精選版 日本国語大辞典 「ウィーン」の意味・読み・例文・類語
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オーストリアの首都であるとともに,九つの連邦州の一つである。英語ではビエンナVienna。面積414.5km2,人口163万(2005)。古くは南ドイツからハンガリーへ向かう〈ドナウの道〉とボヘミアからイタリアへ向かう〈琥珀(こはく)街道〉が交差する交通の要衝であり,ゲルマン世界とスラブ世界を結ぶ文化上の交差点であった。
ウィーンの森の東斜面が市の西部を緑の半月状にかこみ,東部にはドナウ川とその分流ドナウ運河が流れる。市の南部も丘陵であり,場所を選べば市の中心部が一望できる。気候はやや大陸的であり,最も寒い1月の平均気温は-1.4℃,最も暑い7月で19℃である。しかししばしば夏は暑く,10月にはいると多くの市民は暖房をいれる。冬は日が照ることは少ない。年雨量は平均676mm,夏は雨量が増して,7月の平均は85mmである。市の中心部の標高は166m,ドナウ川岸で172mである。市の人口はオーストリア全人口の約20%を占め,そのうち82%はカトリック教徒である。
現在のウィーン市は,中世以来の旧市内である第1区を中心として23区に分かれている。旧市内の周りはリングという幅57mの環状道路がとりまき,さらにその外側は市内区innere Bezirke(第3~9区)である。市内区の外周には〈ギュルテルGürtel〉という環状道路が走り,その外縁部が市外区Aussenbezirke(第10~23区)である。いわばウィーンはドーナツのように二重の環にかこまれているのであって,歴史のところで述べるように,この点に18世紀以来のウィーンの都市の独自な構造が示されている。〈リング〉に沿って19世紀後半以降建てられた多くの重要な建造物が並んでいる。大学,市庁舎,議会,自然史博物館,美術史博物館,ブルク劇場,国立オペラ劇場,取引所等がそれである。ウィーンは国際的に著名な観光の都市である。例年5月から6月にかけて〈ウィーン祝祭週間〉と称して,音楽,演劇,展覧会が華やかに繰りひろげられる。ドナウ運河の左岸には,もと皇帝の猟場であったプラーターPraterがあり,その一部に高さ64mの大展望車Riesenradをもつ遊園地があって,〈道化芝居のプラーターWurstelprater〉の愛称で人々に親しまれている。
市の立法・行政組織は1920年に成立したものを踏襲している。まず比例代表制選挙によって定員100,任期5年の市評議会Gemeinderatが選ばれ,この評議会が市長1名と市参事会Stadtsenatを選ぶ。後者が市の行政機関である。市の紋章は赤地に銀の十字架である。
オーストリアの被雇用者の25.6%(1976年現在で62万3000人)がウィーンで働いている。そのうち主としてユーゴスラビア,トルコ等から来る外国人の出稼ぎ労働者が78年現在で7万8000人(1973年では9万2000人,ウィーンの被雇用者の11.8%)に達しているのが特徴的である。また被雇用者のうち約10万人は近隣のニーダーエスタライヒ州およびブルゲンラント州からの通勤者であり,逆にウィーンから近郊へ通勤している者が30万人である。ウィーンは1960年代以降も出生率低下と流出によって人口が減少しつつあり,61-71年には私住宅は9%減少し,代わりに銀行,官庁,商業経営が中心部へ進出して,完全な機能転換が生じつつある。全職業人口の5分の1は工業に従事しており,市の南部およびドナウ川左岸に工業地帯が形成され,また近代的な労働者住宅の団地も建設されている。それら工業の雇用人口は16万4100人(1973年10月)であり,電気産業,機械・製鉄,化学,食品,金属加工,建築,製紙,皮革,繊維,工芸品,モード産業などによって構成されている。またシンマーリングSimmeringとドナウシュタットには天然ガスと重油による火力発電所があり,ウィーンの必要電力の62%をそこでまかなっている。ウィーンは家庭燃料も近時天然ガスに切り換えられているが,従来,天然ガスの5分の3はロシアから輸送されていた。飲料水は導管を通して遠い山間部から運ばれる。したがってヨーロッパの他の都市とちがって,ウィーンでは水道の水をなまで飲むことができる。
