一般には,中国,朝鮮,日本の旧社会において一家の家督を嗣ぐ嫡子に対して,他の傍系一族員を呼ぶ場合の呼称である。また嫡妻(正妻)の子どもに対する庶妻の子どもたちという意味も存在する。しかし庶子の語は歴史上,異なった意味をもって使用されてきたことに注意しなければならない。なおヨーロッパ社会でも日常語として〈嫡出でない子〉,あるいは私生子を指す語があるが,日本の家制度上の特殊な意味・内容が与えられた〈父親に認知された私生子〉という意味での庶子に対応するものではない。
庶子の語は中国に由来し,日本古代の律令の諸規定では嫡子と庶子が区別され嫡子優遇政策が取られている。しかし当時,家の継承者としての嫡子が存在しなかったのでそれと区別された庶子も存在せず,また嫡妻と妾の区別が行われなかったので,嫡出子と区別された庶子も存在しなかった。したがって当時庶子という概念もそれを表現する日本語もなかった。すなわち前者については,令およびその注釈書において庶子を,(1)嫡子と嫡子同母弟以外の子=妾子(継嗣令継嗣条),(2)嫡子(〈嫡妻〉長子)以外の全男子(戸令応分条,選叙令五位以上子条など),(3)嫡妻長子同母弟(喪葬令服紀条の大宝令の注釈書の古記)の3通りに解釈している事実から明白であり,後者も同前条の古記が〈庶子俗云男女也〉と注釈する事実から明白であろう。なお古代での庶兄,庶妹等の用語での〈庶〉は嫡腹に対する妾腹兄弟姉妹の意ではなく,異腹兄弟姉妹を指すものとして使われている。
執筆者:関口 裕子 中世にいたると,庶子は家督を相続する嫡子に対する存在としてあった。鎌倉時代の武家社会では,庶子は,一族の統率者である嫡子(惣領ともいう)の指揮下に属し,幕府に対する御家人役に従事するのを慣例としていた。その場合の庶子は,嫡子によって配分された一族所領の規模に応じて,その封建的勤務の額を決定されるのがふつうであった。しかし庶子はけっして嫡子に対する隷属者ではなく,一族内のあらゆる問題の処理をめぐって,嫡子とともに共同合議する立場にあったのである。だが南北朝・室町時代以降になると,土地財産の嫡子単独相続制が一般化したため,庶子はみずからの所領を失い,嫡子の経済的扶持をうける従者のごとき存在と化し,その社会的立場も,しだいに低下した。
→惣領制
執筆者:鈴木 国弘 近世の武家では嫡子(相続予定者)以外の実子をいう場合と,妾腹の子を指す場合とがある。後者について記すならば,大名の場合側妾を置くことが普通であったので,おのずから庶子が多くいたが,嫡出,庶出が問題になるのはおもに相続のときである。正妻に男子がいるときは庶子の兄がいてもこの嫡出子が家督相続人たる資格をもつ。嫡出男子が存在しないか死亡して庶子のみとなった場合は,原則として庶子の年長者が相続人となる。なお幕府に庶子を相続予定者と届け,その後嫡出子が出生したおりはその庶子を次男にせねばならなかった。すなわち嫡出子が優位に立つ。ことに将軍近親者を母にもつ男子は兄弟ともに優遇されたが,庶子でも他家へ養子にいったり分知配当を受けることも可能であったし,庶子がいながら養子を迎えることは規制されていたので,それなりの保護を受けた。なお庶子を正妻の養子(嫡母の養い)にすることも多かった。
執筆者:上野 秀治 明治になると1873年の太政官布告で,私生子は〈妻妾ニ非ル婦女ニシテ分娩スル児子〉とされ,子の側から父に対する認知請求は許されなかった。しかし明治民法では,婚姻外の子を父が認知したときは,父に対してその子を庶子と呼び,また子が父に対して認知を請求できるものとした。これは妾腹の子を想定したものであり,庶男子が嫡出女子に先んじて家督相続人となることや,遺産相続において男女の別なく,庶子の相続分は嫡出子のそれの2分の1を与えることを定めていた。1942年の民法改正により〈私生子〉の呼称は廃止され,さらに第2次大戦後の民法改正では〈庶子〉の呼称を廃して,これを〈父が認知した子〉と呼び,私生子とともに〈嫡出でない子〉と規定した。
→嫡出でない子
執筆者:黒田 満
