林子平(読み)はやししへい

精選版 日本国語大辞典 「林子平」の意味・読み・例文・類語

はやし‐しへい【林子平】

江戸中期の海防思想家。名は友直、字は子平。幕臣岡村良通の第二子。海外事情に注目し、蝦夷各地を探検。「三国通覧図説」「海国兵談」などを著わし、海防の必要を説いたが、幕府の忌諱にふれて禁錮高山彦九郎蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称された。元文三~寛政五年(一七三八‐九三

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デジタル大辞泉 「林子平」の意味・読み・例文・類語

はやし‐しへい【林子平】

[1738~1793]江戸中期の経世家。江戸の人。名は友直。大槻玄沢宇田川玄随らと交遊。海外事情に通じ、蝦夷えぞ地開拓の必要性を説いたが、「三国通覧図説」「海国兵談」などが幕府の忌諱ききに触れ、蟄居ちっきょを命ぜられた。寛政の三奇人の一人。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林子平」の意味・わかりやすい解説

林子平
はやししへい
(1738―1793)

江戸後期の経世家。「寛政(かんせい)の三奇人」の一人といわれ、奇行もあって知られる。幕臣岡村源五兵衛(げんごべえ)(1700―1767)の次子として、元文(げんぶん)3年6月21日江戸に生まれる。名は友直(ともなお)。父が浪人したので、兄嘉膳(かぜん)とともに叔父の林従吾(じゅうご)に養われ、林姓を名のる。兄が仙台藩に仕官することになり、1757年(宝暦7)仙台に居を移した。

 1764年(明和1)朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴く。『仙台閑話』を著す。翌1765年、第一上書「富国建議」を、当時財政難に苦しんでいた仙台藩に提出し富国策を説いた。学制、武備、制度、地利、倹約などの9篇(へん)からなる。国政の第一は人材であり、人材は学問によって生ずるから、国政の第一は学政であるとした。「地利」では仙台藩の潜在的生産力を基に策をたて、武備=富国強兵は「国政の第一成事(なること)」とし、武士土着を説いた点に先駆的特色がある。1775年(安永4)長崎に行き、オランダ人からロシア南下形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学に志す。その後二度長崎に学び、江戸では大槻玄沢(おおつきげんたく)、宇田川玄随(うだがわげんずい)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)ら蘭学(らんがく)者と交遊し、「国際的」感覚を身につけた。

 1777年『海国兵談』の稿をおこす。1785年(天明5)国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球(りゅうきゅう)、蝦夷(えぞ)、小笠原(おがさわら)諸島の地理を記す。また「富国策」(上書)を藩に提出。翌1786年『海国兵談』6巻を完成、自費出版。海国日本にふさわしい国防体制、武備を説いた、外圧に対する先駆的著述である。この年ロシアの軍艦が蝦夷にきた。幕府は同書を体制を揺るがす危険の書とみなし、1792年5月、板木(はんぎ)・製本を没収、子平に仙台の兄宅での蟄居(ちっきょ)を命じ、12月囚人として江戸に送られた。このとき「親も無し妻無し子無し板木無し……」と詠んだ歌は有名。また「いろは歌」に「りひはただひいきの沙汰(さた)を取りのけて理の当然を明白にせよ」と詠んだあたり、近代的理性・知性の芽生えを感じさせる。寛政(かんせい)5年6月21日、不遇のうちに没。

[塚谷晃弘 2016年6月20日]

『奈良本辰也校注『日本思想大系38 近世政道論』(1976・岩波書店)』『『新編 林子平全集』全5巻(1978〜1980・第一書房)』


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百科事典マイペディア 「林子平」の意味・わかりやすい解説

林子平【はやししへい】

江戸中期の経世(けいせい)論家。名は友直(ともなお)。幕臣岡村良通(よしみち)の子として江戸に生まれ,のち陸奥(むつ)仙台藩士となる。長崎に遊学,海外事情を学び,工藤平助桂川甫周らと交わった。ロシア南下を警告し海防・蝦夷(えぞ)地開拓を説いた《海国兵談》を著して幕府の忌諱(きい)に触れ,1792年板木,製本は没収,在所蟄居(ちっきょ)を命じられ,翌年不遇のうちに病死した。蒲生君平高山彦九郎とともに寛政(かんせい)の三奇人の一人。ほかに著書《三国通覧図説》。
→関連項目海防論寛政改革経世家三国通覧図説

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改訂新版 世界大百科事典 「林子平」の意味・わかりやすい解説

林子平 (はやししへい)
生没年:1738-93(元文3-寛政5)

江戸中期の経世論家。名は友直。幕臣岡村良通の次男で江戸の生れ。父が罪を得て除籍されたため,幼いころ町医者の叔父林従吾に養われた。1756年(宝暦6)兄嘉膳が仙台藩士に挙げられ,翌年仙台詰めとなったので,一家は仙台に移った。子平の身分は無禄厄介という不遇なものだったが,これを逆用して自由に出府し,あるいは長崎に赴くなどして見聞を広めた。江戸では工藤平助に兄事し,あるいは桂川甫周らの蘭学者交わり,新知識を学んだ。漢学の学統は不明であるが,徂徠学の影響が大きく,その立場から藩当局にあてて藩政改革に関する上書を3度書いている。他方,子平は長崎で蘭人から北方海域におけるロシアの進出をきき,《三国通覧図説》《海国兵談》を著し,海防に関する世論の喚起につとめた。しかし,このことが幕府の忌諱(きい)に触れ,92年(寛政4)5月に在所蟄居(ちつきよ)を命ぜられ,板木・製本はともに没収されて不遇のうちに翌年病死した。
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朝日日本歴史人物事典 「林子平」の解説

