高橋源助(読み)たかはし・げんすけ

朝日日本歴史人物事典 「高橋源助」の解説

高橋源助

没年天和1.10.9(1681.11.18)
生年:生年不詳
江戸前期の用水開削者。越後国(新潟県)長岡藩領曾根大庄屋曾根村(西川町)は西川流域の低湿地帯の中では地高の村で,連年日照りのときは旱魃に苦しんでおり,源助割前村(巻町)地先の西川から6kmの用水路掘削引水を計画,藩に願い出た。しかし彼の声望をねたむ者がいて初めは承認されず,ついに首を賭して責任をとることで許可を得て工事着工,天和1(1681)年10月9日に竣工。しかし通水せずその場で打ち首となった。不首尾は秘かに板で樋管が塞がれた妨害のためで,源助の首が板をくわえて舞い上がり曾根まで流れついたと伝えられ,首塚が曾根にある。曾根東裏用水路を源助筒といい,大正3(1914)年には講談「一念 大庄屋高橋源助翁列伝」で広く知られた。現在も菩提寺の金剛寺で「源助まつり」が営まれている。<参考文献>『西川町史考』その18

(小村弌)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋源助」の解説

高橋源助 たかはし-げんすけ

?-1681 江戸時代前期の治水家。
越後(えちご)(新潟県)蒲原郡曾根村の大庄屋。同地方の水不足解消のため西川からの用水路開削を計画し,みずからの首をかけ長岡藩の許可をえて工事を完成させたが,反対派の妨害のため通水せず,天和(てんな)元年10月9日打ち首となった。

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