改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド」の意味・わかりやすい解説
ポーランド
Poland
基本情報
正式名称=ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska/Republic of Poland
面積=31万2679km2
人口(2010)=3818万人
首都=ワルシャワWarszawa(日本との時差=-8時間)
主要言語=ポーランド語(公用語)
通貨=ズウォティZłoty
東ヨーロッパの北部にあり,バルト海に臨む共和国。1989年〈ポーランド人民共和国〉から現国名に改称した。国土の面積は九州と四国を除いた日本のそれにほぼ等しい。東と西を強国に挟まれたこの国の歴史は,まさに興亡の繰り返しであったが,ポーランドの人びとはその中でコペルニクス,ミツキエビチ,ショパン,ザメンホフ,ボードゥアン・ド・クルトネ,マリー・キュリー,そして現代のワイダらに至る個性的な文化を創造してきたのであった。
自然,住民
地理的環境
現在のポーランドは東経14度と24度の線,および北緯50度と54度の線に囲まれたほぼ正方形の形をしており,西はオドラ(オーデル)川とその支流ニサ(ナイセ)川,北はバルト海,南はスデーティ山地(ズデーテン山地)とカルパティア(カルパチ)山脈の一部を構成しているベスキドBeskid山脈に取り囲まれている。ポーランドには自然の障壁がなく,それが原因となって悲劇的な歴史を経験することになったと,しばしばいわれるが,本当の意味でポーランドが自然の障壁をもたないのは,東と西の国境線である。いま鉄道が引かれているモスクワ~ワルシャワ~ベルリンの線,およびかつて通商路があったキエフ~ルブフ(現ウクライナ領リボフ)~クラクフの線などがその主要な通路である。
このように平野を横切る形で東西の通路が存在するのに対して,南北の通路はともにスデーティ山地とカルパティア山脈が接するモラビア山峡に源をもつビスワ川とオドラ川によって形成されている。たとえば,16世紀に盛んになるライ麦の輸出は,この二つの川を使って行われた。ただし海岸線に平行する形でマズーリ地方とポモジェ地方,さらにその東のリトアニアに湖沼の帯が続いており,これが人の移動と定住を妨げてきた。この地方のキリスト教化が遅れたり,開発が遅れた理由はここにある。
ポーランドの気候は大陸性だが,バルト海のおかげでそれほど厳しいものではない。夏の旱魃,冬の厳寒,春の洪水が常態のロシアの内陸部に比べれば,はるかに農業にとって条件は有利である。ほぼ中心部を占めるワルシャワを例にとれば,1月の平均気温は-3℃,7月の平均気温は19℃である。降水量は年間559mmで,あまり多くないが,そのうちの約半分が5月から7月にかけて降っており,農業を行ううえで問題はない。気温が氷点下になる日も30日から50日と少なく,雪が地上に姿をとどめる日数も60日ほどである。作物の育成に使える日数は180日に及ぶ。冬の気温がそれほど下がらないのは,年間150日に及ぶ冬季の曇天も原因している。シロンスク地方やマウォポルスカ地方のように,ワルシャワより南にある地域ではさらに気象条件は有利であり,また土地もよく肥えている。13~14世紀にドイツ人の植民運動(東方植民)が,まずこの地域に集中したゆえんである。かつてポーランドは森林と野生動物が豊富なところでもあった。中世の一時期,大量の木材や毛皮を西欧に輸出していたこともあったが,現在では特別な保護区が必要になるほどに減少してしまっている。とくに有名なのが,北東部ビヤウィストクに近いビヤウォビエイスカBiałowiejska国立公園で,原生林とヨーロッパ・バイソンが保護されている。
住民
