江戸後期の経世家。「寛政(かんせい)の三奇人」の一人といわれ、奇行もあって知られる。幕臣岡村源五兵衛(げんごべえ)(1700―1767)の次子として、元文(げんぶん)3年6月21日江戸に生まれる。名は友直(ともなお)。父が浪人したので、兄嘉膳(かぜん)とともに叔父の林従吾(じゅうご)に養われ、林姓を名のる。兄が仙台藩に仕官することになり、1757年(宝暦7)仙台に居を移した。
1764年(明和1)朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴く。『仙台閑話』を著す。翌1765年、第一上書「富国建議」を、当時財政難に苦しんでいた仙台藩に提出し富国策を説いた。学制、武備、制度、地利、倹約などの9篇(へん)からなる。国政の第一は人材であり、人材は学問によって生ずるから、国政の第一は学政であるとした。「地利」では仙台藩の潜在的生産力を基に策をたて、武備=富国強兵は「国政の第一成事(なること)」とし、武士の土着を説いた点に先駆的特色がある。1775年(安永4)長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学に志す。その後二度長崎に学び、江戸では大槻玄沢(おおつきげんたく)、宇田川玄随(うだがわげんずい)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)ら蘭学(らんがく)者と交遊し、「国際的」感覚を身につけた。
1777年『海国兵談』の稿をおこす。1785年(天明5)国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球(りゅうきゅう)、蝦夷(えぞ)、小笠原(おがさわら)諸島の地理を記す。また「富国策」(上書)を藩に提出。翌1786年『海国兵談』6巻を完成、自費出版。海国日本にふさわしい国防体制、武備を説いた、外圧に対する先駆的著述である。この年ロシアの軍艦が蝦夷にきた。幕府は同書を体制を揺るがす危険の書とみなし、1792年5月、板木(はんぎ)・製本を没収、子平に仙台の兄宅での蟄居(ちっきょ)を命じ、12月囚人として江戸に送られた。このとき「親も無し妻無し子無し板木無し……」と詠んだ歌は有名。また「いろは歌」に「りひはただひいきの沙汰(さた)を取りのけて理の当然を明白にせよ」と詠んだあたり、近代的理性・知性の芽生えを感じさせる。寛政(かんせい)5年6月21日、不遇のうちに没。
[塚谷晃弘 2016年6月20日]
『奈良本辰也校注『日本思想大系38 近世政道論』(1976・岩波書店)』▽『『新編 林子平全集』全5巻(1978〜1980・第一書房)』
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江戸中期の経世論家。名は友直。幕臣岡村良通の次男で江戸の生れ。父が罪を得て除籍されたため,幼いころ町医者の叔父林従吾に養われた。1756年(宝暦6)兄嘉膳が仙台藩士に挙げられ,翌年仙台詰めとなったので,一家は仙台に移った。子平の身分は無禄厄介という不遇なものだったが,これを逆用して自由に出府し,あるいは長崎に赴くなどして見聞を広めた。江戸では工藤平助に兄事し,あるいは桂川甫周らの蘭学者と交わり,新知識を学んだ。漢学の学統は不明であるが,徂徠学の影響が大きく,その立場から藩当局にあてて藩政改革に関する上書を3度書いている。他方,子平は長崎で蘭人から北方海域におけるロシアの進出をきき,《三国通覧図説》《海国兵談》を著し,海防に関する世論の喚起につとめた。しかし,このことが幕府の忌諱(きい)に触れ,92年(寛政4)5月に在所蟄居(ちつきよ)を命ぜられ,板木・製本はともに没収されて不遇のうちに翌年病死した。
執筆者:佐藤 昌介
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(沼田哲)
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1738.6.21~93.6.21
江戸中・後期の経世思想家。名は友直,号は六無斎。父は幕臣だったが牢人となり,兄の仙台藩への出仕を機に仙台に移った。江戸や長崎に遊学し,工藤平助や大槻玄沢(げんたく)らと交わり海外事情を学んだ。藩当局に藩政改革に関する上書を3度提出する一方,1785年(天明5)「三国通覧図説」,翌年「海国兵談」を著し,日本周辺の状況と海防への世論の喚起をはかった。しかし,これらの書物は人心を惑わし政治を私議したとの理由で,92年(寛政4)仙台蟄居を命じられ,板木・製本とも没収,翌年不遇のうちに病没した。高山彦九郎・蒲生君平とともに寛政三奇人の1人。
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…中村覚関東都督は増援部隊(騎兵2中隊,歩兵1大隊)を派遣し鄭家屯を占領,四平街~鄭家屯間の中国軍の撤退を要求,かつ両地間に軍用電線を架設した。大隈重信内閣は9月2日林権助公使をして中国軍第28師団長の懲戒,南満州・東部内蒙古の必要な地点への警察官の駐在などを中国側に要求させた。同時に中国士官学校への日本将校の傭聘(ようへい),奉天督軍の謝罪などを希望条項として提出,日中間の懸案となった。…
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