江戸後期の農政家。幼名金次郎。小田原在栢山(かやま)村生れ。少年時に父母を失い,伯父の家を手伝い,苦しい農耕をしながら《論語》《大学》《中庸》などを独自に学ぶ。青年期に家を再興。その後,小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功した。この経験をもとに独特の農法,農村改良策(報徳仕法)により,小田原,烏山,下館,相馬藩などのおよそ600村を復興。晩年は日光神領の立直しの命をうけ,得意の計量的,合理的な策を立てたが業半ばに死去した。農村の生産力に応じて分度を定め,勤倹を説き,その結果としての富を推譲(譲り合う)という社会的行為に導く報徳思想を広めた。主著に《三才報徳金毛録》など。すぐれた門人が多く,幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を進め,農村の振興に益した。彼の人と思想は,福住正兄《二宮翁夜話》,富田高慶《報徳記》などによって知ることができる。
執筆者:塚谷 晃弘
尊徳の思想と行動は,生前や没直後には報徳社運動の周辺に影響をもつだけであったが,明治10年代になると,政府によって注目,称揚されるようになる。門人の手になる《報徳記》と《二宮翁夜話》は相次いで天覧に供せられ,さらにそれらを大日本農会などが印刷,頒布し,1889年尊徳は従四位を追贈された。これは,尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって,荒廃した農村を立て直した人物として理解されたことによると考えられている。また内村鑑三は《代表的日本人》(1894)の中で,〈その精神の“自然”の法則と結ばれたる〉〈農民聖人〉として尊徳を評価している。一方,門人や後継者たちによって報徳社は発展し,92年には神奈川県小田原と栃木県今市に尊徳を祭神とする報徳二宮神社が創建され,のちにいずれも県社となった。
教育の場においては,明治30年代から修身の手本として顕彰されるようになる。尊徳は1900年の検定教科書《修身教典》にまず登場し,04年から使用された最初の国定教科書《尋常小学修身書》では孝行,勤勉,学問,自営の4徳目に現れる。また唱歌では,1902年の幼年唱歌に見え,11年の尋常小学唱歌には〈柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり,親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し,兄弟仲良く孝行つくす,手本は二宮金次郎〉と歌われた。かくて尊徳は明治天皇に次いで国定教科書に最も多く登場する人物となったが,いずれもその少年時代の姿を語るものであった。なお,薪を背負って書を読む少年金次郎の像を小学校に建てることが広く行われるようになるのは,昭和に入ってからのことで,当初は銅像であったものが,戦時中の金属供出によって石像にかえられたものが多い。戦後最初に発行された1円札の図柄も尊徳の肖像であった。
執筆者:大山 雄三
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江戸後期の農政家。名は金次郎、尊徳は後の名乗(なのり)。相模(さがみ)国足柄上(あしがらかみ)郡栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)百姓利右衛門(りえもん)の長子に生まれる。早くから父母に死別、兄弟は親戚(しんせき)の家に分散、二宮家伝来の田地はすべて人手に渡る。17歳のとき用水堀の空き地に棄苗(すてなえ)を植えて米一俵を収穫、「小を積んで大を為(な)す」ことを実感したという。苦難のすえに24歳で一町四反歩の農地を所持し、一家の再興に成功。1818年(文政1)小田原藩家老服部(はっとり)家の家政再建を依頼され、また老中に就任した藩主大久保忠真(ただざね)より模範人物として表彰された。1820年江戸在勤の小田原藩士たちのために低利の貸付金と五常講(ごじょうこう)を考案して苦境を救う。1822年藩主忠真より分家宇津(うつ)家(旗本)の領地再建を命ぜられ、下野(しもつけ)国(栃木県)桜町(さくらまち)領の復興を図り、1831年(天保2)第一期を終了。1833年初夏のナスに秋の味があるのに驚き、稗(ひえ)を播(ま)かせて飢饉(ききん)を防いだという。1837年藩主忠真より前年からの飢饉に苦しむ小田原藩領の救済を命ぜられ、小田原へ赴く。1840年から小田原付近の農村救済のための報徳仕法(ほうとくしほう)を実施する。1842年老中水野忠邦(ただくに)より普請役(ふしんやく)格として幕府役人に取り立てられる。1844年(弘化1)「日光仕法雛形(にっこうしほうひなかた)」を作成、一家、一村、一藩再建のための指導書とする。尊徳の指導は小田原藩領のほか日光神領、烏山(からすやま)、下館(しもだて)、相馬(そうま)各藩に及んだ。日光神領立直し仕法の業なかばに、安政(あんせい)3年10月20日、下野国今市(いまいち)陣屋で病没、70歳。著書に『為政鑑(いせいかがみ)』『富国方法書』『三才報徳金毛録』などがある。おもな門人には『報徳記』の著者富田高慶(とみたたかよし)、『二宮翁夜話』の著者福住正兄(ふくずみまさえ)や安居院庄七(あぐいしょうしち)、岡田良一郎らがいる。
