古代社会において氏族の祀(まつ)る神を意味していたが、時代が下るにしたがって、ムラの守護神たる産土神(うぶすながみ)や鎮守神と同一視されるようになった神格。氏神という語は『古事記』や『日本書紀』には見当たらず、『万葉集』巻3の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌の注の「天平(てんぴょう)五年冬十一月供祭大伴氏神之時」が初見とされている。しかし、この場合は「大伴氏の神」とも考えられるので、氏神という語を確定するまでには至っていない。
現在のところ、文献によって知られる氏や氏神は7、8世紀以降のものである。つまり、律令(りつりょう)体制の解体を背景にした氏族の衰退期のものといえる。したがって、この時期の氏族が営む氏神をもって、氏神の全容と考えるわけにはいかない。いずれにしても、平安時代後期の氏神祭りは春は2月か4月、秋は11月というようにほぼ春秋の2回と一定しており、氏の構成員によって営まれていた。氏の構成員である氏人(うじびと)はそろって祭祀(さいし)を行うべきものと考えられていたらしく、氏神が畿外(きがい)にある者は、そのおりの帰郷を認められていたようである。春秋2回の氏神祭りの時期については、その年の豊作を願う祈念祭と実りを感謝する収穫祭という農耕儀礼と結び付いたものだといわれている。氏は氏長(うじおさ)とか氏上(うじのかみ)とよばれる者を中心にして、氏人によって構成されていた。氏人とはもともとこうした氏の構成員という意味であった。しかし、中世になると祭祀仲間というほどのものになり、のちには新たに生じた氏子という語にその位置を譲って、今日的な理解に近いものとなるのである。
こうした氏神信仰が一般の庶民社会においても存在していたかどうかについては不明である。いまのところ、政治的に大きな勢力をもっていた特定の氏族において信仰されていたと考えるほうが妥当であろう。藤原氏の春日(かすが)神社、橘(たちばな)氏の梅宮、秦(はた)氏の稲荷(いなり)社などは、氏神社としてよく知られている。室町時代以後は武家の間でも氏神信仰を営むようになった。源氏における八幡(はちまん)社のように、勧請神(かんじょうしん)であっても氏神と呼称する場合が少なくない。中世末から近世にかけては、同族結合の強化とともに祖先崇拝の形をとるようになった。このように、古代社会にみられた氏神信仰はその後幾多の変遷を経て、現在どのムラでもかならずみられる鎮守神、産土神と同一視されるようになった。
ところで、今日われわれが氏神というとき、その対象や内容は一律ではない。土地によって相当な差異がある。大は大社や名社といわれる有名神社から、小は個人の屋敷地内の祠(ほこら)に至るまで実に多様な形態のものがある。こうした多岐にわたる氏神の観念を最初に分類・整理したのは柳田国男(やなぎたくにお)である。
柳田は、一門氏神、村氏神、屋敷氏神の3分類によって説明している。
(1)一門氏神 マキ、イッケ、カブ、ジルイなど同族や一族を構成する集団によって祀られているのでマキ氏神などともいう。多くは本家・分家関係から形成されているので、祭神の性格は同族神である。本家・分家の系譜意識を重要視する集団なので、自然と本家が祭祀の中心となる。従来から同族神と考えられてきたものを概観してみると、まず長野県から山梨県にかけて顕著にみられる祝殿(いわいでん)、祝神(いわいじん)がある。本家を中心にしてマキごとに祀られているもので、祭日は比較的春や秋に集中している。具体的な事例を長野県塩尻(しおじり)市のものに求めてみる。同姓17軒で祝殿を祀っているが、祭神は稲荷で毎年4月3日に祭りをする。大小の樹木に囲まれた石積みを土台にした木製の祠で、前方に赤い鳥居の構えがある。