日本歴史地名大系 「武雄神社」の解説
武雄神社
たけおじんじや
武雄市の中央部
江戸中期の神主伴信門編纂の「武雄社本紀」(武雄神社蔵)によれば、もと御船山の
武雄神社文書(国指定重要文化財)中に天暦五年(九五一)二月一一日付の四至実検状が現存し、県内最古の文書とされている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
武雄市の中央部
江戸中期の神主伴信門編纂の「武雄社本紀」(武雄神社蔵)によれば、もと御船山の
武雄神社文書(国指定重要文化財)中に天暦五年(九五一)二月一一日付の四至実検状が現存し、県内最古の文書とされている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
佐賀県武雄市の中央部,御船山東麓に鎮座。旧郷社。主神は武内宿禰,副神は仲哀,応神両天皇と神功皇后。社伝では天平年間(729-749)伴行頼の創祀という。確かな文献上の初見は951年(天暦5)で,当時郡鎮守杵島五社の一つであるとともに府社(大宰府支配下の神社)であり,神主は伴氏であった。平安時代の最末期,杵島郡内に蓮華王院領長島荘が成立し,武雄社は荘鎮守となった。一方神主伴氏は武士領主化し,鎌倉幕府が成立すると守門(そのころから藤原姓を称する)は御家人となり,頼門は蒙古合戦に参戦した。南北朝期はおおむね武家方(探題方)に属した。その後一時千葉氏に従ったが,16世紀半ば豊門は武雄領主となった後藤氏に仕えた。後藤氏は竜造寺・鍋島に従い,大宮司は文禄・慶長の役にも加わったが,その後社領を失い,近世にはあらためて100石を寄せられ,明治維新に及んだ。10月23日に行われる騎射祭は,鎌倉以来の神事と伝えられている。
執筆者:工藤 敬一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…肥前国杵島郡(現,佐賀県武雄市)に設定されていた京都蓮華王院領の荘園。荘域中央部に郡の惣鎮守武雄神社が鎮座し,この地方の開発も同社によって行われ,951年(天暦5)の武雄社領四至実検状に〈東限 長嶋大路鎮祭隈〉と見える。立券荘号の時期は不明であるが,北方町勧喜寺所蔵の薬師如来像の背銘に〈長嶋庄 医王寺 承安弐年十月〉と見え,承安2年(1172)10月以前に成立していたことがわかる。…
※「武雄神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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