ウィーンはまた交通の上でも重要な位置を占めている。かつては市門から放射線状に街道が走り,南ドイツ,ボヘミア,ハンガリー,イタリア,アドリア海沿岸の諸地方へ通じていたが,いまも西駅,南駅,フランツ・ヨーゼフ駅から東西南北へ向けての国際列車が出ている。市内はバスと市電が走り,1976年に地下鉄も一部開通した。またザルツブルクとゼーベンシュタインへ向けてのアウトバーンも完成している。国際空港はシュウェハトSchwechatにある。さらにドナウ川も旅客輸送,物資輸送の両面で重要な役割を果たしている。
ウィーンの歴史は,ケルト人の移住地ウィンドボナVindobonaから発している。だが紀元100年ころローマの第10兵団がこの地に侵攻し,同じくウィンドボナという名の屯営を築いた。これは長方形の要塞であって,彼らの住居跡がいまもホーエル・マルクトに残されている。170年ころマルコマンニ族との戦いで破壊されたが,皇帝マルクス・アウレリウスによって再建された。この時期にウィーンにはすでに市民も住み,南東の市外(現,3区)に市民区を拡張した。やがてウィーンのさらに東方の辺境の要塞地カルヌントゥムが没落した後は,ウィーンが重要な基地となった。しかし市は400年ころゴート族によって破壊され,433年フン族の手中に落ちた。ローマ帝国の没落とともに,以後約700年ウィーンは歴史の記録から消える。
しかしこの間にもウィーンは,おそらく居留地としては存続し,ドナウ川の港であることもあって,おそくとも11世紀までには商業の重要な拠点となる。12世紀には現存するウィーン最古の教会であるロマネスク様式の聖ルプレヒト教会ができる。聖ルペルト(ルプレヒト)は塩商人の守護者であり,塩はザルツブルクからドナウを通って一度ウィーンへ陸揚げされ,ここからさらにハンガリーへ送られた。いまもウィーンには塩河岸Salzgriesの地名が残っている。
1135年ウィーンはバーベンベルク家の支配下にはいり,翌々年の記録には〈キウィタスcivitas〉と記される。当時の支配者レオポルト3世は以後ウィーンのパトロンとして記念され,その子ハインリヒ2世は56年ころ居城をクロスターノイブルクからウィーンへ移した。このときの城塞がいまも遺跡の残る〈アン・ホーフ〉であり,この時期の市地図によればシュテファン教会はまだ市の外にあり,市は一応のかこいと,八つの市門をもっていた。12世紀末ウィーンは現在の1区のひろがりをもつようになり,市壁を初めて築いた。市はとりわけレオポルト5世の下で最初の隆盛期を迎え,1221年通過商業の独占権を得,以後東と南への貨物の素通りを許さず,開市権と貨物集散権Stadt-und Stapelrechtを握る。こうしてブドウ酒,塩,鉄,毛織物等がレーゲンスブルク,パッサウ,シュワーベン地方からウィーンへ着き,さらにウィーンからハンガリーへ送られた。1220年市は拡張され,1858年までのウィーン市の規模がここに決まった。さらに1237年から78年にかけて3度も自由な帝国都市となった。バーベンベルク家の宮廷は栄華をきわめ,著名なミンネの歌い手ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデも長く逗留(とうりゆう)した。しかしバーベンベルク家の滅亡(1246)とともに市は帝国都市としての立場を失った。
ボヘミア国王オタカル2世の支配を経て,78年ハプスブルク家のルドルフ1世が新たな勝利者としてウィーンへ入った。ここに,以後6世紀半にわたるハプスブルク支配の礎石がおかれる。しかし手工業者をも含めたウィーンの市民は必ずしも心服せず,88年にはこの新たな領邦君主に反乱したが,アルブレヒト1世によって武力弾圧され,96年には帝国都市としての自由を剝奪される。ハプスブルク家のウィーン市に対する権力行使は,たとえば600年後の1897年キリスト教社会党員カール・ルエガーKarl Luegerが市長に選ばれたとき,その承認を拒否した例にも示されている。このようにウィーンの政治的立場は弱体化したが,しかし経済的にはハプスブルクの版図の中心として興隆の道をたどった。14世紀には,シュテファン聖堂(ウィーン大聖堂),マリア・アン・ゲスターデ教会,アウグスティン教会等の代表的ゴシック建築が建てられ,またプラハと競争して1365年にはウィーン大学が設立された。市民もその生活のなかで一定の権利と自由をもった。96年の市長および参事会の選挙規則によれば,18人の市参事会員,市判事1人,市長1人を選ぶにあたって,商人や手工業者も同権をもって参事会へ参加できたのである。