祭りの世話をする頭屋(とうや)は1年交代の輪番制で、4月2日の宵祭にはほおずき提灯(ちょうちん)と幟(のぼり)を用意する。直会(なおらい)の肴(さかな)などは頭屋が負担するが、その他の費用は均等にする。当日は祠の前に尾頭(おかしら)付きの魚、昆布、お神酒(みき)を供え、家ごとに戸主などだれか1人が参加して、神主をよんで湯立てをする。湯立てをするのはこのあたりでも少ないが、祭祀内容は一般的である。この事例でもみられたように、祝殿、祝神には祭神として稲荷が圧倒的に多いのが特徴で、そのほか八幡や熊野など名社からの勧請神とみられるものが多い。
関東から中部、東海、近畿にかけては地の神が一門氏神の対象となっている。11月から12月にかけての祭日が多く、いわゆる霜月祭の範疇(はんちゅう)に属している。古木や自然石そのものを対象としていたり、樹木の根元の祠を対象としていたりする。静岡県あたりには樹木の根元に毎年新藁(しんわら)で祠をつくりかえるといった古い形態をうかがわせる事例が多くみられる。また、死後33年の最終年忌に墓に葉付き塔婆(とうば)を立てると、ホトケが地の神となるといった伝承も広い範囲に及んでいる。この地の神と同系統の信仰と思われるが、従来からよく知られているものに若狭(わかさ)のニソの杜(もり)信仰がある。福井県の小浜(おばま)湾を形成する大島半島で営まれているもので、ニソとかモリとかとよばれている祭場が30か所ほど点在する。そこは自生林が生い茂り、うっそうとした森になっている。森の木は切ってはならないという言い伝えがあり、それを守らないと祟(たた)るなどという。森は大小さまざまであるが、中央には古木があり、多くはその近くに祠が祀られている。同族によって祭祀を営む典型的な事例をみてみることにする。このグループは本家とその分家5軒、それに昔から分家扱いにされてきたという家の7軒によって構成されている。祭場や供物の費用をまかなうニソ田とよぶ祭田はともに本家の土地であるが、祭祀や耕作は1年ごとの順番である。分家が当番にあたっている年は、11月22日の夕方から祭りの準備にとりかかる。用意が整うと、当番の戸主が山裾(やますそ)の祭場に詣(もう)でる。祠の前に浜辺からとってきた荒砂をまき、その上に短い幣束(へいそく)と粢(しとぎ)をのせた赤飯を入れた藁苞(わらづと)を供える。そして、長い幣束を祠の横にある古木の根元に刺して拝する。22日はこれで終わるが、翌23日の早朝に本家の戸主夫婦が祭り直しを行う。祭り直しは標縄(しめなわ)、幣束、供物などの点検である。こうして祭りが滞りなく終了すると、当番の家に集まって直会をするのである。このグループは先祖を祀っているという意識が非常に強い。と同時に本家の権威も絶大である。
そのほか、中国地方、とりわけ山陽地方に分布する荒神(こうじん)、山口県から島根県にかけての山陰地方の森神、佐賀県や壱岐(いき)、対馬(つしま)など北九州にみられるヤブサ神、国東(くにさき)半島を中心にした小一郎神(こいちろうがみ)、鹿児島県を中心に南九州一帯に顕著なウッガン(内神)など、同族神として一門がこぞって信仰している事例が数多くみられるのである。これらの祭祀内容は前述した祝殿やニソの杜信仰とかなり共通点がある。しかし、この一門氏神の信仰形態そのものがすでにかなりの変遷を経ているので、これらが直接的に古代の氏神信仰と結び付くものではない。ただ、柳田は、本家を中心にした一族によって先祖神が祀られるという点から、古代の氏族による氏神信仰に近いものを見て取ったわけである。柳田は、一つの氏に一つの氏神という氏神信仰の古態を想定していた。
