哲学者、文明評論家。加賀藩家老のお抱え医師の子として金沢に生まれる。号の雪嶺は加賀の名峰白山(はくさん)にちなむ。幼時より漢学とともに英語、フランス語を学ぶ。開成学校を経て1883年(明治16)東京大学文学部哲学科を卒業、ただちに東京大学準助教授として東京大学編輯(へんしゅう)所に勤務、日本仏教史の編集に従事した。のち文部省編輯局に移ったが1887年これを辞し、以後、終生野にあって哲学的見識に満ちた評論家として旺盛(おうせい)な活躍をした。1888年井上円了(いのうええんりょう)、志賀重昂(しがしげたか)、杉浦重剛(すぎうらしげたけ)らと政教社を創立、雑誌『日本人』を発刊。同時に陸羯南(くがかつなん)とも親交を保ち陸主筆の新聞『日本』にもしばしば寄稿した。この時期以降、ジャーナリストとしての彼の活躍は目覚ましく、『江湖(こうこ)新聞』の主筆、新聞『国会』の社説を担当する一方で、1891年の『真善美日本人』『偽醜悪日本人』、1892年の『我観小景』などの著作において、欧米文化の圧倒的優位という時代状況のなかで、人類史における東洋や日本の固有の価値を正当に評価する有力なオピニオン・リーダーの一人であった。この間、東京専門学校(現、早稲田(わせだ)大学)、哲学館(現、東洋大学)に出講し、論理学や西洋哲学史を講義した。彼の文筆評論家活動はその後も絶えることなく、各新聞・雑誌に社会時評や人生論、処世訓などを書き続け、これらは『人生訓』『青年訓』『人の行路』『世の中』などの処世訓シリーズとして同時代の修養の書として広く愛読された。1923~1945年(大正12~昭和20)には女婿中野正剛(なかのせいごう)と共同で『我観』を刊行し、同誌上に20年間にわたって、のちに『同時代史』として刊行される「同時代観」を連載した。1943年文化勲章を受章。3代にわたる彼の評論活動を貫くバックボーンは健全なナショナリズムの感覚であったが、彼の思想は、明治中期のナショナリズムが大正デモクラシーや大正文化主義を経て、「文化創造への参照」という形で第二次世界大戦後まで継続されたものとして評価される。
[田代和久 2016年9月16日]
『柳田泉編『明治文学全集33 三宅雪嶺集』(1967・筑摩書房)』▽『本山幸彦著『明治思想の形成』(1969・福村出版)』
明治中期から昭和前期のジャーナリスト,哲学者,歴史家。文学博士。本名は雄二郎。加賀藩家老の抱え医師の子として生まれ,1883年東京大学文学部哲学科を卒業。在学中フェノロサの影響を受ける。井上馨外相の条約改正案に反対し,大同団結運動に参加。政府の欧化政策に反対して,88年4月志賀重昂らとともに政教社を設立して雑誌《日本人》を創刊。同誌や91年刊行の《真善美日本人》で,〈護国〉と〈博愛〉は矛盾しないとのインターナショナリズムと結合する国粋主義を主張し,陸羯南(くがかつなん),徳富蘇峰らとともに明治中期の代表的言論人となった。高島炭鉱坑夫虐殺事件(1888)や足尾鉱毒事件(1907)で坑夫や被害農民を強く支援し,社会問題研究会や社会学研究会に参加し,〈大逆事件〉で幸徳秋水を大いに弁護し,さらに大正期に入り黎明会に参加するなど,つねに新思想に敏感に反応し,徹底した在野のナショナリストとしての姿勢を保ち続けた。そのかたわら,東京専門学校(のちの早稲田大学)や哲学館(のちの東洋大学)で西洋哲学史,陽明学などを講義する研究生活を並行させ,明治年間の単行著作はヘーゲル哲学を紹介した《哲学涓滴》(1889)をはじめ哲学を主とする著書が多い。1907年1月《日本人》を《日本及日本人》と改題して以後主筆となり,09年6月《太陽》の〈理想的新聞雑誌記者〉の第1位に選ばれたが,このころよりその死にいたるまで体系的な著述に着手した。それらは《宇宙》(1909)以下の哲学論文,《同時代観》(没後《同時代史》全6巻として刊行)として結実した。和漢洋におよぶ学識の広さと在野的立場ゆえ,堺利彦,幸徳秋水,岩波茂雄をはじめ私淑者が多い。妻は女流作家の三宅花圃,女婿に政治家の中野正剛がおり,1943年文化勲章を授与された。著書73冊。
執筆者:佐藤 能丸
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明治〜昭和期のジャーナリスト,評論家,哲学者 「我観」主宰。