自由で活気あるウィーンの市民生活について,ある人文主義者は1438年の手紙で次のように述べる。〈ウィーンは周囲2000歩の壁にとりまかれている。だがそれはきわめて広大な市外区をもっていて,この市外区自体がとりでになっている。市は深い堀と高い城壁をもっており,その壁は多くの塔と戦備の整った堡塁を備えてきわめて強力である。市民の住居は大きく,多くの装飾をもち,広い丸天井の玄関をもってりっぱな建て方をされている。ここでは広間の代りに暖房可能な部屋があって,〈シュトゥーベ〉と呼ばれている。こうすることでのみ,きびしい冬の寒さから身を守ることができるからだ。いたるところにガラス窓と鉄の戸がある〉〈ブドウつみは約40日もかかるが,その間ブドウを満載した300台もの馬車が日に2度も3度も市内に走りこみ,ブドウつみには1200頭の馬が使われる。市内ではけんかが絶えたことはない〉〈祭りが血を見ないで収まったことはない。死人が出るのも珍しいことではない〉。このような繁栄の反面,10世紀以降居住を拡大しつつあったユダヤ教徒,ユダヤ人に対し迫害も行われ,1421年には210人のユダヤ人が火刑に処せられ,1669年には少数の特権商人を除いて一時全ユダヤ人が市から追放された。
15世紀にはいると,フス戦争によって東方貿易が妨げられ,南東ヨーロッパへオスマン帝国が侵攻し,西南ドイツの商業都市が発展する等の理由で,ウィーンの経済的地位は弱まった。しかし他面では,1438年以来神聖ローマ帝国皇帝の居城都市であることによって危機を克服することができた。宗教改革にあたっては,ウィーン市民の大部分はプロテスタントであったが,ハプスブルク家がカトリックで,プロテスタントを禁止したため,16世紀中ごろ以降はカトリックへ転換し,ウィーンは反宗教改革の拠点となった。1522年にはフェルディナント1世に対する市民の反乱が生じたが,ただちに鎮圧され,市長M.ジーベンビュルガーらは断頭台で処刑された。支配者への反抗で命を失ったウィーン市長はこのときで3人目であり,以後市民の自治は制限され,ウィーン市長は実質的に皇帝の官吏以上のものではなくなった。47年最初の三角測量によるウィーン市の地図が作成された。
ウィーンは1529年と1683年の2度にわたってオスマン・トルコ軍30万によって包囲された。1529年当時のウィーンは強大な市壁を誇り,12のバスタイ(くさび形の堡塁)と深い堀にかこまれていたが,トルコ軍による危機を脱した後,市の軍事的改造に着手する。まず1683年以降市壁の外周の緑地帯グラシGlacisを拡張し,さらに1704年以降市外区の外縁に〈リーニエの壁Linienwall〉を設ける。すなわち深さ3m幅4mの壕を掘って,その土を高さ4mに積み上げた(この跡が現在の〈ギュルテル〉となる)。リーニエの壁の外側200mは建築物を許さなかった。また市門から放射線状に走る街道が市外区を通ってリーニエの壁にぶつかったところも〈リーニエ〉と呼ばれ,ここでウィーンへの出入が管理され,さらに19世紀になるとリーニエは消費税の徴収が主たる任務となる。
