日本歴史地名大系 「久米村」の解説
久米村
くにんだ
- 沖縄県:那覇市
- 久米村
現那覇市中央西部の海辺近く、
〔成立と古琉球の様子〕
中国明代の洪武二五年(一三九二)中国皇帝から福建の
琉球への中国人の往来は初めの頃は当時東南アジアに展開した華人社会の様相と類似し、王府公認の下で独自の交易活動を行っていたものとみられる。
久米村
くめむら
- 山口県:徳山市
- 久米村
徳山湾の東北奥に位置する村で、西は徳山村、東は
「和名抄」に
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では久米郷として総石高一千八六二石余。同一五年の検地帳では久米村とし総高三千一三七石余、うち田方が一七九町余で高二千五九七石余、畠方が三七町余で一六九石余、百姓屋敷二一六、市屋敷二二、浦屋敷一三七、浦浮役一七九石、塩浜方六石余を記す。
久米村
くめむら
- 埼玉県:所沢市
- 久米村
所沢村の南にあり、西は
江戸期には
久米村
くめむら
文禄検地帳を転記したものと思われる伊勢国中御検地高帳に「久米之郷」とみえ、石高一六一六・七八石とある。
久米村
くめむら
久米村
くめむら
久米村
くめむら
久米村
くめむら
久米村
くめむら
- 千葉県:成田市
- 久米村
久米村
くめむら
畝傍村の南に位置する。「日本書紀」神武天皇二年春二月の条に「天皇、功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひて築坂邑に居らしめたまひて、
久米村
くめむら
久米村
くめむら
- 長野県:飯田市
- 久米村
現飯田市西部、村の西部を
近世初期は飯田藩領、寛文一二年(一六七二)より幕府領、天和元年(一六八一)より美濃高須藩松平領(竹佐陣屋支配)、明治三年(一八七〇)尾張名古屋藩領となり、廃藩に至る(長野県町村誌)。
天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に、
とあるように、久米村は久米と光明寺の二村に分れていたが、光明寺が慶長六年(一六〇一)に朝日受永より三石の寺領を寄進された(光明寺文書)時に両村が合体して久米村となったといわれる。
久米村
くんめむら
- 新潟県:柏崎市
- 久米村
東は
近世は元和二年(一六一六)から同四年長峰藩牧野忠成領のほかは高田藩に属し、以後は柏崎町に同じ。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では村高七九五石四升二合とあるが、これは久米谷の総高を示すもので、正保国絵図によると、その内訳は久米村高二四三石余、その枝村の
久米村
くめむら
- 愛知県:常滑市
- 久米村
村の中央を、東の
代々鋳物師が住み、「尾張名所図会」に「天福元年十一月賜ふ所の宣旨を所持す。近衛院御宇、源三位頼政
久米村
くめむら
- 岡山県:総社市
- 久米村
慶長六年(一六〇一)久米村七五七石余が木下家定に宛行われ(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)、寛永備中国絵図では高七五三石余、足守藩領。
久米村
くめむら
- 青森県:黒石市
- 久米村
黒石城下南方の
久米村
くめむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報