尼子晴久(読み)あまこはるひさ

精選版 日本国語大辞典 「尼子晴久」の意味・読み・例文・類語

あまこ‐はるひさ【尼子晴久】

戦国大名経久の孫。初め詮久といったが将軍義晴の一字をもらって晴久と改名富田城根拠に、出雲備前因幡など七国の守護を兼ねた。尼子氏全盛期にあたる。永正一一~永祿五年(一五一四‐六二

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デジタル大辞泉 「尼子晴久」の意味・読み・例文・類語

あまこ‐はるひさ【尼子晴久】

[1514~1562]戦国時代武将経久の孫。永禄元年(1558)毛利軍を破り、石見いわみ銀山を手に入れて尼子氏の全盛期を迎えた。出雲など8か国の守護。

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改訂新版 世界大百科事典 「尼子晴久」の意味・わかりやすい解説

尼子晴久 (あまこはるひさ)
生没年:1514-60(永正11-永禄3)

戦国時代の武将。初め詮久,1541年(天文10)将軍足利義晴の偏諱(へんき)をうけ晴久と改めた。民部少輔,のち従五位下修理大夫。父政久早世のため祖父経久より出雲を中心とする山陰の支配力,砂鉄美保関などの経済力を継承した。40年,山陰の総力をあげて大内氏と結んだ毛利元就の居城安芸郡山を攻囲したが,翌年毛利・大内勢の反撃に敗走した。42年,芸・備・石の国人を合わせた大内義隆の出雲侵攻を許したが,富田(とだ)城に拠って防戦,翌年これを撃退した。その後大森銀山奪取,伯耆・因幡への侵攻など失地回復に努め,大内義隆が滅びると,52年幕府より山陰・山陽8ヵ国守護に補任された。しかし権力基盤は脆弱で,出雲以外の自立的な国人層を掌握できなかったうえ,54年一族の国久,誠久を誅し,自らその力を弱めた。晩年には大内氏の防長を征服した毛利氏が石見に侵攻し,晴久は大森銀山で防戦中,富田城に没した。
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百科事典マイペディア 「尼子晴久」の意味・わかりやすい解説

尼子晴久【あまこはるひさ】

戦国期の武将。初め詮久(あきひさ),1541年将軍足利義晴の偏諱(へんき)を受け晴久と改めた。同年祖父経久死去により家督を相続,出雲を中心とする山陰の支配力を継承した。1542年大内義隆が出雲に侵攻,翌年これを撃退した。義隆の滅亡後,1552年幕府から山陰・山陽8ヵ国守護に補任された。しかし出雲以外の国人層を掌握できず,さらに1554年一族の新宮党を自らの手で滅ぼし,いっそう権力基盤を脆弱にした。その後石見で毛利氏との合戦中,富田(とだ)(月山)城(現島根県安来市広瀬)で没した。
→関連項目毛利元就

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朝日日本歴史人物事典 「尼子晴久」の解説

尼子晴久

没年:永禄3.12.24(1561.1.9)
生年:永正11(1514)
戦国時代の武将。父は政久,母は山名兵庫頭の娘。はじめ詮久,天文10(1541)年に室町将軍足利義晴より諱の1字をもらい晴久と改名。民部少輔,のち修理大夫。父の早世により,同6年ごろから祖父経久を後継。同9年,毛利元就を安芸吉田郡山城に攻めて敗れ,同11年には大内義隆の侵攻を許したが,翌年これを撃退。それを機に家臣団の編成と領国内支配体制を強化し,失地回復に努めた。同20年に義隆が滅ぶと,翌年,出雲,隠岐,因幡,伯耆,備前,美作,備中,備後8カ国の守護に補される。しかし同23年,一族の新宮党の尼子国久,誠久らを滅ぼし,自ら衰勢を招いた。永禄3年,石見に侵入した元就軍と防戦中,富田(月山)城で急死した。なお,生年を通説より約15年さかのぼらせる異見があり,没年についても永禄4年ないし5年とする説がある。<参考文献>米原正義『出雲尼子氏一族』,瀬川秀雄『吉川元春』,高橋正弘『山陰戦国史の諸問題』

(井上寛司)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尼子晴久」の解説

尼子晴久 あまこ-はるひさ

1514-? 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)11年2月12日生まれ。尼子政久の子。父が早世したため,天文(てんぶん)10年祖父経久(つねひさ)から家督を相続。領国をめぐり毛利元就(もとなり)らと攻防をくりかえす。21年出雲(いずも)(島根県),隠岐(おき)(島根県),伯耆(ほうき)(鳥取県)など8ヵ国の守護となる。23年叔父尼子国久の新宮党をほろぼし,一族の衰退をまねいた。没年については永禄(えいろく)3,4,5年説がある。初名は詮久。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尼子晴久」の意味・わかりやすい解説

尼子晴久
あまこはるひさ

[生]永正11(1514)
[没]永禄3(1560).12.24. 出雲
戦国時代の武将。政久の子,経久の孫。初め詮久。父が早世したため,天文 10 (1541) 年祖父の死とともに家督を継ぐ。出雲を本拠に中国地方東部に大領国を形成した晴久は,隣接する毛利,大内氏との間に戦いを繰返したが,やがて勢威衰え,居城富田城に孤立し没した。

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367日誕生日大事典 「尼子晴久」の解説

尼子晴久 (あまこはるひさ)

生年月日:1514年2月12日
戦国時代の武将
1561年没

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世界大百科事典(旧版)内の尼子晴久の言及

【備後国】より

…大内氏は山名理興の神辺城攻撃を開始し,49年陥落させた。しかし陶(すえ)氏の義隆殺害後の52年尼子晴久は備後守護に任じ,尼子方に転じた江田・山内両氏と呼応して翌年備北に兵を進めたが,毛利勢に旗返(はたがえし)城を攻略されて軍を返した。57年(弘治3)毛利氏の防長攻撃軍には備後国人16名が参戦しており,大内氏滅亡後の備後は毛利氏領国に含まれたことを示す。…

※「尼子晴久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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