戦間期,すなわち第1次大戦と第2次大戦の間の時期のポーランドには,全人口の3分の1にのぼる数の少数民族が住んでいた。最も多かったのがウクライナ人(全人口の15%),次いでユダヤ人(8.5%),ベラルーシ人(4.7%),ドイツ人(2.2%)である。ところが第2次大戦後,ウクライナ人とベラルーシ人の居住地域はソ連領とされ,ユダヤ人はナチス・ドイツによる〈最終的解決(虐殺)〉と戦後の移住(イスラエル,アメリカなどへの)で約4万人が残っているにすぎない。またドイツ人についても,西部で獲得した旧ドイツ領のドイツ人も含め,約500万人に及ぶドイツ人が戦後ポーランドから追放されてしまった。したがって現在のポーランドには,ほとんどポーランド人しか住んでいないということになる(1990年推計ではポーランド人97.6%,ドイツ人1.3%,ウクライナ人0.6%,ベラルーシ人0.5%)。しかし,このようにポーランドが少数民族を内部に抱え込まなかった時期はポーランド史では初めてのことであり,むしろ戦間期のように,ポーランドは多くの民族によって構成されていた時期のほうが常態であった。
〈ポーランド王国〉の概念が登場したのはカジミエシュ3世(大王,在位1309-70)の時期とされるが,このとき王国を構成していたのは,必ずしもポーランド人だけではなかった。現在ならウクライナ人,ユダヤ人,ドイツ人とされるような者が数多く臣民として大王の保護を受けており,逆に現在ならポーランド人とされて当然だと思われるような者が,王国には属していなかった。王位そのものも,大王の手からハンガリー国王に譲られ,さらにリトアニア大侯のものになっている。そもそもポーランド人という国民概念が現在のようなものになるのは,19世紀になってからのことであり,それまで〈ポーランド人〉といえば,それは政治的権利をもったシュラフタ(ポーランド貴族)のことを意味したのである。シュラフタの身分を認められた者であれば,何語を母国語としていようが問題なく〈ポーランド人〉とされたのであり(公用語はラテン語),逆に,ポーランド語を母国語としているからといって必ずしも〈ポーランド人〉とされたわけではなかった。この場合とくに問題になるのは農民だが,農民にポーランド人としての意識をもたせるうえで大きく貢献したのが19世紀末から20世紀初めに展開された国民民主党による啓蒙運動であった。またポーランド人であることの条件としてカトリック教徒であることがよく指摘されるが,こうした考え方を初めて提起したのもドモフスキをはじめとする国民民主党のイデオローグたちである。もっとも,実際にカトリック教会がポーランド人の間で大きな権威と影響力をもつようになるのは第2次大戦以後のことであり,戦間期までのカトリック教会は,決してポーランドの国内で現在のような独占的な地位を占めたことはなかったのである。
執筆者:宮島 直機
政治
ポーランドはいわゆる人民民主主義体制をとり,他の人民民主主義国と多くの共通点をもつが,近年の激しい政治変動によって若干の特殊な発展をみせている。国政の形式上の最高機関は一院制の国会である。しかし,その上に設けられている国家評議会(集団的元首)が国会の多くの機能を代行している。三権分立ではなく,三権統一が原則で,国家評議会が閣僚会議(政府),最高裁判事を任命する。国家評議会議長(大統領)は国政の最高職であるが,ポーランドではかつて有力な政治家が担当したことがなく,政治的には閑職である。国会は4年ごとに,選挙民にほとんど選択の余地を許さない単一候補者名簿方式により選挙される。1980年3月の選挙では投票率98.87%,賛成率99.52%。候補者指名権をもつのは,形式的には国民統一戦線という統一労働者党(共産党),統一農民党,民主党,大衆組織,〈進歩的〉カトリック団体の代表から成る組織であるが,実際には統一労働者党の書記局である。地方行政においても同じ原則が貫かれ,各レベルに地方議会に相当する国民評議会があって,国会を頂点とするピラミッド型の位階制秩序を形成している。
1981年12月13日には〈戦争状態〉(戒厳令)が宣言され,新しい権力構造が創り出された。そもそも〈戦争状態〉の施行自体が,内容的にも手続的にも憲法違反であったが,これに応じて〈救国軍事評議会〉という超憲法的機関が出現した。国会,政府,統一労働者党中央委員会などの旧来の権力機関も並行的に活動を許されたので,支配関係に不透明さが生じたが,政府,党の最高職を兼ねたヤルゼルスキWojciech Jaruzelski(1923- )が軍を背景に実権を握ったものであることは明白である。