(2)村氏神 ある一定の地域内に居住している者が氏子と意識して、その祭りなどに奉仕する氏神社のことをいう。第二次世界大戦時まで続いていた社格制度で、村社とされていた神社の大半がこれに該当する。所によっては鎮守とか産土とか、あるいはただお宮というようによばれている。赤子の初宮参りや7歳の氏子入れなどの社会的承認はこの神社を介して行われる。いずれにしても、氏子や氏子の居住する土地や建物の守り神と信じられていた。現在でも広くみられる地鎮祭はそうした信仰に基づいている。こうした村氏神は、一門氏神の合同の結果生じたものであるという。つまり、元来氏神は氏ごとに一つずつあったが、多数の氏が合同して一つの氏神を祀ったのが村氏神であるというのである。
(3)屋敷氏神 個々の家が一軒で、屋敷地の一隅や持ち地の山林に祠などを設営して祀っているものをいう。一門氏神同様、古くは春秋の祭日に先だって新藁などで仮屋をつくったりしていたが、現在は木や石製の常設の祠となっているものが多い。祭神も多くは、稲荷、八幡、神明、秋葉など大社から勧請したものであるが、地方によってさまざまな名称がある。一門氏神などでみた一定の祭神の信仰圏のなかにも、一軒で祀られているものは多い。春とか秋の祭日はもとより、正月など節日ごとに供え物をしたり、婚姻の入家式に際しては、かならず参拝するといったことが行われる。一般的に家の守護神といった意味合いが強いが、なかには先祖を祀るといった伝承をもつものもある。屋敷氏神は、氏族の大きな団結力を必要としなくなった中世以降の社会変化を背景にして生じた形態で、村氏神と同じように古い時代にはなかったものだという位置づけがなされているのである。
柳田の分類は、古代の氏神信仰は氏ごとに一つの氏神を祀っており、現在の同族神のあり方がそれに比定しうるという点と、現在のムラの神社が氏神の合同の結果生じたものであるという点を前提になされたものである。これらに対して、同族神と認定されてきた信仰形態の分析などを通して異説も出され、今後の大きな課題となっている。
[佐々木勝]
『「氏神と氏子」(『定本柳田国男集 第11巻』所収・1969・筑摩書房)』▽『原田敏明著『村の祭祀』(1975・中央公論社)』▽『佐々木勝著『屋敷神の世界』(1983・名著出版)』
神道では習俗上の同族集団ないしは地縁社会を包括的に守護する神社とその祭神を,成員との親縁性を象徴的に強調して一般に〈氏神〉という。その語源は,古代の氏族制社会における族縁原理〈氏(うじ)〉に基づく守護神,すなわち氏族神(氏の神)に求められる。氏神祭祀を示す古例は《古事記》神代巻に3柱の綿津見(わたつみ)神が阿曇連(あずみのむらじ)の奉斎する〈祖神〉とある。《続日本紀》和銅7年(714)2月条にも大倭忌寸五百足(やまとのいみきいおたり)が氏上(うじのかみ)として神祭したとあるが,これは大倭神社(大和坐大国魂神社,《延喜式》)を氏神としてまつったことをさす。《万葉集》巻三には大伴坂上郎女(いらつめ)が天平5年(733)冬11月に〈大伴氏神〉をまつるときに詠んだ神歌がある。《令集解》相嘗祭の条にも神祇官が奉幣すべき大和,摂津,紀伊の13社のうち大倭,住吉,大神(おおみわ),池,意富(おお),葛木鴨(かつらぎのかも)の6社がおのおの同姓の氏族の祭祀を受けていることを注記が示している。氏族の祖先神としては,天皇家の祖神,天照大神をはじめ,中臣(藤原)氏の祖,天児屋(あめのこやね)命や忌部氏の祖,天太玉(あめのふとだま)命の例もあるが,これらに〈氏神〉とする用例はみえない。これを明記する例は《続日本紀》宝亀8年(777)7月の条に〈内大臣従二位藤原朝臣良継病めり,其の氏神鹿嶋社を正三位香取神を正四位上に叙す〉とあるものだが,鹿島社,香取神は藤原氏の祖神ではない。