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大内義隆 おおうち よしたか

美術人名辞典の解説

大内義隆

室町後期の武将周防生。義興の長男。幼名は亀童丸。戦乱を逃れた公家たちを城下山口に保護した。文学学問を好み、明や朝鮮との交易を行なって「一切経」等の文物を輸入し、またザビエルを引見し、山口でのキリスト教布教を許可するなど文化の普及・発展に貢献した。従二位に至る。天文20年(1551)歿、44才。

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百科事典マイペディアの解説

大内義隆【おおうちよしたか】

戦国大名。義興(よしおき)の子。周防(すおう)などの守護。文芸を愛好し京都の公家の厚遇を受け,明や朝鮮の文物の輸入,大内版の開版,キリスト教の保護などを行った。
→関連項目尼子晴久大内椀ザビエル大寧寺不動院毛利隆元毛利元就

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大内義隆 おおうち-よしたか

1507-1551 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)4年11月15日生まれ。大内義興の長男。周防(すおう),長門(ながと),安芸(あき),石見(いわみ),筑前(ちくぜん),豊前(ぶぜん)の守護。大友氏,少弐(しょうに)氏とたたかい九州北部を掌握する。文学・芸能をこのみ,明(みん)(中国)・朝鮮と交易し,またザビエルに布教の許可をあたえる。天文(てんぶん)20年重臣陶晴賢(すえ-はるかた)の謀反にあい,9月1日長門(山口県)大寧寺で自刃(じじん)。45歳。幼名は亀童丸。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大内義隆

没年:天文20.9.1(1551.9.30)
生年:永正4.11.15(1507.12.18)
戦国時代の武将。幼名亀童丸。官途は周防介,左京大夫,大宰大弐,左兵衛権佐,兵部権大輔,伊予介,兵部卿など目まぐるしく変わる。位階も従五位下から従二位まで上昇した。義興の子。母は内藤弘矩の娘。享禄1(1528)年,義興の病死後家督を嗣ぐ。天文1(1532)年,九州で少弐・大友勢が大内氏と敵対したため,陶興房を出陣させ少弐氏を圧倒,天文5年9月少弐資元を自殺せしめた。この年の5月,義隆は大宰大弐に任じられ,官職の上からも少弐氏をしのいだ。同7年,幕府の調停によって大友氏との和睦が成立。翌8年,尼子晴久の安芸進出に対抗して家臣を安芸に派遣し,9年には子の晴持と共に自ら出陣した。10年1月に尼子氏を破り,安芸・備後の平定を図った。11年には尼子氏の本拠を攻略するため,出雲遠征を行った。しかし,翌12年5月大内勢は総くずれとなり,晴持は乗船が転覆し溺死。その後も義隆は,安芸・備後・伊予などに兵を派遣し,反大内勢力と戦った。山口に下向した貴族らと交わり,文芸に造詣が深かった。明や朝鮮とも交流。特に明との貿易では細川氏を排除し,遣明船を独占した。のち,義隆の寺社保護などの政策に対して次第に家臣団の不満がつのり,有力家臣の対立もあって,20年,陶隆房(晴賢)らが反乱を起こした。義隆は長門の大寧寺に逃れたが,陶氏の軍勢が迫ったため,冷泉隆豊の介錯で自殺したという。<参考文献>『大内義隆記』,米原正義編『大内義隆のすべて』

(佐伯弘次)

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防府市歴史用語集の解説

大内義隆

 大内義興[おおうちよしおき]の子で、学問や芸能を好んでいました。サビエルにキリスト教の布教を許したのもこの人です。しかし、貴族との交際を重んじたため、家臣の不満をかい、陶晴賢[すえはるかた]らに反乱をおこされ、長門の大寧寺[たいねいじ]で自殺しました。

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世界大百科事典 第2版の解説

おおうちよしたか【大内義隆】

1507‐51(永正4‐天文20)
戦国時代の武将。義興の嫡子。周防介,左京大夫,大宰大弐,伊予介,兵部卿などを歴任,従二位まで昇る。1528年(享禄1)家督を継ぎ,周防,長門,豊前,筑前,石見,安芸の守護。初政は領国経営に専念。34年少弐冬尚を下して筑前・肥前を平定,翌年には大友義鑑(よしあき)と和すなど北九州の支配を安定させた。また40年,尼子晴久が安芸に侵入すると,毛利元就を助けて撃退し,翌々年には逆にみずから大軍を率いて出雲へ出兵,晴久の富田城を攻めたが敗れ,世子晴持を失った。

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大辞林 第三版の解説

おおうちよしたか【大内義隆】

1507~1551) 戦国時代の武将。周防を中心とする七か国の守護。義興の子。学芸を好み、山口に京文化を移植し、また明・朝鮮の文物を移入。大内版を開版。キリスト教布教を許す。家臣陶すえ晴賢に襲われ自刃。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大内義隆
おおうちよしたか