〈戦争状態〉は83年7月に解除された。しかし戒厳令時に成立した権力構造は残っている。たとえば同年中に非常事態法が採択され,非常事態宣言とともに国政の最高権をゆだねられる〈国家防衛委員会〉議長にヤルゼルスキが就任した。しかし,権力関係の変化は法的制度的というよりも,むしろ事実問題として,大量の軍人が国家,党,地方行政,経済,大衆組織などの要職に進出したことに現れている。統一労働者党は1980年7月に330万の党員を擁したが,その後の〈連帯〉運動,戒厳令の衝撃で,とくに青年,労働者層の支持を失い,83年末の公称党員数は219万に後退した。
国民統一戦線は1983年初めに解散し,代わって同年7月〈国民再生愛国運動〉が発足,憲法の関連規定も改正された。新組織は旧組織と大きくは違わないが,民主党が後退したこと,大衆組織が姿を消したこと(戒厳令時に多くが解散),カトリック団体が進出したこと,思想的に旧国民民主党色が強くなったことが特色である。新組織が代議機関の候補者指名という憲法上の役割を初めて果たしたのは,84年6月の国民評議会(地方議会)選挙である。新しく施行された選挙法は,単一候補者名簿方式を固執しているが,名簿上位者が50%の票をとれなかった場合には,50%以上の票をとった下位者が繰り上がるしくみをとって選挙民の選択の自由を若干拡大した。政府発表によれば投票率74.77%,〈連帯〉労組地下指導部の調査によれば60%弱で,とくに大都市での棄権率が高かった。国会選挙は期日が過ぎているにもかかわらず,85年5月現在まだ公示されていない。
経済,産業
国有制と中央経済計画を骨子とするいわゆる社会主義体制をとっている。1979年以来未曾有の危機に見舞われており,若干の体制変化の兆しがみられる。公式統計によっても,1979-82年に生産国民所得が24.6%,分配国民所得が27.5%下落,1978-83年の消費者物価上昇率は347.9%に達し,実質賃金は1981-82年に24.9%も下落した。1981年からの5ヵ年計画は中止され,2年間は年次計画もない状態が続いたのち,ようやく1983年から安定化三ヵ年計画が発足した。しかし政府の予測によっても,80年代末まで回復の見込みがない。危機の直接の原因は支払能力を超えた外資導入にある。1981年末までに西側に255億ドル,東側に45億ドルの債務が累積しており,西側への返済義務だけでも輸出代金の115%に達して破産状態となっている。このため西側からの輸入が40%もカットされ,多くの工場は設備や原材料の供給途絶によって操業中止に追い込まれた。畜産業は飼料不足で大きな打撃を受けている。
経済改革の柱はまず市場の均衡回復である。従来,賃金・価格が社会政策的観点から決定されていたため,実際の商品量に裏打ちされない余剰購買力が生じ,市場不均衡の一因となっていた。これに対処するため一方で賃金の上昇を抑え,他方で思いきって物価を引き上げるという荒療治が行われているが,どこまで社会の不満を押さえ込めるかが問題である。もう一つの柱は国営企業の自立化,自主管理化,自己金融化である。1983年6月の企業倒産法によって法的整備は一段落したが,〈創設機関〉(省,地方自治体)が企業の真の自立も倒産も望まず,企業側にも自立の態勢がないため,実際の効果は疑問視されている。この中で一足先に1982年7月外国法人の営業活動を認める法案が成立し,その結果主としてポーランド系の外国人の投資活動が盛んとなっているのは注目される。
農業は社会主義国としては例外的に個人農が中心となっており,それが耕地の77%を占めている(農業政策)。国営・集団農場も非能率であるが,個人農も零細であるうえに肥料・機械・信用などの供給面で差別され,後継者がない場合土地没収の恐れがあったため,生産意欲が上がらず,農業不振の一因となっていた。政府は戒厳令後,個人農に対する差別の撤廃と土地所有権の保障を約束した。また教会が中心となって国外から資金を仰ぎ,〈個人農近代化基金〉設置計画が進行中である。このため,農業生産は畜産を除き,比較的好調に推移している。
