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トランシルバニア Transylvania

翻訳|Transylvania

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

トランシルバニア
Transylvania

1775年アメリカのノースカロライナ植民地の R.ヘンダーソンらが設立しようとした植民地。 74年彼はトランシルバニア会社を結成,なんの権限も有しないにもかかわらずチェロキー・インディアンから現在のケンタッキーとテネシーにまたがる広大な土地を購入して移住者を送り込み,トランシルバニア植民地の設立をはかったが,イギリス本国からも認められず,大陸会議も反対し実現できなかった。しかし,約8万 ha (20万エーカー) の土地所有を認められ,入植者の移住は進み,のちのケンタッキー州の基礎となった。

トランシルバニア
Transylvania

ルーマニアの国土の約3分の1にあたる北西部,および中央地方の総称で歴史的地名。ルーマニア語名アルデアル Ardeal,ハンガリー語名エルデーイ Erdély,ドイツ語名ジーベンビュルゲン Siebenbürgen。北部,東部をカルパチア山脈に,南部を南カルパチア山脈に囲まれた高原をさす。行政上は 16の県に分かれ,ルーマニア人のほか,150万のマジャール人その他少数民族が住む。ティサ川の支流であるムレシュ川とソメシュ川の流域に都市が発達,クルージ,ブラショブ,ティミショアラ,アラドなどは商工業,文化の中心地となっている。ローマ帝国時代にはダキアの一部であったが,民族移動期にゲルマン諸民族などに荒らされたのち,マジャール人が9世紀末にこの地を征服すると,ハンガリー王は 12世紀にライン川下流域のザクセン人を多数入植させた。異民族を含むこの地方の長官はしだいにハンガリー王権からの独立勢力となり,オスマン帝国の侵入に乗じてハプスブルク家 (1526年にハンガリー王位を相続) に反抗し,1541年以降独立の侯国を形成した。三十年戦争期には,新教徒の多いこの地域はトランシルバニア侯ベトレン・ガーボルらに率いられて神聖ローマ皇帝に抵抗したが,1691年にハプスブルク領となった。 1848年の三月革命期には盛んに暴動を起こして鎮圧され,1867年オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー領の一部となった。第1次世界大戦の結果ルーマニアに併合され,その後一時国境の変更があったが,第2次世界大戦後に最終的にルーマニア領となった。南トランシルバニア地方の町や村にはオスマン帝国軍の侵入に備え要塞化した聖堂が現在も残る。ビエルタンをはじめ,これらの聖堂のある七つの町村は 1999年 (ビエルタンは 1993) 世界遺産の文化遺産に登録された。

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百科事典マイペディアの解説

トランシルバニア

ルーマニア中部の地域。〈森の彼方の国〉という意味で,ドイツ名はジーベンビュルゲン(七つのブルク)。北および東をカルパティア山脈,南をトランシルバニア・アルプスに囲まれた盆地で,天然ガス,石炭,金,銅,鉄などの鉱産物に恵まれ,鉄鋼,機械,化学,繊維,木材加工などの工業が行われる。
→関連項目シギショアラトゥルグ・ムレシュトランシルバニア地方の要塞教会群のある村ルーマニア

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世界大百科事典 第2版の解説

トランシルバニア【Transilvania】

ルーマニアの中央北部の地方名。英語ではTransylvaniaとつづる。トランシルバニアは〈森の彼方の国〉という意味で,12世紀のラテン語文献にTerra Ultrasilvanaの形で初めて現れる。これはマジャール人(ハンガリー人)がハンガリー南部の平原から西カルパチ山脈以遠の地をさして呼んだことばであった。ハンガリー語ではエルデーイErdélyと呼ばれるが,これも同じ意味をもち,ルーマニア人もそれに由来するアルデアルArdealという名称をトランシルバニアと併用している。