尊徳は身長6尺(約182センチメートル)、体重25貫(約94キログラム)の強健な大男で、合理的精神に富み、和漢の古典を独自に読み替える独特の才能があった。彼の思想は実践活動と深く結び付いていた。各自が財力に応じて支出計画をたてることを「分度(ぶんど)」といい、分度生活の結果生ずる余剰を社会に還元することを求め、これを「推攘(すいじょう)」と称した。分度をたてて推攘を図ることによって人は苦境を脱し、一村は再興され、藩もまた立ち直るとした。この方法(仕法)の根本は報徳精神とよばれ、明治以後の農村の精神的背骨として多くの影響を与えた。墓は神奈川県小田原市栢山の善栄(ぜんえい)寺、同地には尊徳記念館があり、生家が保存されている。また小田原市および栃木県日光市に報徳二宮神社がある。
[内田哲夫]
『『日本の名著26 二宮尊徳』(1970・中央公論社)』▽『守田志郎著『二宮尊徳』(1975・朝日新聞社)』
(海野福寿)
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1787.7.23~1856.10.20
江戸後期の農村復興の指導者。通称金次郎。公人としては尊徳を使用。諱である尊徳の正式の読みは「たかのり」。相模国足柄上郡栢山(かやま)村生れ。少年期に父母を失い,災害で没落した家を独力で再興。この体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を形成,また家・村を復興し興国安民を実現する仕法を体系化した。1822年(文政5)に小田原藩に登用され,42年(天保13)には普請役格の幕臣となる。関東と周辺の諸藩領・旗本領・幕領・日光神領の復興や個別の家・村の再建を依頼されて指導。下野国今市(いまいち)の仕法役所で没す。その思想・仕法は報徳社に受け継がれた。著作・仕法書類は「二宮尊徳全集」所収。
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…1696年(元禄9)には宿の家数186軒,ほかに水呑百姓が37軒という記録がある。幕末,二宮尊徳が日光山領の農村復興にあたり,1855年(安政2)報徳役所が建てられ,翌56年,彼はそこで病没した。1889年,周辺8ヵ村をあわせて町制をしく。…
…もっとも日本の儒学は中国の場合と同様に恩をあまり問題にすることがなかったが,近世の中江藤樹や貝原益軒にいたって恩の考えが積極的にとりあげられ,忠孝があらゆる徳目の根源とされた。近世末になって二宮尊徳が天地人の三才の徳に報ずることを説いたのも,そのような精神がうけつがれたためと考えられる。 こうして主君にたいする報恩(忠)と父母にたいする報恩(孝)の強調は,制度的には人倫の上下関係を秩序づけるとともに,家父長制と封建体制の安定化に貢献した。…
…これに対し農村と農民の現実の中から対応策を学びとり,実践した一連の農政家,農学者の経世論がある。二宮尊徳(1787‐1856)の荒村復興仕法=尊徳仕法のもとは,徂徠の考え方の流れをくむ〈人道作為〉の論である。彼は天道と人道を分離し,人道を作為の道とする。…
…18世紀中葉には与謝蕪村が下館,結城に滞在し,句集や絵画を残している。天保期(1830‐44)に至り,領内の荒廃が著しいため,藩当局および藩御用達を勤める有力町人の要望により二宮尊徳が招かれ,下館に滞在して改革仕法を施した。【林 玲子】。…
…しかし小麦の出現とともに人類は堕落した〉と述べて原始生活を賛美したが,逆にボルテールは〈小麦を知ってしまっているわれわれを,再びどんぐりの時代へと連れもどすな〉ということわざを使って,時代に逆行する試みをいましめた(《哲学辞典》〈小麦〉の項)。また二宮尊徳は〈豊あしのふか野が原を田となして食をもとめて喰ふ楽しさ〉という歌を詠んで,葦原(あしはら)から稲田への移行をよしとした。このように,農業時代のシンボルである麦や稲は人間にとって有用な存在ではあるが,しかし,野生植物にくらべるとひ弱い存在である。…
…近年,電子部品,鉄鋼などの工場が建設された。物井には小田原藩主大久保氏の分家,宇津氏の桜町陣屋跡(史)があるが,1822年(文政5)二宮尊徳は大久保氏に請われてこの陣屋に入り,荒廃していたこの地の復興に尽力した。尊徳がつくったという堰や穴川用水が残されている。…
…二宮尊徳の報徳主義を実践するための結社。報徳とは《論語》における〈以徳報徳〉に由来するもので,天・地・人三才の徳に報いるに,実践的徳行をもってすることを意味する。…
※「二宮尊徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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