歴史
先史時代
現在ポーランドと呼ばれているオドラ川とビスワ川に挟まれた地域に,人間が住み始めたことを示す証拠は,約2万年前のものが最初である。もっとも,旧石器時代に属する遺跡はワルシャワ郊外とクラクフ郊外で見つかっているにすぎない。それに対して前4000~前1800年にあたるとされている新石器時代の遺跡はグダンスク郊外,ビドゴシュチ郊外,ブロツワフ郊外,キエルツェ郊外など数ヵ所で見つかっており,特徴的な壺の形に従ってそれぞれ名前がつけられている。青銅器時代の遺跡になるとさらにその数は増え,遺跡が最初に発見された場所の名前を取ってウネティチェ文化(前1800~前1400),トシチニェツTrzciniec文化(前1500~前100),ラウジッツ文化(前1300~前400)などと総称されている。有名なビスクーピンBiskupinの遺跡はラウジッツ文化に属し,湖底で発見された住居跡は,当時の生活のようすをよく伝えている。ほぼ現在のポーランド全域を覆う形で発展を遂げたラウジッツ文化は,前400年ころ突如として消滅するが,これは鉄器をもったスキタイ人に滅ぼされたものと考えられている。
また青銅器時代から,現在のポーランドの北東部はバルト人,北西部はゲルマン人,中央部から南部にかけてはケルト人が住んでいた。スラブ人は西暦500年ころからポーランド南部に住んでいたことが確認されているにすぎず,この地域にスラブ人が本格的に登場してくるのは,7世紀になってアバール人の帝国が崩壊し,スラブ人の大移動が始まってからである。なおスラブ人は前200年ころからサルマート人の支配も経験しており,その痕跡が〈神〉を意味する言葉や〈天国〉を意味する言葉として各スラブ語の中に残っている(キリスト教の到来とともにこれらの言葉は意味を変えるが,もともと自然崇拝や祖霊信仰と結びついたものであった)。のちに登場してくるシュラフタ(ポーランド貴族)のサルマート起源説は,この事実に由来するものである。
ヨーロッパ世界への参加
ギリシア・ローマの古典古代世界から遠く隔たっていたポーランドの地が,文書記録に登場してくるのは,10世紀末になってからである。イブラヒム・イブン・ヤクブという名のスペインに住むユダヤ人が,そのころモラビア国に属していたクラクフにやって来て,グニェズノに本拠を置くポラニエ族の長ミエシュコ1世Mieszko Ⅰ(?-992)に関する記録を残している。ポーランドという国名はこの部族名に由来する。995年にレヒフェルトの戦でハンガリー人を破ったオットー1世は,戦勝で確立した権威を背景に,962年ローマ皇帝の地位に就いた。神聖ローマ帝国の成立である。また同じ年スラブ人に対する布教の根拠地としてマクデブルクに大司教座の設置を認められた。その東隣にあったポーランドにとって,帝国の成立と東方進出は大きな圧力であり,これに対抗するため965年,ミエシュコ1世はチェコ侯ボレスラフ1世Boleslav Ⅰ(?-967)と同盟を結んだ。また翌年には一族とともに洗礼を受け,ポラニエ族の国ポーランドはキリスト教世界の一員となった。以後ポーランドは神聖ローマ帝国やチェコ侯国,さらに東隣のキエフ・ロシアと同盟を結んだり戦ったりするなかで,しだいに独立した地位を確立していくことになる。キリスト教の受容時すでに支配していたビエルコポルスカ地方とマゾフシェ地方に加えて,ポモジェ地方とシロンスク地方,およびマウォポルスカ地方を支配下に収めたミエシュコ1世は,ほぼ現在のポーランドに対応する国の形をつくり上げたことになる。990年ころのことであった(ただし,ここでいう支配は城塞に拠った点の支配にすぎず,領域的な支配ではない。隣国と支配圏が複雑に交錯している状態を想定すべきである)。
