日本大百科全書(ニッポニカ) 「高島炭鉱暴動」の意味・わかりやすい解説
高島炭鉱暴動
たかしまたんこうぼうどう
長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡高島町(現、長崎市高島町)にあった高島炭鉱では、明治期に17件の争議が発生している。一連の争議はほとんどみな暴動化したが、ことに1883年(明治16)9月のものは、7人の即死者が出るほど激しかった。高島炭鉱は、官営時代には囚人労働力を使用、1881年に岩崎弥太郎(やたろう)が買収してからは、「納屋(なや)制度(飯場(はんば)制度)」が広がって、人身的な隷属のもとで鉱夫に劣悪な労働条件を強いていた。これが一連の暴動の根本原因で、三宅雪嶺(みやけせつれい)が発刊した雑誌『日本人』が、88年に高島炭鉱の坑夫虐待問題でキャンペーンを張ると、それはたちまち世間の注目を浴び、一大社会問題となった。ことの重大さに政府も警保局長を現地に派遣して実情を調査させた。その結果、鉱夫への暴力的拘禁の事実が明らかになり、以後一定の是正措置が図られた。
[三宅明正]
『隅谷三喜男著『日本賃労働史論』(1955・東京大学出版会)』