オスマン帝国の圧力からウィーンが最終的に解放されてから,建築・彫刻などでバロックからロココの時代が始まり,ウィーンはヨーロッパ文化の中心の一つとなる。シェーンブルン宮殿,ベルベデーレ宮殿等の庭園のついた貴族の城,カール教会やベーター教会等バロックの代表的建造物が建てられ,市内には市民のバロック風住居がいまも残る。市の人口もこの時期から急速に増大する。すなわち中世末期の5万が,1700年10万,1800年23万1000,1830年31万7000,1850年43万1000となる。18世紀の重商主義の時代にあって市の経済的意義も徐々に高まり,イギリス,フランスとくらべると後進的ではあるけれども繊維工業を中心として工業化も進展する。1718年にはマイセンの影響のもとで最初の陶器マニュファクチュアがウィーンにつくられる。マリア・テレジア,ヨーゼフ2世を経てフランツ1世の時代になると,反動的経済政策が推し進められ,ウィーンの市内および市外区に,また周辺2マイル以内に工場を建てることがしばしば禁止された。18世紀から19世紀にかけて官僚制も整備強化され,1804年にはウィーンはオーストリア帝国の首都となり,翌々年神聖ローマ帝国の首都であることをやめる。また1783年から1848年までは,市参事会Magistratが設置され,市の行政をつかさどった。
1814-15年のウィーン会議以降,いわゆる〈三月前期Vormärz〉が始まり,美術史的には〈ビーダーマイヤー期〉が始まる。23年には〈ドナウ蒸気船運航会社〉ができ,また37年には最初の蒸気機関車がウィーンを発車する。しかし政治的には,三月前期のオーストリアは警察国家と検閲の時代であった。とりわけ40年代後半にはいると凶作,失業,食料品の値上がり等によって人々の生活は窮乏化し,農村を離脱したプロレタリア人口がウィーンのリーニエの外縁に貧民街を形成する。この社会問題を背景にして,48年3月ウィーン市民は学生や労働者と共に憲法制定,国民軍設置,検閲の廃止等を要求して蜂起し,メッテルニヒ体制を打倒する(48年革命と呼ばれる)。こうして同年3月から秋にかけてウィーンには実質的に市民のコミューンが成立する。しかし10月にはいると宮廷勢力が勢いを盛り返し,ウィンディシュグレーツ指揮下の大軍がウィーンを包囲する。市民側はプロレタリアートや学生を主力にして激烈な武装抵抗を行ったが,結局降伏する。
この革命の教訓に学んで,政府は58年ウィーンの市壁を撤去し,その跡に〈リング(環状道路)〉を設けた。また〈三月前期〉から農村から流入した労働者人口によってウィーンの外縁部がいよいよ肥大し,1850年には34の市外区がウィーンへ併合された。さらに92年には南部と西部の周辺区もウィーンへ合併された(現,11~19区)。この合併によって人口も急増し,1891年136万4000,1914年224万となる。一般に1861-95年のオーストリアはリベラルな時代といわれるが,しかし1873年には世界博覧会がウィーンで開かれはしたものの,経済恐慌によって深刻な社会的緊張が生じた。95年にはリベラル派が市評議会(1848成立,定員150名)の選挙で破れ,代りに反ユダヤ主義的なキリスト教社会党が過半数を占めた。第1次世界大戦の終了とともにハプスブルク王政は崩壊し,ウィーンもまた35万の住民を失い,いまや小国の首都となった。1919年以来市評議会では社会民主党が多数派となり,市政を担当した。以後〈赤いウィーン〉はしばしば連邦政府と衝突し,27年7月には労働者のデモで司法省が炎上し,さらに34年には社会民主党を中心とする労働者の武装組織〈防衛同盟Schutzbund〉が蜂起し,カール・マルクス・ホーフに立てこもって軍隊と戦った。しかし38年以降オーストリアはドイツのナチス体制の支配下に入り,それまでの連邦州はドイツ帝国の管区Reichsganに編入された。44年から45年にかけてウィーンもまた空襲その他の戦争被害があり,住宅の21%と工業施設の25%が破壊され,市民1万1035が死亡した。第2次世界大戦が終結するとともにウィーンはソ連,イギリス,アメリカ,フランスの4占領地区に分かれて分割管理された。45年以来社会民主党が市評議会で多数を占め,市長は戦後ずっと社会民主党から選出された。
