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三宅雪嶺 みやけ せつれい

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美術人名辞典の解説

三宅雪嶺

哲学者・評論家。歌人三宅花圃の夫。石川県生。名は雄二郎。東大卒。志賀重昂らと政教社を結成し、雑誌「日本人」を創刊。国粋主義に基づく社会批判を行なう一方、哲学的な著述でも名をあらわし、「中央公論」等諸誌に多彩な論説を発表した。のち政教社を離れ、中野正剛と「我観」を創刊した。文化勲章受章。回想録『同時代史』等著書多数。昭和20年(1945)歿、85才。

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デジタル大辞泉の解説

みやけ‐せつれい【三宅雪嶺】

[1860~1945]思想家・評論家。石川の生まれ。本名、雄二郎。政教社を創立、雑誌「日本人」を創刊し、欧化主義藩閥政治を批判。また、多数の社会時評・人生論などを発表した。文化勲章受章。著「我観小景」「真善美日本人」「同時代史」など。

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百科事典マイペディアの解説

三宅雪嶺【みやけせつれい】

評論家。加賀(かが)金沢の人。本名雄二郎。1888年志賀重昂井上円了らと政教社を創立。雑誌《日本人》を発行,軽薄な欧化主義と薩長藩閥政治の横暴に反対し国粋主義を主張した。
→関連項目江湖新聞杉浦重剛日本(新聞)日本人(雑誌)長谷川如是閑三宅花圃

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三宅雪嶺 みやけ-せつれい

1860-1945 明治-昭和時代前期の評論家,哲学者。
万延元年5月19日生まれ。三宅立軒(りゅうけん)の次男。明治21年志賀重昂(しげたか)らと政教社を結成し,雑誌「日本人」(のち「日本及日本人」と改題)を創刊して国粋主義を主張。在野の言論人として,社会時評,哲学,史論の論述に活躍した。昭和18年文化勲章。妻は三宅花圃(かほ)。昭和20年11月26日死去。86歳。加賀(石川県)出身。東京大学卒。本名は雄二郎。著作に「真善美日本人」「宇宙」「同時代史」など。
【格言など】人は善くも言われ,悪くも言われるのがよい(「世の中」)

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世界大百科事典 第2版の解説

みやけせつれい【三宅雪嶺】

1860‐1945(万延1‐昭和20)
明治中期から昭和前期のジャーナリスト,哲学者,歴史家。文学博士。本名は雄二郎。加賀藩家老の抱え医師の子として生まれ,1883年東京大学文学部哲学科を卒業。在学中フェノロサの影響を受ける。井上馨外相の条約改正案に反対し,大同団結運動に参加。政府の欧化政策に反対して,88年4月志賀重昂らとともに政教社を設立して雑誌《日本人》を創刊。同誌や91年刊行の《真善美日本人》で,〈護国〉と〈博愛〉は矛盾しないとのインターナショナリズムと結合する国粋主義を主張し,陸羯南(くがかつなん),徳富蘇峰らとともに明治中期の代表的言論人となった。

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大辞林 第三版の解説

みやけせつれい【三宅雪嶺】

1860~1945) 思想家。金沢生まれ。東大卒。本名、雄二郎。志賀重昂らと「政教社」を結成し、「日本人」を創刊。政府の欧化主義に対して日本主義を主張。以後雑誌「日本及日本人」「我観」などでアジア的視点からの言論を展開。著「真善美日本人」「宇宙」「同時代史」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三宅雪嶺
みやけせつれい

[生]万延1(1860).5.19. 金沢
[没]1945.11.26. 東京
ジャーナリスト,哲学者。本名雄二郎。 1883年東京大学哲学科卒業。 1888年井上円了杉浦重剛,志賀重昂らの支持を得て政教社を組織し,雑誌『日本人』を発行,徳富蘇峰らの欧化主義に反対して日本主義を提唱した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三宅雪嶺
みやけせつれい
(1860―1945)

