鷲賀郷(読み)わしかごう

日本歴史地名大系 「鷲賀郷」の解説

鷲賀郷
わしかごう

三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)の庄園目録に「五十七鷲賀三ケ郷大乗院寄」とあり、同本文に

<資料は省略されています>

とみえる。これによると、鷲賀郷は木津こつ(現大字木津)伊豆いず(同伊豆尾)両郷とともに鷲賀三ヵ郷として興福寺大乗院領になったことがうかがえる。同院後見が預所となっている。地下請とあるので、農民の自治組織(惣)年貢を請負っていたと考えられ、中心には三ヵ郷の在地武士がいたのであろう。末荘として平野ひらの杉谷すぎたに谷尻たんじりの三ヵ郷が隷属していた。また室町期では宇陀郡内であったこともうかがえる。

戦国期天文一六年(一五四七)の同抄の記録は次のとおりである。

<資料は省略されています>

とある。これによると、鷲家は現大字おむらの在地武士、丹生川上にうかわかみ神社神主であった小川(河)氏の支配下にあり、家数は三〇軒ばかりとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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