しかし少なくとも天照大神の天皇奉斎にみるように祖神は直系氏族の祭祀だけを受け入れる。《日本書紀》崇神朝に三輪の大物主神(大神神社祭神)が天皇の奉斎を拒否し,託宣して子孫の大田田根子(おおたたねこ)による祭祀を望んだり,《令集解》三枝祭(さいくさのまつり)の条に大神氏の氏宗(族長)だけがまつるべきことを示す記事がある。〈氏神〉は必ずしも祖神を意味しないが,氏族との深い関係を強調してこその名称であり,氏神の加護とその祭祀権は同一氏族内に独占された。また氏神祭祀にこの閉鎖性が強いだけに,朝廷ないし神祇官の関与が重要な意義をもつ。
神祇官所祭,奉幣,神階授与の対象となる氏神祭祀は,私祭の官祭化あるいは私祭の公認として古代政治の一面を示す。奈良時代末期には中央官人の氏神祭祀を公認する賜暇の記録が正倉院文書に散見し,平安時代にも例えば《類聚三代格》に氏神の祭りのための休暇や旅行に関する記事がある。これによると,当時宮廷官僚が奉斎すべき畿内の氏神の祭りは毎年2,4,11月に多かったらしい。なお本来の氏神祭祀には族長(氏上,氏宗)のほかに一族の女性が司祭した形跡が注目される。《三代実録》元慶3年(879)11月条に橘氏の氏神,梅宮(うめのみや)が仁明天皇の母橘嘉智子(嵯峨天皇皇后)のまつり仕えた神社であることが示されており,さらに明確には《権記》長保2年(1000)1月28日条に筆者である藤原行成が藤原氏出身の皇后は本来春日社や大原野社の〈氏祭〉をなすべきことを主張している。氏族が神孫を主張する根拠に一族の女性との神婚譚があり,制度的には伊勢神宮に斎宮,賀茂社に斎院,春日社に斎女を置いた例をみると,古く祖先神を氏神とする場合に一族の女性司祭が重んじられたことがうかがわれる。
平安初期の《新撰姓氏録》が示すように当時は有力氏族の系譜意識を反映して祖神を氏神とみなす傾向が強いが,平安末期から武家政権の時代にかけて氏神は機縁ないし地縁性の強い守護神を氏神とするようになった。安芸の厳島(いつくしま)神が平家の氏神となり,源氏が八幡神を氏神とするのが代表的な例だが,源平両氏はともに京都平野神社をも氏神としている。これはともに桓武天皇を始祖とするところから天皇の母高野皇太后の遠祖,百済聖明王を今木(いまき)神としてまつる平野社を氏神としたので,この点では祖神的氏神である。日蓮遺文の《諫暁(かんぎよう)八幡抄》(1280撰)には〈安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり〉とある。また《臥雲日件録》文安4年(1447)8月13日条には〈凡そ世人,神明のわが生るるところの地を主(つかさど)るものをもって,これを氏神という。予は泉州界(さかい)南に生れたる故に,住吉はすなわちわが氏神也〉と記している。中世武士団が荘園農民の郷村守護を基盤に在地性を強化するにつれて地縁神を氏神としたことを示す。またこのころから出生地またはその鎮守神を意味する産土・産土神(うぶすながみ)という語が氏神と混同されるとともに〈氏子〉という語も神から愛護を受ける者の仲間という意味から変化して郷村の氏神祭祀圏を表現するものとなった。江戸時代に幕藩体制下の郷村制が確立すると村落単位の氏神-氏子ないし産土(神)-産子(うぶこ)の観念がほぼ全国に行きわたった。近代の明治政府は江戸幕府の寺請制度による宗教統制に代えて氏神祭祀による一元的な末端行政の補強と国民教化を企てたため,村落鎮守を氏神とする観念が制度的にも徹底した。しかし同族神を氏神またはウチガミと呼ぶ習俗は依然として強く,とくに中部から東北地方にかけて根強く残存しており,現在ではこれをイッケ氏神とかマキ氏神と呼びならわしている。
→氏子 →産土神
執筆者:薗田 稔