ウィーンはとりわけ18世紀のバロック期以来,建築,彫刻,美術,音楽,演劇,文学等の領域でまさにウィーン的としかいえない文化を展開させる。その特徴として第1に指摘しなければならないことは,そもそものウィーン文化はゲルマン,ラテン,スラブの諸民族の混合文化だったということである。たとえば18世紀ウィーンにおける代表的なバロック建築を設計したフィッシャー・フォン・エルラハ父子,J.L.vonヒルデブラントは,イタリアの影響をウィーンの風土のなかに生かそうとした。演劇もまた18世紀においてはコスモポリタン的であった。ドイツ語だけでなく,フランス語,イタリア語,スペイン語が交互に舞台で語られたのである。19世紀の終りから20世紀へかけても,このコスモポリタニズムは生きていた。建築,音楽,哲学,医学,詩,美術,演劇等の領域で人々は見えざる糸で結ばれ,ひたすら〈モダンなもの〉を追求する。彼らがウィーンのカフェハウスでかもし出した雰囲気は当時の排他的で,しばしば反ユダヤ的なドイツ主義とは無縁だった。これらの文化形成のなかでユダヤ人が大きな役割を果たした。19世紀末から1930年代までのウィーンのユダヤ人は全人口の8~10%を占めた。
ウィーン文化のもう一つの特徴はそれがしばしば民衆文化だったということである。たとえば演劇がそうである。ブルク劇場のように宮廷劇場の系譜を引いてドイツ語演劇の古典的代表ともいうべき流れもあるが,それと対照的な〈民衆劇場Volkstheater〉がウィーン演劇の本来の顔である。18世紀から19世紀初めにかけてはそれは〈ハンスブルスト〉の道化を主役とした即興喜劇であった。これをもとにしてウィーン特有の〈魔法劇Zauberposse〉が生まれる。メルヘンや魔物,妖精等のモティーフが交錯して陽気で風刺的な笑劇が展開される。その最も著名な代表はボイアーレ,ライムント,ネストロイである。これらの劇はケルントナートーア,レオポルトシュタット,ウィーデン,ヨーゼフシュタット等の市外区の劇場で上演された。しかもそれは民衆の言葉,つまり〈ウィーン弁〉と切っても切り離せない関係にあった。それは教養層も無教養層も,宮廷人も市民も引きつけたのである。この民衆劇は19世紀後半には衰退したが,しかしネストロイらのウィーン的パロディはいまでもウィーン人の心を離さない。
ウィーンの音楽にも民衆的流れはある。たしかにハイドン,モーツァルト,ベートーベンの〈ウィーン楽派〉をはじめ,ウィーンの〈音楽的な〉雰囲気は貴族の庇護によるところ大であった。大貴族は自分のオーケストラをもち,定期的に自分の宮殿でコンサートを開いた。たとえばハイドンを自分の楽師長としていたエステルハージ公などがそうである。しかし当然民衆の音楽もあった。少なくとも〈三月前期〉から多くの辻楽師が手回しオルガンをもって父のJ.シュトラウスやランナーの曲を演奏しつつウィーンの街を流していた。街の音楽〈シュランメルムジーク〉や食卓の音楽〈ターフェルムジーク〉とウィーン人の暮しは切り離せない。息子のJ.シュトラウスの《こうもり》《ジプシー男爵》やズッペらのオペレッタの軽快なメロディになると,皇帝から辻馬車の御者にいたるまで同じように口ずさむ。それはすでに一つの〈ウィーン気質Wiener Blut〉になっている。
このようなコスモポリタン的で民衆的な特質とともに,とりわけ19世紀末から20世紀にかけてのウィーン文化には,ハプスブルク帝国の没落の意識が暗く投げかけられている。それは象徴的な意味で〈世紀末世界Fin de Siècle-Welt〉であった。R.シュトラウスと協同してオペラに幻想的世界をつくりだしたホフマンスタール,フロイトの影響下で独自の心理描写を展開したシュニッツラーらがその典型である。文学においても多くの作家はたとえばカール・クラウスの雑誌《炬火》に見られるように,第1次世界大戦の悲惨さと古いオーストリアの解体の意識を担いながら,内面的心理の葛藤を社会批判に結びつけたのである。さらにまた哲学の世界において形式論理学を武器に伝統的な形而上学を批判し,この哲学的立場を法学,心理学,民俗学,経済学,歴史学などにおいて展開させ,多くの場合実証主義的な〈ウィーン学団〉を確立した(論理実証主義,オーストリア学派)。ハプスブルク帝国の〈世紀末〉にウィーン文化は最後の花を咲かせたのである。
執筆者:良知 力