中国の庶子の語には3種類の意味がある。第1は妾腹の子の意味である(《礼記(らいき)》内則)。第2は嫡男以外の子を指す(《儀礼(ぎらい)》喪服)。嫡子のほかはすべて庶子で,この庶は衆の意味である。古くはこの意味に用いられていたのが,時代が下るに従い,妾子を意味するように転じた。この意味の庶子は家産の分割に際しては,嫡子とともに平等の権利を有し,均分相続が行われた。しかし封爵や家の祭祀権の承継では嫡庶に差別があった。なお適法な婚姻に基づかず出生した子はいわゆる私生子で,姦生,婢生子と呼ばれた。第3に諸侯卿大夫の子どもに対して教え戒める役目の者を庶子という。《周礼(しゆらい)》夏官には諸子と記されているが,秦・漢では中庶子・庶子の官を置き,三国時代の呉になって東宮職を置いた。隋・唐時代,隋は左右庶子とし,唐は左右春坊を左右庶子に分担させ,清末にいたるまでこの官があった。
執筆者:大庭 脩 朝鮮では庶孽(しよげつ),庶人ともいう。李朝時代,ことに両班(ヤンバン)の妾子およびその子孫の場合に多く問題となった。父親は両班でも妾子として家族や社会から差別された。科挙の文科受験資格を認められず,原則として文官職にはつけなかった。武官職につくことはあったが,それも実職ではなく,大部分は科挙の雑科をへて雑職についたため,実際上,庶子は中人身分の待遇をうけた。庶子に対する差別撤廃(庶孽許通)の議論はしばしば起こされ,とくに16世紀後半には差別緩和論がさかんとなって,以後,若干の文科及第者も現れた。しかし庶子に対する差別・侮蔑は後代まで残った。許筠(きよいん)の《洪吉童伝》は庶子に対する差別の実態と,その差別に反抗しすべての人の社会的平等をめざす洪吉童(庶子出身)の活躍を描いている。
執筆者:矢沢 康祐
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嫡子・惣領に対して,それ以外の子をさす。貴族社会では本来庶妻の子をさしたが,平安末期には嫡子以外の子をさすようになった。中世武家社会では,家の継承者として父祖跡所領を惣領する嫡子(惣領)に対し,それ以外の男子をさした。分割相続制下では所領の一部を相続し,ある程度自立していたが,軍事や父祖跡所領の公事などについて惣領の統轄をうけた。世代が下るとともに庶子家の独立性は高くなり,庶子家のなかにも2次的な惣領・庶子関係が形成される一方,庶子の分立を抑止しようとする動きもみられるようになった。南北朝期以降,庶子の相続権は一期分(いちごぶん)となることが多くなり,室町中期~戦国期には相続権を失って,惣領から扶持をうけて家臣団編成のなかに組み込まれる存在となった。
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法律上の結婚をしていない女性の生んだ子を父が認知した場合に、父に対してその子を庶子とよび、家督相続では嫡出の女子に優先する地位にあったが、第二次世界大戦後の民法改正によってこの名称は廃止された。現行民法ではこれに相当する呼称はなく、あえていうならば「父によって認知された嫡出でない子」である。
[高橋康之]
…中世武家の家財産は分割相続によって男女を選ばず子に配分されたが,そのうちの主要部分を継承した男子を惣領と呼び,他の男子を庶子と呼ぶ。惣領は必ずしも長子から選ばれるのではなく,〈器量〉といってその能力により家を代表し,庶子や女子の相続所領についても関与した。…
…中世武士は分割相続制をとっており,財産の中核部分は諸子のうちでももっとも能力(器量)があるとみなされた男子に譲られて,これが惣領といわれた。残りの所領は惣領以外の庶子・女子に譲られ,彼らはその所領を得て独立した生活を営んだ。しかしまったく独立していたわけではなく,戦時には庶子は惣領の下に集まって戦闘集団を形成し,平時には惣領の主催する祖先の供養や家の祭祀を通じて精神的結びつきをもった。…
…江戸時代,とくに武家社会では,家の継承者として男系子孫を得ることが強く望まれていたから,正妻に男子が生まれない場合は,養子による方法もあったが,めかけによって得ようとすることがしばしば行われ,これは儒者によって倫理的にも肯定されていた。明治になって種々の推移はあったが,法的にめかけは妻と同じ夫の2親等としてあつかわれたとか,戸籍に記載されたり,めかけの生んだ子を父が認知すれば庶子となり,庶出男子は嫡出女子に優先して家督相続ができたというように,直接,間接にめかけの存在は認められた。一般の民俗においては,養子制度の発達もあって,めかけは特殊な存在であった。…
※「庶子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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