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1860.5.19~1945.11.26
明治~昭和前期の言論人。名は雄二郎。金沢藩儒医の家に生まれる。東大卒。若くして東大准助教授・文部省雇員として勤務したが,1888年(明治21)政府の欧化主義に反対して同志とともに政教社を創立し,「日本人」を創刊した。以後在野のジャーナリストとして社会問題から宇宙観にわたり幅広く論じた。妻竜子は歌人の三宅花圃(かほ)。著書「同時代史」6巻。
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…1923年(大正12)10月創刊された時論雑誌,総合雑誌。《日本及日本人》を主宰していた三宅雪嶺が,関東大震災を機に政教社と分かれて,女婿の中野正剛とともに発行。雪嶺の哲学的論文,時論がつねに巻頭を飾ったほか,中野正剛,杉森孝次郎,田川大吉郎らが筆をふるい,文芸欄には尾崎士郎,正宗白鳥らが寄稿した。…
…時期により変遷はあるが,血統的に一系の天皇をいただく日本の国家体制の〈優秀性と永久性〉を強調する国体論が,核心をなした点では変りがないといってよい。
[思潮と運動]
〈国粋〉〈国粋主義〉という言葉は,1880年代後半に三宅雪嶺,志賀重昂ら政教社の雑誌《日本人》が,明治維新後の文明開化,直接的には条約改正と関連して政府が推進していた欧化主義に反対して,〈国粋保存主義〉を唱道したのに始まる。もっとも天皇崇拝や家族的・共同体的秩序の尊重といった国粋主義の要素はそれ以前から存在していたし,国体論もとくに明治14年の政変(1881)以後に天皇制国家を確立していく過程で,明治政府が意識的につくりあげていたものである。…
…また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。これに対抗した三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社は,雑誌《日本人》によって陸羯南の新聞《日本》とともに〈国民主義〉を唱えた。《日本人》は高島炭鉱の坑夫の労働条件の過酷さを訴えて,いわゆるルポルタージュの先駆となり,《日本》は正岡子規の俳句再興の舞台となって国民的なひろがりをもつ短詩型文芸慣習を定位するなど,日本の近代文学に貢献した。…
…1880年代後半の,政府の進める鹿鳴館外交に象徴される欧化政策と秘密外交交渉に端的にあらわれた欧米追随路線に対して,〈外政内政ともに国家みずからの立場〉をとるべきことを主張して,1888年4月3日東京府神田区に創設された。創立時の同人は,志賀重昂,棚橋一郎,井上円了,杉江輔人,菊池熊太郎,三宅雪嶺,辰巳小次郎,松下丈吉,島地黙雷,今外三郎,加賀秀一,杉浦重剛,宮崎道正の13名で,おもに東京大学,札幌農学校出身の新進知識青年であった。機関誌《日本人》(一時,後継誌《亜細亜》)を発行し,幅広い国粋主義を主張し,徳富蘇峰主宰の《国民之友》とともに明治中期の思想界を二分した。…
…月2回刊。主筆は三宅雪嶺。彼の長大な哲学的論文を巻頭に毎号掲げたほか,彼の反官学精神から執筆者は在野の評論家,文学者が多い。…
…政教社発行の雑誌。東京大学出身の三宅雪嶺,井上円了らと札幌農学校出身の志賀重昂,今外三郎らの若手知識人によって1888年4月創刊された。その主張は,藩閥政府の推進する欧化政策に反対し,〈国粋〉を〈保存〉しようとするナショナリズムにあった。…
…この場合も論者により三人への比重の置き方は違っており,竹越与三郎《新日本史》(1891‐92)は〈以太利は欧州の日本也〉と述べて,自由主義政治家としてのカブールに高い評価を与えた。また徳富蘇峰《吉田松陰》(1893)は,松陰の精神と横井小楠の理想を兼ね備えた人物としてマッツィーニを紹介し,三宅雪嶺は明治30年代初めの論文でガリバルディを西郷隆盛と比較しながらその人物像を詳細に描いた。【北原 敦】。…
※「三宅雪嶺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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