ミエシュコ1世後を引き継いだボレスワフ勇敢王Bolesław Chrobry(966ころ-1025)は,その支配地域を異教徒の住むプロイセン地方に広げるため,ボイチェフ(アダルベルト)に布教を依頼し,彼が殉教するとその事実をローマの教皇に伝えるとともにグニェズノ大司教座(マクデブルク大司教座からの独立を意味する),クラクフ司教座(マウォポルスカ地方の布教を担当),ブロツワフ司教座(シロンスク地方の布教を担当),コウォブジェク司教座(ポモジェ地方の布教を担当)を設置する許可を得た。西暦1000年(最後の審判の年だと信じられていた),グニェズノに埋葬された聖人ボイチェフの墓に詣でた神聖ローマ皇帝のオットー3世は,大司教座の設置とともにボレスワフ勇敢王に王冠を授けている(教皇の認可を得るのは1025年)。これをもって一応ポーランドは国家として独立した地位を確立したと考えられるが,その王位は決して安定したものではなかった。
勇敢王の後を継いで王位に就いたミエシュコ2世Mieszko Ⅱ(990-1034)はキエフ・ロシアと組んだ兄ベスプリムBezprymによる反乱に遭って亡命を余儀なくされ(1031),その翌年に帰国するが,王位はすでにドイツ皇帝に返還されていた。その子カジミエシュ再建侯Kazimierz Odnowiciel(1016-58)がミエシュコ2世の後を継いだ翌年には,キリスト教の強制に反対する民衆の反乱が勃発し(1035-37),再建侯は再び亡命を余儀なくされた。さらに混乱に乗じてチェコ侯ブジェチスラフ1世Břetislav Ⅰ(1012ころ-55)がポーランドに侵入し,グニェズノからボイチェフの遺骨を持ち去るとともに,シロンスク地方を占領してしまった。せっかくつくり上げられた統治機構や教会組織もこれで崩壊してしまい,カジミエシュがその〈再建〉に成功するのは,彼が晩年になってからのことである(このとき従来の従士制度に替えて騎士制度が導入されている)。また荒廃したグニェズノは放棄され,以後ポーランドの君主は,クラクフにその居を定めることになった。
王位はその子ボレスワフ豪気王Bolesław Szczodry(Śmiały。1042ころ-81)がハインリヒ4世とグレゴリウス7世の叙任権闘争に乗じて回復するが(1076),聖スタニスワフ事件にみられるようにすでに豪族の台頭が著しく,豪気王は弟のブワジスワフ・ヘルマンWładysław Herman(1043ころ-1102)を擁立したシェチェフ(11世紀中ごろ~12世紀初め)によって追放されてしまった(1079)。さらにシェチェフに対抗する勢力が,修道院に押し込められていたヘルマンの長男ズビグニェフZbigniew(?-1112ころ)をかつぎ出してヘルマンの後継者としたが,1102年にヘルマンが死ぬと,こんどはズビグニェフと弟のボレスワフ曲唇侯Bolesław Krzywousty(1085-1138)の間で,侯位をめぐる戦いが始まった。いずれの側にも豪族たちが控えており,曲唇侯の勝利はなんら事態を変えるものではなかった。侯位をめぐる兄弟間の争いを避けるべく曲唇侯は息子たち全員に領地を与えることとし,かつクラクフとその周辺部を得た最年長者が一族を統括することとした。以後ポーランドは〈分裂期〉を迎えることになる。
ポーランド王国の成立
分裂は発展の結果であった。もはや兄弟間で殺しあって君主を無理に一人に限定しなくても,小さな地域で統治機構を維持していくことが十分に可能になったのである。豪族の台頭も発展の結果であった。分裂が地域間の競争を刺激して発展がますます促進され,それがまた分裂をいっそう促すことになった。こうして曲唇侯の息子たちが順番に担当してきた〈一族を統括する〉役割も,レシェク白髪侯Leszek Biały(1186ころ-1227)の代になると実行が不可能になってしまった。とくに,先進地域であったシロンスク地方で分裂が激しく進行するが,その原動力になったのは,ドイツ人による東方植民であった。なかでもヘンリク髭侯Henryk Brodaty(1163ころ-1238)はその熱心な推進者としてよく知られており,彼の試みが先例となって,植民運動がポーランド中に広がっていくことになる。マゾフシェ侯コンラートの要請で,プロイセンのキリスト教化のためにやってきたドイツ騎士修道会の入植(1226)も,この植民運動の一環と考えるべきである。
