黒尾村
くろおむら
[現在地名]総社市黒尾
福井村の北に位置し、東は奥坂村・西阿曾村・久米村に接し南北に細長い。村の中央を砂川が南流する。慶長六年(一六〇一)黒尾村三四五石余が木下家定に与えられ(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)、寛永備中国絵図では同高で足守藩領。以後、幕末まで同藩領。正保郷帳には枝村として新山村を記す。延宝三年(一六七五)の万覚帳(小川文書)では高五四〇石余、家数五七・人数三二八。寛文一一年(一六七一)に槙谷村など近隣村々との山境相論が起こっている(撮要録)。明治九年(一八七六)久米村・西阿曾村・奥坂村の三ヵ村と合併して美川村となり、同一四年に分村して黒尾村に復した。
黒尾村
くろおむら
[現在地名]武雄市朝日町中野字黒尾
烏帽子岳(黒尾山ともいう)の東麓にある。
「武雄社本紀」に、建仁二年(一二〇二)武雄神社五代神主家門の時、武内宿禰の母影姫を祀る黒尾明神を創建した、とある。同社は村の中央部の台地上にあり、氏神である。
この地域は平安時代の長島庄に所属して蓮華王院領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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