江戸幕府将軍近侍の役職。1681年(天和1)創置。このときまで近侍の最高の職は側衆で,大名が就任することもまれではなかったが,旗本役で,その地位は若年寄の下であった。5代将軍徳川綱吉は就任の翌年この職を設け,館林藩主時代の家老牧野成貞をこれに登用し,政務に関し上意,下問あるいは上申など表方との取次ぎに当たらせ,また側近として意見の具申を行わせた。成貞は官位は従四位下侍従に昇り,石高も逐次加増されて7万3000石,下総関宿城主となり,行列に持槍2本を許されるなど老中同格の待遇を受けたので,近侍の地位はいちじるしく高まった。この職は近世初頭の近習出頭人(近習)に淵源するという見解が新井白石以来あるが,近習出頭人は幕府の職制がまだ整わず,表と奥の職務の未分化の状態の上に存在したもので,表と奥の職制分化とともに消滅した。側用人はまったく奥向きの職であり,表方の役職に対し制度上の権限をもつものではないが,将軍の厚い恩寵を背景にその発言は政務の上に強大な権威をもった。ことに成貞に続く柳沢吉保に至っては,官は左近衛少将という大老格に昇進し,綱吉の寵遇いちじるしかったので,その権勢増大はなはだしく,側用人政治とも評せられた。6代家宣,7代家継の代にも間部詮房(まなべあきふさ)がこれに登用され,幕政の中枢に位置した。8代吉宗は側用人の権勢への反感を顧慮してこれを置かなかった。ただし1725年(享保10)世子家重付として西丸(にしのまる)側用人を設け,石川総茂をこれに任じたが,政務にはかかわりなく,33年総茂の死後再置もしなかった。9代家重に至り,56年(宝暦6)本丸に側用人を復活して大岡忠光をこれに任じ,この後ほぼ常置の職となる。これに昇進するものは側衆,奥勤から用いられるか,若年寄を経て任ぜられる者が大多数であった。10代家治のとき専権をふるった田沼意次が72年(安永1)正規の老中に昇ってから,側用人が老中となる例が開けた。
執筆者:辻 達也
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江戸時代、主君の側(そば)近く仕えて庶務に携わった職。江戸幕府では将軍側近の最高の職。5代将軍徳川綱吉(つなよし)に仕えた牧野成貞(なりさだ)が1681年(天和1)に側衆より登用されたのが最初とされている。近世初頭の近習出頭人(きんじゅしゅっとうにん)や、3代将軍家光(いえみつ)に近侍した堀田正盛(ほったまさもり)にその源流を求める説もある。つねに将軍の側にあって、将軍の意志・命令を老中に伝達し、老中よりの上申を将軍に取り次ぐことをおもな職務とした。天和(てんな)期(1681~84)以降幕末までにこの職に就任した者は30名を数えるが、かならずしも常置されていたわけではなく、このうち15名は綱吉時代の補任(ぶにん)である。そのなかでもとくに綱吉の寵遇(ちょうぐう)を得た牧野成貞と柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中格や大老格の待遇を与えられて老中をもしのぐ権勢を振るったことは有名。正徳(しょうとく)期(1711~16)には、6代家宣(いえのぶ)、7代家継(いえつぐ)の側用人間部詮房(まなべあきふさ)が将軍の権威を背景にして幕政を左右した。その後享保(きょうほう)期(1716~36)には側用人に類似した御側御用取次が設置されて、側用人は置かれなかったが、宝暦(ほうれき)期(1751~64)に復活し、9代家重(いえしげ)のもとで大岡忠光(ただみつ)、10代家治(いえはる)のもとで田沼意次(おきつぐ)、11代家斉(いえなり)のもとで水野忠成(ただあきら)らが勢力を張った。もっともこの段階に至ると、天和~正徳期と異なり、田沼意次のごとく、低い家柄の出身者でも譜代(ふだい)大名と等しく正規の行政職たる老中に就任できるようになり、側用人は老中に昇進するための一階梯(かいてい)として位置づけられた。また、西丸(にしのまる)側用人が置かれたこともあった。
[松尾美恵子]
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江戸幕府の職名。1681年(天和元)に5代将軍徳川綱吉が館林藩主のときの家老だった牧野成貞を側衆から登用したのが起源とされる。将軍の命を老中に伝え,老中からの上申を将軍に伝達するのを職分としたが,将軍の相談役でもあった。原則として大名を任じ,老中と同格の従四位下侍従に叙任される者も多く,老中に準じる待遇を与えられた。必ずしも常置された役職ではなく,複数の就任者がいた時期もあった。5代将軍綱吉から7代将軍家継のときの柳沢吉保や間部詮房(まなべあきふさ)は,老中をこえるほどの強大な権威をもったが,正規の老中職につけなかった。1772年(安永元)田沼意次(おきつぐ)のときはじめて正規の老中に昇進する道がひらけた。
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…うわさは火札や捨文,天狗廻状などと並んで民衆レベルの情報伝達手段として今後研究されねばならないが,江戸時代の武士階層を含めて多くの人々が情報に飢えていたことは,内々の情報やうわさを書きとめた〈随筆〉という文学のジャンルが後期に成立したことによっても知られる。
[側近と家老]
この時代を通じて政策を最終的に決定したのは,出頭人(しゆつとうにん),側用人などと呼ばれた将軍や大名の側近グループであった。側近のなかには女性や僧侶なども広義には含まれるが,側近の本来の機能は日夜君側にあって主君を護衛し,主君とそのもとへ伺候する家臣との間の言葉を取り次ぐことにあった。…
…初期にはそれぞれの軍事的・政治的能力によって将軍の親衛隊としての役割をになった旗本や譜代大名であったが,その子孫になると家柄(家格)によって幕府内部の地位が決定されることになり,その直参としての役割は形骸化する。他方では,将軍の代替りごとに新たに形成される側用人などの側近が将軍の取次ぎとして幕府の意思決定に実質的に参加することにより,老中以下の評定所の機能が形式化する場合や,家格制の下で有能な下級役人が実務上に大きな手腕を発揮する場合がしばしば見られたことも,中・後期の特徴であった。
【幕府の崩壊】
幕府崩壊の遠因は貨幣経済の浸透による農村の変質と都市へのその反映に対処できなかったことにあり,享保,寛政,天保の幕政改革も十分な効果をあげえなかった。…
…【佐藤 堅一】 日本近世においては制度上確立した職名ではない。《徳川実紀》の用例をみると昵近(じつきん)の者と併用され,側用人(そばようにん),側衆,小姓(こしよう),小納戸,近習番,奥医師などの総称またはその一部の者の称として用いている。鳥取藩でははじめ君側に近侍する者の総称であったが,側近の役の職名が分化し,狭義には児小姓(ちごごしよう)の元服後も主君身辺の雑務に携わった者を称するようになったという。…
※「側用人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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