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大辞林 第三版の解説

トランシルバニア【Transylvania】

ルーマニアの中央部を東西に走る新期褶曲しゆうきよく山脈。北はカルパート山脈に連なる。長さ370キロメートル。最高峰はモルドベアヌ山(海抜2543メートル)。別名、南カルパート山脈。
ルーマニアの北西部地方。南はトランシルバニア山脈に、東はカルパート山脈に接する台地。石炭・鉄・マンガンなどの資源が豊富。吸血鬼伝説で知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

トランシルバニア
とらんしるばにあ
Transylvania

ルーマニアの中央部から北西部を占める地域。歴史的には東カルパティア、南カルパティア、西カルパティア(アプセニ山脈)の各山脈に囲まれた中央の台地部をさす。広義には、西カルパティア山脈の外縁に広がるバナート地方、クリシャナ地方、マラムレシュ地方を含む。「トランシルバニア」は英語名で、ルーマニア語名アルデアルArdeal、ハンガリー語名エルデーイErdly、ドイツ語名ジーベンビュルゲンSiebenbrgen。面積10万2000平方キロメートル、総人口約759万(1997。面積、人口とも広義の範囲)。ルーマニア人のほかに、100万以上のハンガリー人が居住している。気候は大陸性であるが、年間を通じて大西洋や地中海の影響を受ける。地形的には、北部のソメシュ高原とトランシルバニア平原、中央部のトゥルナベ丘陵、西部のセカシェ高原、南部のフルティバチウ高原に分かれる。これらの縁辺部にビストリツァ、ブラショフ、シビウ、ファガラシュなどの盆地群が連なる。西カルパティア山脈の西側に広がる平原はハンガリーのプスタ平原に続く。北部ではソメシュ川の、南部ではムレシュ川の谷が交通路となり、南のルーマニア平原とは、南カルパティア山脈を深く刻むオルト川渓谷やプラホバ渓谷を通じて結ばれている。小麦、ブドウを生産し、ブタや牛の飼育も盛んである。天然ガス産出地帯でもある。おもな都市にクルージュ、ブラショフ、オラーデア、アラド、シビウなどがある。[佐々田誠之助]

歴史

古代ローマ時代にはその属州ダキアの一部であった。ルーマニアの歴史学では、ローマの支配と文化を受け入れたダキア人が、その後も一貫してこの地方に居住したとされる。だがハンガリーの歴史学では、3世紀にゴート人に圧迫されてローマがその領域を縮小した際に、ダキア人は殺されるか、いっしょに南方へ去ったとされ、トランシルバニアへは9世紀にハンガリー人が先住者として定着したとする。1540年にハンガリー人の支配する公国となり、16世紀末にワラキア公国に、17世紀初頭にはトルコに支配されたが、1699年にハプスブルク帝国の領土に帰した。1867年にオーストリア・ハンガリー二重王国が成立するとハンガリー領に編入されたが、第一次世界大戦で二重王国が崩壊し、1918年12月に同地のルーマニア人がアルバ・ユーリアの大集会でルーマニアとの合併を決議した。第一次大戦後のパリ講和会議もそれを承認した。1940年8月のウィーン裁定により北部がハンガリーに与えられたが、第二次大戦末期にルーマニアが奪還した。さらに47年のパリ条約により、ルーマニアの領有権が認められた。両国のトランシルバニア領有権をめぐる最終決着は96年9月の善隣友好条約の締結で、国境不可侵とハンガリー人の少数民族としての権利の保証と引き換えに、ルーマニア領であることが認められた。[木戸 蓊]

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世界大百科事典内のトランシルバニアの言及

【ルーマニア】より

…他の主要都市はコンスタンツァクラヨバプロイエシュティブラショブシビウアルバ・ユリアなど。
【自然】
国土の中心にトランシルバニア盆地があり,東カルパティア,南カルパティア(トランシルバニア・アルプス),西カルパティア(ビホールBihor山地またはアプセニApuseni山地)の各山脈がこれを取り囲んでいる。カルパティア(カルパチ)山脈のまわりにはスブカルパティア山地,モルドバ丘陵,ルーマニア平原,西部平原などが広がる。…

※「トランシルバニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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