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古代には一氏族が共同で祭る祖先神あるいは守護神。藤原氏の春日神社,賀茂氏の賀茂神社などがある。中世以降血縁よりも地縁的結合が重要となると,地縁集団の居住地の鎮守や産土神(うぶすながみ)と混同されるようになった。今日各地にある氏神には,同族によって祭られる一門氏神,一定地域に居住する住民が共同で祭る村氏神,個々の家の屋敷に祭られる屋敷氏神の三つの型がある。
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…一般にはある氏神に属する〈氏子〉というふうに,各神社の祭祀圏を構成する住民や世帯をいう。こんにち神社神道では信者に相当する総称として〈氏子〉を用いるが,狭意には各神社の慣習的な祭祀圏を〈氏子場〉ないし氏子区域と称し,その圏内の居住者を〈氏子〉,圏外からの信者を〈崇敬者〉と呼ぶ。…
…産土とは人の出生地の意味で,先祖伝来もしくは自分の生地を出自意識をもって表現する言葉であり,したがってその土地の鎮守社またはその祭神を自分の出自との関係で生まれながらの守護神と信じて,これを産土の神,産土神と称する。とくに近世以来これを氏神と混同するようになったが,それは氏神が当時,族縁神に限らず広く地縁神として土地の鎮守をもいうようになったことによる。文献に見えるウブスナの表記には,本居,宇夫須那,生土,産土,産須那などが多く,他は近世における語義解釈で案出されたものが多い。…
…しかし,カミとタマとは,ともに人間にとって,人知を超える存在であり,現象的にはその機能面の相違は認められるにしても,別個の存在とは理解しにくい。たとえば古代の氏神を考えた場合,氏神は,氏族の族長の権威を背景として,かつ公的な性格をもった存在として,多くの文献には記されている。氏神の個性は,明らかに,氏神をまつっている集団の性格を反映していると推察される。…
…つまり当時の氏は大和朝廷に即応するように再編成された同族集団であって,主として直系・傍系の血縁者から構成されながらも,うちに若干の非血縁者を含み,かつ部民・奴婢がこれに隷属していた。各氏は氏上(うじのかみ)によって統率され,みずからの祖神を氏神として礼拝していた。 大化前代の国家は氏を単位として編成されていたが,朝廷に対する世襲的な職掌の軽重によって姓(かばね)が与えられ,それによって秩序づけられていた。…
…また《江戸砂子》には,富岡八幡宮に〈当社四隅鎮守〉として丑寅(東北)の鬼門に蛭子神など境内の四方に鎮守神をまつったことを記している。なお平安時代から地方の荘園に領主の鎮守神を盛んに分祀したこともあってしだいに村落部にも鎮守信仰が普及し,近世には氏神や産土(うぶすな)神をも鎮守と称するようになった。今日では〈村の鎮守〉とか〈鎮守の森〉が地域の氏神の社を意味するようになったが,やはり鎮守(神)という言葉には土地や建物を守護する地縁的な神格の意味が強く,その点で氏神や産土神の血縁的な神格の表現と微妙な違いが残っている。…
…屋敷神に稲荷がまつられていることの多い事実も,祖霊が元来具有していた作神的性格を,いっそう拡充するためであったと考えられよう。氏神【直江 広治】
[朝鮮]
朝鮮語では屋敷(垈地。〈チプト〉という)の守護神は一般にトジュ(基主)やオプと呼ばれ,キムチや調味料などの甕を安置するチャンドクテという壇や裏庭の隅に小さな甕に穀類を納めてまつり,上を藁づとでおおった型式が多い。…
※「氏神」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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