[生]永正4(1507).11.15.
[没]天文20(1551).9.1. 長門,深川
室町時代末期の大名。義興の長子。享禄1 (1528) 年家督を継ぎ,周防,長門,安芸,石見,備後,豊前,筑前の7ヵ国の守護を兼任。少弐,大友,尼子氏らと戦って勢力を張り,天文5 (36) 年には彼の献資によって後奈良天皇は即位式をあげえた。功によって大宰大弐。また対明,対鮮交易に努め貿易の利を得る一方,『一切経』『朱氏新註』などの書物や文化財を求め,大内版を開版した。京都の難を避けた公家,僧侶を保護厚遇し,同 19~20年,ザビエルにキリスト教の布教を許し,西洋文化の輸入に努めるなど,文化の発展にも大いに貢献した。しかし家臣陶晴賢 (すえはるかた) の反乱により,長門深川の大寧寺で自殺。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大内義隆
おおうちよしたか
(1507―1551)

戦国末期、山口を本拠とした大内氏嫡統の最後の大名。義興(よしおき)の子。幼名は父と同じく亀童丸(きどうまる)。父の死で家を継ぎ、周防(すおう)、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、石見(いわみ)、安芸(あき)の守護となる。有職故実(ゆうそくこじつ)を尊重、京都から官務家(かんむけ)小槻伊治(おつきのこれはる)を招いて文書のことにあたらせた。後奈良(ごなら)天皇即位の儀式の資を献上して大宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられると、少弐(しょうに)氏を滅ぼして肥前(ひぜん)国を収め、北九州と制海権を掌中にし、東は安芸の武田氏を滅ぼし、備後(びんご)の諸将も従属させた。1542年(天文11)尼子(あまご)氏討伐に山陰へ遠征、翌年大敗してより武事を忘れ文事にふけった。位は従(じゅ)二位に上り、公家(くげ)たちを山口に迎えて厚遇し、京都の学問芸能を移植、朝鮮と明(みん)の高級文物を輸入し、ザビエルの一行に宣教の自由を与え、山口は文化都市として栄えた。その文事と奢侈(しゃし)は陶晴賢(すえはるかた)ら武断派家臣団と領民一般の反感を買い、51年謀反にあい、長門大寧寺(たいねいじ)で切腹して果てた。[福尾猛市郎]
『福尾猛市郎著『大内義隆』(1955・吉川弘文館) ▽米原正義著『大内義隆』(1967・人物往来社)』

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367日誕生日大事典の解説

大内義隆 (おおうちよしたか)

生年月日:1507年11月15日
戦国時代の武将
1551年没

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世界大百科事典内の大内義隆の言及

【安芸国】より

…33年(天文2)には熊谷氏が毛利方につき,また白井・香川・己斐の諸氏まで武田を離れ,内部から崩壊し始めた。40年尼子詮久は大軍を率い吉田郡山城を攻め,武田光和の後嗣信実は金山城に拠り,翌年1月友田興藤も桜尾城で大内氏にそむいたが,大内氏は部将陶(すえ)隆房を派遣し,毛利氏と協力して同1月郡山城攻囲の尼子軍を敗走させ,4月大内義隆みずから桜尾城に興藤を滅ぼし,ついで金山城を陥れて武田氏を滅ぼし,東西条の槌山城,金山城,桜尾城等に城督を置いた。翌年義隆の出雲遠征失敗後も両陣営の対立は続くが,尼子の勢力は衰え,その間に毛利氏が勢力を拡大した。…

【大友義鑑】より

…戦国時代の大名。義長の子。親安,親敦,義鑑と名のる。豊後を本拠に筑後・肥後両国,豊前・筑前の一部を領有。1515年(永正12)ころ家を継ぐ。初政で前代からの一族の反乱軍になやまされたが,大内義興の援などもうけてのりきり,後に義興の安芸出兵に援軍を送ったりした。また肥後へは次男菊法師丸を菊池重治(義国,義宗,義武とも)として送り込んだ。義興の子義隆が武藤(少弐)氏を討つため九州へ出兵すると武藤氏を助けて兵を出したが敗れ,筑前の所領保証を条件に和平。…

【周防国】より

…旧国名。防州。現在の山口県東部地方。
【古代】
 山陽道に属する上国(《延喜式》)。793‐849年(延暦12‐嘉祥2)の間に中国から上国に昇格した。《和名抄》は〈スハウ〉とよむ。もと〈周芳〉につくり,大宝令施行後〈周防〉に一定した。国司管治の国としては《日本書紀》天武10年(681)条に初見する。大島,熊毛(くまけ),都濃(つの),佐波(さば),吉敷(よしき)の5郡に721年(養老5)に熊毛郡をわけて玖珂(くか)郡を設置して6郡となった。…

【湯本[温泉]】より

…一帯の河畔は音信川ゲンジボタル発生地(天)。大寧寺には陶晴賢の謀反にあい同寺で自刃した大内義隆主従の墓所があり,約1km上流の三ノ瀬(そうのせ)には萩焼深川窯がある。【三浦 肇】。…

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