ラーコーツィフェレンツの解放戦争(読み)ラーコーツィフェレンツのかいほうせんそう

改訂新版 世界大百科事典 の解説

ラーコーツィ・フェレンツの解放戦争 (ラーコーツィフェレンツのかいほうせんそう)

オスマン帝国撤退後のハンガリーで起こった反ハプスブルク独立戦争。1699年のカルロビツ条約でオスマン帝国がハンガリーの支配権を放棄すると,ハンガリー全土はハプスブルク家の世襲領邦の地位に落とされ,ハプスブルク政府による絶対主義が導入された。それに対して,ハンガリー支配階級の多くや農民,匪賊,クルツkurcと呼ばれる義勇兵らの不満が高まった。不満はすでに1677年にトカイ地方での農民暴動となっていた。これは鎮圧されたが,農民指導者は反ハプスブルクの指導者としてラーコーツィ・フェレンツ2世Rákóczi Ferenz Ⅱ(1676-1735)を求めた。ラーコーツィは,トランシルバニアにおける反ハプスブルク愛国義勇軍クルツの指揮者であったズリーニ・イロナZríny Jllona(1643-1703)の子であった。86年に母親が投獄されると,ウィーン宮廷の保護下に育てられたが,94年自領に戻り,やがてベルチェーニ・ミクローシュBercsényi Miklós(1665-1725)らの反ハプスブルク貴族と交わった。1700年にはフランスのルイ14世の援助を得て反乱を企てて発覚し,01年に捕まったが,脱走してポーランドへ亡命していた。当地でエセ・タマーシュEsze Tamásやキシュ・アルベルトKis Albertら農民蜂起の指導者と会い,03年春ハンガリー解放戦争を宣言し,ハンガリーの貴族・農民の参加を訴えた。同年6月,ラーコーツィは国へ戻り,農民と土地なし貴族からなるその軍隊は,つぎつぎとオーストリア皇帝軍を破った。04年トランシルバニア公に選ばれ,翌年にはハンガリー貴族連合統治長官となった。しかし,大貴族と中貴族,貴族層と農民の対立のために,ハプスブルクの廃位は容易でなく,また,07年以後,フランス,プロイセン,ロシアの援助を受けて国の独立をめざすが,苦戦が続いた。10年ラーコーツィ自らロシアへ援助を求めに行った間に,解放軍は11年サトマールの和を結んだ。ウィーン・ハプスブルク政府は大赦とハンガリー貴族の自治を認めたが,ラーコーツィはフランス,ついでトルコへ亡命した。
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世界大百科事典(旧版)内のラーコーツィフェレンツの解放戦争の言及

【ハンガリー】より

…これに対して1703‐11年にはラーコーツィ・フェレンツ2世のもとに貴族・農民を含む全民族的な蜂起が起こった。このラーコーツィ・フェレンツの解放戦争が失敗に終わったのち,ハンガリーはオーストリア絶対主義の農業植民地の地位に置かれ,工業発展は抑えられ,ドイツ化された。しかしハンガリー貴族は,身分制議会(上院は国王の任命する大貴族,下院は各県から選ばれる中貴族からなる)を中心に,独自の政治的統一体を保った。…

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