哲学者、文明評論家。加賀藩家老のお抱え医師の子として金沢に生まれる。号の雪嶺は加賀の名峰白山(はくさん)にちなむ。幼時より漢学とともに英語、フランス語を学ぶ。開成学校を経て1883年(明治16)東京大学文学部哲学科を卒業、ただちに東京大学準助教授として東京大学編輯(へんしゅう)所に勤務、日本仏教史の編集に従事した。のち文部省編輯局に移ったが1887年これを辞し、以後、終生野にあって哲学的見識に満ちた評論家として旺盛(おうせい)な活躍をした。1888年井上円了(いのうええんりょう)、志賀重昂(しがしげたか)、杉浦重剛(すぎうらしげたけ)らと政教社を創立、雑誌『日本人』を発刊。同時に陸羯南(くがかつなん)とも親交を保ち陸主筆の新聞『日本』にもしばしば寄稿した。この時期以降、ジャーナリストとしての彼の活躍は目覚ましく、『江湖(こうこ)新聞』の主筆、新聞『国会』の社説を担当する一方で、1891年の『真善美日本人』『偽醜悪日本人』、1892年の『我観小景』などの著作において、欧米文化の圧倒的優位という時代状況のなかで、人類史における東洋や日本の固有の価値を正当に評価する有力なオピニオン・リーダーの一人であった。この間、東京専門学校(現、早稲田(わせだ)大学)、哲学館(現、東洋大学)に出講し、論理学や西洋哲学史を講義した。彼の文筆評論家活動はその後も絶えることなく、各新聞・雑誌に社会時評や人生論、処世訓などを書き続け、これらは『人生訓』『青年訓』『人の行路』『世の中』などの処世訓シリーズとして同時代の修養の書として広く愛読された。1923~1945年(大正12~昭和20)には女婿中野正剛(なかのせいごう)と共同で『我観』を刊行し、同誌上に20年間にわたって、のちに『同時代史』として刊行される「同時代観」を連載した。1943年文化勲章を受章。3代にわたる彼の評論活動を貫くバックボーンは健全なナショナリズムの感覚であったが、彼の思想は、明治中期のナショナリズムが大正デモクラシーや大正文化主義を経て、「文化創造への参照」という形で第二次世界大戦後まで継続されたものとして評価される。[田代和久]
『柳田泉編『明治文学全集33 三宅雪嶺集』(1967・筑摩書房) ▽本山幸彦著『明治思想の形成』(1969・福村出版)』

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世界大百科事典内の三宅雪嶺の言及

【我観】より

…1923年(大正12)10月創刊された時論雑誌,総合雑誌。《日本及日本人》を主宰していた三宅雪嶺が,関東大震災を機に政教社と分かれて,女婿の中野正剛とともに発行。雪嶺の哲学的論文,時論がつねに巻頭を飾ったほか,中野正剛,杉森孝次郎,田川大吉郎らが筆をふるい,文芸欄には尾崎士郎,正宗白鳥らが寄稿した。…

【国粋主義】より

…時期により変遷はあるが,血統的に一系の天皇をいただく日本の国家体制の〈優秀性と永久性〉を強調する国体論が,核心をなした点では変りがないといってよい。
[思潮と運動]
 〈国粋〉〈国粋主義〉という言葉は,1880年代後半に三宅雪嶺,志賀重昂ら政教社の雑誌《日本人》が,明治維新後の文明開化,直接的には条約改正と関連して政府が推進していた欧化主義に反対して,〈国粋保存主義〉を唱道したのに始まる。もっとも天皇崇拝や家族的・共同体的秩序の尊重といった国粋主義の要素はそれ以前から存在していたし,国体論もとくに明治14年の政変(1881)以後に天皇制国家を確立していく過程で,明治政府が意識的につくりあげていたものである。…

【ジャーナリズム】より

…また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。これに対抗した三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社は,雑誌《日本人》によって陸羯南の新聞《日本》とともに〈国民主義〉を唱えた。《日本人》は高島炭鉱の坑夫の労働条件の過酷さを訴えて,いわゆるルポルタージュの先駆となり,《日本》は正岡子規の俳句再興の舞台となって国民的なひろがりをもつ短詩型文芸慣習を定位するなど,日本の近代文学に貢献した。…

【政教社】より

…1880年代後半の,政府の進める鹿鳴館外交に象徴される欧化政策と秘密外交交渉に端的にあらわれた欧米追随路線に対して,〈外政内政ともに国家みずからの立場〉をとるべきことを主張して,1888年4月3日東京府神田区に創設された。創立時の同人は,志賀重昂,棚橋一郎,井上円了,杉江輔人,菊池熊太郎,三宅雪嶺,辰巳小次郎,松下丈吉,島地黙雷,今外三郎,加賀秀一,杉浦重剛,宮崎道正の13名で,おもに東京大学,札幌農学校出身の新進知識青年であった。機関誌《日本人》(一時,後継誌《亜細亜》)を発行し,幅広い国粋主義を主張し,徳富蘇峰主宰の《国民之友》とともに明治中期の思想界を二分した。…

【日本及日本人】より

…月2回刊。主筆は三宅雪嶺。彼の長大な哲学的論文を巻頭に毎号掲げたほか,彼の反官学精神から執筆者は在野の評論家,文学者が多い。…

【日本人】より

政教社発行の雑誌。東京大学出身の三宅雪嶺井上円了らと札幌農学校出身の志賀重昂,今外三郎らの若手知識人によって1888年4月創刊された。その主張は,藩閥政府の推進する欧化政策に反対し,〈国粋〉を〈保存〉しようとするナショナリズムにあった。…

【リソルジメント】より

…この場合も論者により三人への比重の置き方は違っており,竹越与三郎《新日本史》(1891‐92)は〈以太利は欧州の日本也〉と述べて,自由主義政治家としてのカブールに高い評価を与えた。また徳富蘇峰《吉田松陰》(1893)は,松陰の精神と横井小楠の理想を兼ね備えた人物としてマッツィーニを紹介し,三宅雪嶺は明治30年代初めの論文でガリバルディを西郷隆盛と比較しながらその人物像を詳細に描いた。【北原 敦】。…

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