日本の儒学は中国の場合と同様に恩をあまり問題にすることがなかったが,近世の中江藤樹や貝原益軒にいたって恩の考えが積極的にとりあげられ,忠孝があらゆる徳目の根源とされた。近世末になって二宮尊徳が天地人の三才の徳に報ずることを説いたのも,そのような精神がうけつがれたためと考えられる。 こうして主君にたいする報恩()と父母にたいする報恩()の強調は,制度的には人倫の上下関係を秩序づけるとともに,家父長制と封建体制の安定化に貢献した。…

【経世済民論】より

…これに対し農村と農民の現実の中から対応策を学びとり,実践した一連の農政家,農学者の経世論がある。二宮尊徳(1787‐1856)の荒村復興仕法=尊徳仕法のもとは,徂徠の考え方の流れをくむ〈人道作為〉の論である。彼は天道と人道を分離し,人道を作為の道とする。…

【下館[市]】より

…18世紀中葉には与謝蕪村が下館,結城に滞在し,句集や絵画を残している。天保期(1830‐44)に至り,領内の荒廃が著しいため,藩当局および藩御用達を勤める有力町人の要望により二宮尊徳が招かれ,下館に滞在して改革仕法を施した。【林 玲子】。…

【植物】より

…しかし小麦の出現とともに人類は堕落した〉と述べて原始生活を賛美したが,逆にボルテールは〈小麦を知ってしまっているわれわれを,再びどんぐりの時代へと連れもどすな〉ということわざを使って,時代に逆行する試みをいましめた(《哲学辞典》〈小麦〉の項)。また二宮尊徳は〈豊あしのふか野が原を田となして食をもとめて喰ふ楽しさ〉という歌を詠んで,葦原(あしはら)から稲田への移行をよしとした。このように,農業時代のシンボルである麦や稲は人間にとって有用な存在ではあるが,しかし,野生植物にくらべるとひ弱い存在である。…

【二宮[町]】より

…近年,電子部品,鉄鋼などの工場が建設された。物井には小田原藩主大久保氏の分家,宇津氏の桜町陣屋跡(史)があるが,1822年(文政5)二宮尊徳は大久保氏に請われてこの陣屋に入り,荒廃していたこの地の復興に尽力した。尊徳がつくったという堰や穴川用水が残されている。…

【報徳社】より

二宮尊徳の報徳主義を実践するための結社。報徳とは《論語》における〈以徳報徳〉に由来するもので,天・地・人三才の徳に報いるに,実践的徳行をもってすることを意味する。…

※「二宮尊徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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