ドイツの物理学者。東プロイセン,ガフケンの地主の一人息子として育つ。ゲッティンゲン,次いでベルリン大学に入学し,H.vonヘルムホルツの下で物理学を学ぶ。1886年光の回折現象に関する研究で学位を取得。青年時代のウィーンは家業を継ぐか学究生活に入るか,思い悩んでいたといわれるが,90年国立物理工学研究所の助手となり,照明,冶金などの産業技術を背景とする熱放射の研究に取り組んだ。92年熱電対を改良,95年空洞放射は黒体放射に相当するとの評価を与えて,放射測定実験を開始。一方,1893年放射の熱力学的考察から変位則(ウィーンの変位則)を証明,次いで96年気体分子運動論的取扱いに示唆を得て熱放射のエネルギー分布式を導出,理論的成果をあげた。ウィーンの分布式はその後,実験値との不一致が指摘され,M.プランクの量子仮説発見の契機となった。96年研究統制のきびしくなった研究所を辞し,その後アーヘン,ギーセン両大学を経て,ビュルツブルク,ミュンヘン大学の教授と総長を務めた。この間,陰極線,陽極線,X線などの諸性質と成因を探る研究,理論物理学の方法論などに先進的な業績をあげ,物理学の発展に寄与した。1911年熱放射の諸発見の功績によってノーベル物理学賞を受けた。
執筆者:兵藤 友博
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ハプスブルク帝国以来のオーストリアの首都。起源はローマ時代の軍隊駐屯地ウィンドボナにさかのぼるが,この地の集落が12世紀に辺境伯バーベンベルク家の宮廷都市となり,13世紀末以降はハプスブルク家の支配下で中世都市として整備される。ハプスブルク家の皇帝位独占に伴い,15世紀以降神聖ローマ帝国皇帝の宮廷都市として発展,その城壁は1683年のオスマン軍の攻囲にも耐えた。神聖ローマ帝国崩壊後はオーストリア帝国の首都としてウィーン会議の舞台ともなる。1857年以降市壁を撤去して市街を近代化。第一次世界大戦後オーストリア共和国の首都となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…正式名称=オーストリア共和国Republik Österreich面積=8万3858km2人口(1996)=810万人首都=ウィーンWien(日本との時差=-8時間)主要言語=ドイツ語通貨=オーストリア・シリングAustrian Schillingオーストリアという呼称は英語名で,ドイツ語では,エスターライヒÖsterreich。〈東の国〉を意味するが,国土は,ヨーロッパの中央部を占め,ドイツはもとより,フランス,イタリアとも深くかかわりあい,ヨーロッパ史上,重要な位置を占めてきた。…
…同様に隣接するオーストリアにも8州の主権国家の下に15の特別市が存在し,それらは州の下級行政庁たる郡の権能をあわせもっている。また,首都ウィーンは州と自治都市の地位をあわせもつ。韓国ではソウル特別市と釜山・大邱・仁川・光州・大田・蔚山の6広域市(もとは直轄市)があり,かつては自治権をもたなかったが,1991年以降地方自治に移行している。…
…とくに黒体からの放射ないしは空洞放射では簡明な法則性があり,絶対温度Tの熱平衡状態では,(放射の単位体積につき)各波長λに対して単位波長幅当りの放射エネルギー(スペクトル密度)uT(λ)が最大となる波長λmはTに反比例し,λmT=一定となる。これがウィーンの変位則である。右辺の定数は,光速c,プランク定数h,ボルツマン定数kという三つの基本定数で表され,(ch/k)/4.9651=2.8978×10-3m・Kである。…
…熱放射に関するキルヒホフの法則を証明するための思考実験に当たり,1860年にG.R.キルヒホフ自身が想定した。以来,今日に至るまで熱放射に関する基本的な結果(シュテファン=ボルツマンの法則,ウィーンの変位則,プランクの放射則)はすべて黒体に対して定式化されている。しかし,その意義は実験研究の初期には認識されず,結果がばらつき,また理論との不一致がいわれる原因となった。…
※「ウィーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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