林子平

没年:寛政5.6.21(1793.7.28)
生年:元文3.6.21(1738.8.6)
江戸後期の経世家。名は友直,号は晩年に六無斎。幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。父が除籍され叔父の町医者林従吾に養われた。姉なおが仙台藩主伊達宗村の側室となり,兄嘉膳が仙台藩に仕えたため,子平も宝暦7(1757)年仙台に移住。子平は終生無禄厄介の身分であった。明和4(1767)年以来しばしば江戸に遊学し,工藤平助に兄事,大槻玄沢,桂川甫周 ら蘭学者と交わり,また安永7(1778)年の長崎遊学ではオランダ商館長アーレント・フェイトと知り合うなど,海外事情の吸収に努め,天明5(1785)年『三国通覧図説』を著し,朝鮮・琉球・蝦夷の地理民俗紹介とロシアへの防備策としての蝦夷地開発を説き,さらに6年『海国兵談』では「江戸の日本橋より唐,阿蘭陀迄境なしの水路」であると述べ,特に江戸湾防備を説いた。この2著は寛政4(1792)年幕府から弾圧され,版木没収,子平の仙台蟄居となり,翌5年不遇のうちに病死した。ロシアのラクスマンが根室に来航,通商を求めたのは子平蟄居の年であったことは象徴的である。<著作>『林子平全集』全5巻<参考文献>平重道『林子平その人と思想』

(沼田哲)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林子平」の意味・わかりやすい解説

林子平
はやししへい

[生]元文3(1738).6. 江戸
[没]寛政5(1793).6.21. 仙台
江戸時代中期の経世家。寛政三奇人の一人 (→蒲生君平 , 高山彦九郎 ) 。名は友直 (ともちか) 。儒者で幕臣だった岡村良通の二男。伊達家家臣の長兄のもとで同藩の工藤平助らと交際,のち江戸,長崎に遊学しオランダ商館や蘭学者の間に出入りして海外情勢に関する認識を深め,天明5 (1785) 年『三国通覧図説』を出版し,蝦夷地の経略を急いでロシアの南下政策に対処すべきであると海防論を力説した。寛政3 (1791) 年『海国兵談』全巻刊行を終え,同様の論旨で江戸幕府の鎖国無為政策を批判。このため幕府の処罰を受け (→寛政の改革 ) ,みずから六無斎と称し,まもなく病没。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「林子平」の解説

林子平
はやししへい

1738.6.21~93.6.21

江戸中・後期の経世思想家。名は友直,号は六無斎。父は幕臣だったが牢人となり,兄の仙台藩への出仕を機に仙台に移った。江戸や長崎に遊学し,工藤平助や大槻玄沢(げんたく)らと交わり海外事情を学んだ。藩当局に藩政改革に関する上書を3度提出する一方,1785年(天明5)「三国通覧図説」,翌年「海国兵談」を著し,日本周辺の状況と海防への世論の喚起をはかった。しかし,これらの書物は人心を惑わし政治を私議したとの理由で,92年(寛政4)仙台蟄居を命じられ,板木・製本とも没収,翌年不遇のうちに病没した。高山彦九郎・蒲生君平とともに寛政三奇人の1人。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林子平」の解説

林子平 はやし-しへい

1738-1793 江戸時代中期-後期の経世家。
元文3年6月21日生まれ。幕臣林笠翁(りゅうおう)の次男。兄林嘉膳が陸奥(むつ)仙台藩につかえたため,仙台にうつる。藩に富国策を提出。江戸,長崎で大槻玄沢,オランダ人らに海外事情をきく。天明5年(1785)「三国通覧図説」,6年「海国兵談」をあらわし海防の必要を説くが,幕府の怒りにふれ蟄居(ちっきょ)となり,両書の板木は没収された。寛政5年6月21日死去。56歳。名は友直。号は六無斎。
【格言など】親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし(「六無の歌」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「林子平」の解説

林子平
はやししへい

1738〜93
江戸中・後期の経世思想家。寛政の三奇人の一人
仙台藩士。数度にわたり長崎に遊学。オランダ人から海外事情を学び,ロシアの南下の情報をきき,『三国通覧図説』『海国兵談』を著し,「江戸の日本橋より唐・オランダまで,境なしの水路なり」と海防の急務を説いた。しかし1792年幕府により世論を惑わすものとして版木を没収され,禁錮刑に処せられ,翌年不遇のうちに没した。

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367日誕生日大事典 「林子平」の解説

林子平 (はやししへい)

生年月日:1738年6月21日
江戸時代中期の経世家
1793年没

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世界大百科事典(旧版)内の林子平の言及

【鄭家屯事件】より

…中村覚関東都督は増援部隊(騎兵2中隊,歩兵1大隊)を派遣し鄭家屯を占領,四平街~鄭家屯間の中国軍の撤退を要求,かつ両地間に軍用電線を架設した。大隈重信内閣は9月2日林権助公使をして中国軍第28師団長の懲戒,南満州・東部内蒙古の必要な地点への警察官の駐在などを中国側に要求させた。同時に中国士官学校への日本将校の傭聘(ようへい),奉天督軍の謝罪などを希望条項として提出,日中間の懸案となった。…

※「林子平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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