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尼子晴久 あまこはるひさ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

尼子晴久
あまこはるひさ

[生]永正11(1514)
[没]永禄3(1560).12.24. 出雲
戦国時代の武将。政久の子,経久の孫。初め詮久。父が早世したため,天文 10 (1541) 年祖父の死とともに家督を継ぐ。出雲を本拠に中国地方東部に大領国を形成した晴久は,隣接する毛利,大内氏との間に戦いを繰返したが,やがて勢威衰え,居城富田城に孤立し没した。

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デジタル大辞泉の解説

あまこ‐はるひさ【尼子晴久】

[1514~1562]戦国時代の武将。経久の孫。永禄元年(1558)毛利軍を破り、石見(いわみ)銀山を手に入れて尼子氏の全盛期を迎えた。出雲など8か国の守護。

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百科事典マイペディアの解説

尼子晴久【あまこはるひさ】

戦国期の武将。初め詮久(あきひさ),1541年将軍足利義晴の偏諱(へんき)を受け晴久と改めた。同年祖父経久死去により家督を相続,出雲を中心とする山陰の支配力を継承した。
→関連項目毛利元就

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

尼子晴久 あまこ-はるひさ

1514-? 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)11年2月12日生まれ。尼子政久の子。父が早世したため,天文(てんぶん)10年祖父経久(つねひさ)から家督を相続。領国をめぐり毛利元就(もとなり)らと攻防をくりかえす。21年出雲(いずも)(島根県),隠岐(おき)(島根県),伯耆(ほうき)(鳥取県)など8ヵ国の守護となる。23年叔父尼子国久の新宮党をほろぼし,一族の衰退をまねいた。没年については永禄(えいろく)3,4,5年説がある。初名は詮久。

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朝日日本歴史人物事典の解説

尼子晴久

没年:永禄3.12.24(1561.1.9)
生年:永正11(1514)
戦国時代の武将。父は政久,母は山名兵庫頭の娘。はじめ詮久,天文10(1541)年に室町将軍足利義晴より諱の1字をもらい晴久と改名。民部少輔,のち修理大夫。父の早世により,同6年ごろから祖父経久を後継。同9年,毛利元就を安芸吉田郡山城に攻めて敗れ,同11年には大内義隆の侵攻を許したが,翌年これを撃退。それを機に家臣団の編成と領国内支配体制を強化し,失地回復に努めた。同20年に義隆が滅ぶと,翌年,出雲,隠岐,因幡,伯耆,備前,美作,備中,備後8カ国の守護に補される。しかし同23年,一族の新宮党の尼子国久,誠久らを滅ぼし,自ら衰勢を招いた。永禄3年,石見に侵入した元就軍と防戦中,富田(月山)城で急死した。なお,生年を通説より約15年さかのぼらせる異見があり,没年についても永禄4年ないし5年とする説がある。<参考文献>米原正義『出雲尼子氏一族』,瀬川秀雄吉川元春』,高橋正弘『山陰戦国史の諸問題』

(井上寛司)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

あまこはるひさ【尼子晴久】

1514‐60(永正11‐永禄3)
戦国時代の武将。初め詮久,1541年(天文10)将軍足利義晴の偏諱(へんき)をうけ晴久と改めた。民部少輔,のち従五位下修理大夫。父政久早世のため祖父経久より出雲を中心とする山陰の支配力,砂鉄・美保関などの経済力を継承した。40年,山陰の総力をあげて大内氏と結んだ毛利元就の居城安芸郡山を攻囲したが,翌年毛利・大内勢の反撃に敗走した。42年,芸・備・石の国人を合わせた大内義隆の出雲侵攻を許したが,富田(とだ)城に拠って防戦,翌年これを撃退した。

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大辞林 第三版の解説

あまこはるひさ【尼子晴久】

1514~1562) 戦国時代の大名。経久の孫。大内・毛利両軍をよく制し、山陰一帯を制圧、尼子氏の勢威を再興した。

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世界大百科事典内の尼子晴久の言及

【備後国】より

…大内氏は山名理興の神辺城攻撃を開始し,49年陥落させた。しかし陶(すえ)氏の義隆殺害後の52年尼子晴久は備後守護に任じ,尼子方に転じた江田・山内両氏と呼応して翌年備北に兵を進めたが,毛利勢に旗返(はたがえし)城を攻略されて軍を返した。57年(弘治3)毛利氏の防長攻撃軍には備後国人16名が参戦しており,大内氏滅亡後の備後は毛利氏領国に含まれたことを示す。…

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