改訂新版 世界大百科事典 「修身教育」の意味・わかりやすい解説
修身教育 (しゅうしんきょういく)
第2次大戦前,日本の初等・中等教育で教科〈修身〉を中心に行われた道徳教育。修身の語は,《大学》の〈修身斉家治国平天下〉に由来する。1872年(明治5)〈学制〉で修身(小学),修身学(中学)が教科として設置されたが,実際には〈小学教則〉に置かれた修身口授(ぎょうぎのさとし)として授業が行われた。当時は欧米の近代道徳の翻訳,翻案による書物が教科書として使用されることが多く,そのなかには〈人民の自由や権利〉について書かれたものもあった。自由民権運動の高揚に対し,政府はそれを弾圧するとともに,79年の教学聖旨によって仁義忠孝を核とした修身教育を全学校教育の中核にすえ,翌80年の教育令改正により,徳育重視の立場から修身を筆頭教科として位置づけた。さらにその翌81年には小学校教則綱領で,修身は〈初等科ニ於テハ主トシテ簡易ノ格言,事実等ニ就キ,中等科及高等科ニ於テハ主トシテ稍高尚ノ格言,事実等ニ就テ児童ノ徳性ヲ涵養スヘシ又兼テ作法ヲ授ケンコトヲ要ス〉と規定された。さらに90年の教育勅語発布以後,修身は〈勅語ノ旨趣〉に基づくべきことが定められ,翌91年の小学校教則大綱では孝悌,友愛,仁慈,信実,礼敬,義勇,恭倹などの徳目があげられ,ことに尊王愛国の士気の養成が重視された。この趣旨の徹底のため,1904年度から国語,地理,歴史とともに国定教科書が使用され始め,敗戦まで4回の改訂を重ねた。戦後45年12月,公民教育刷新委員会は修身廃止を文相に答申,12月31日には占領軍が日本歴史,地理とともに修身の授業停止と教科書回収を命じ,以後,日本歴史,地理とは異なり,再開されることなく,修身科教育の歴史は終わった。
修身教育には,次のような問題があった。第1は国家による国民の価値観の統制である。修身の基礎にある教育勅語は,政治上の君主である天皇の名による国民の道徳の規定によって,国民の〈良心の自由〉を侵すものであった。第2は道徳の内容そのものである。修身では忠君と愛国や孝などとは密接不可分であり,すべての価値は天皇とその国家への忠節,勅語にいう〈皇運ノ扶翼〉に従属するものとされ,そこに基本的人権の尊重という立場はみられない。第3は徳目主義である。道徳は忠,孝をはじめとするあれこれの徳目に分解され,それらの徳目を説話や特定の人物像を通して子どもに教えこんだ。人格があたかも修身の徳目の化合物であるかのように見立てられ,そこに自主的価値選択の能力を育てるとの立場は見いだせない。第4は科学教育,芸術教育の歪曲である。国民道徳を基礎づける〈国体〉の観念の養成のため,神代に始まる日本歴史が教えられたり,唱歌教材が徳性涵養の観点から選ばれたりしたことが,その代表例である。このような修身教育への反省に立って,日本国憲法,教育基本法の掲げる基本的人権の尊重,平和主義,民主主義の理念に立つ道徳教育の創造が,第2次大戦後の教育界の課題とされた。
→社会科教育 →道徳教育
執筆者:藤田 昌士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報