ドイツ人やその方式をまねたポーランド人による農村建設や都市建設によって,領域支配という新しい原理による支配が可能になったポーランドでは,これを使って国家の再統一が実現されることになる。ヘンリク有徳侯Henryk Probus(1257ころ-90。王位を目ざすが実現直前に死亡),プシェミスウ2世Przemysł Ⅱ(1257-96),チェコ国王バーツラフ2世Václav Ⅱ(1271-1305),ブワジスワフ短身王Władysław Łokietek(1260ころ-1333)が,それぞれポーランド王位を手がかりに統一の実現を目ざすが,最終的にこれに成功したのが短身王である(1306)。そして,その子カジミエシュ3世(大王。1310-70)が統一事業をポーランド王国Królestwo Polskieとして完成させた(1333)。なおシロンスク(ドイツ名シュレジエン)地方が1335年に最終的に失われ,ハリチ地方(のちのガリツィア)への進出がその5年後に始まっている。ポーランド王国は東に向かって発展を開始したのである。統一の実現とともに,シュラフタ身分(とくに有力な者をマグナートと呼ぶ)の形成や身分制議会(セイム)の登場がみられた。官吏養成用に,ボローニャ大学に範を求めたクラクフ・アカデミー(ヤギエウォ大学)がつくられたのもこの頃であった。
→ピアスト王朝
東ヨーロッパの大国
嫡子に恵まれなかったカジミエシュ大王の後を継いだのは,アンジュー家出身のハンガリー王ルドビク(ラヨシュ大王)Ludwik Węgierski(Lajos。1326-82)であった。ところがルドビクも男子に恵まれず,彼は娘のいずれかにポーランド王位を確保すべく,コシツェでシュラフタに最初の特権を約束した(1374)。ヤドビガJadwiga(1371-99)が国王に選ばれ,ポーランドと同じくドイツ騎士修道会の脅威に直面していたリトアニア大公ヨガイラJogaila(ブワジスワフ・ヤギエウォWładysław Jagiełło)との結婚が決定された(1385)。この時点で,ヨーロッパ最後の異教国リトアニアのキリスト教化も実現することになる。ポーランドとリトアニアの同君連合は,1410年,早速ドイツ騎士修道会に対する勝利として実を結ぶことになった(グルンワルトの戦)。さらにカジミエシュ・ヤギエロンチクKazimierz Jagiellończyk(1427-92)の時代に戦われたドイツ騎士修道会との十三年戦争(1454-66)の結果,グダンスクのある東ポモジェ地方を王領プロイセンとしてその保護下に置いたポーランド王国は,大量のライ麦をビスワ川によってグダンスクまで運び,これをオランダやイギリスの商人に売り渡すことで空前の繁栄期を迎えることになった。その主役を演じたのがシュラフタである。ライ麦輸出で得た経済力を背景に彼らはセイムでその政治的な発言力を強めていった。
1505年には〈ニヒル・ノビ〉と呼ばれる特権がラドムのセイムで決議され,シュラフタが構成するセイムの同意がなければ,国王は何事も決定できないことになった。いわゆるシュラフタ民主制の登場である。1525年からは,マグナートによる官職の独占や王領地の占拠に反対し,過去の理想的な状態の再現を要求する,〈旧法執行運動〉が始まった。この運動は16世紀の末に,目標を達成しないまま下火になっていくが,それは運動の指導者自身が新興のマグナートとして,シュラフタの立場を離れていったからである。
新興マグナートの台頭は,リトアニアとの結び付きによって白ロシア地方やウクライナ地方に獲得することができた広大な領地のおかげであった。しかし,リトアニアと結び付くことで,ポーランドは新たな対外問題に直面することにもなった。すでに1525年,ルター主義の普及で崩壊の危機に瀕したドイツ騎士修道会を,ジグムント父王Zygmunt Stary(1467-1548)はプロイセン侯国としてその保護下に置いたが,61年にジグムント・アウグストZygmunt August(1520-72)は,同じ危機に直面した刀剣騎士修道会の旧領地の西半分をクールラント侯国としてその保護下に置くとともに,その東半分をポーランドに併合してしまった。この処置にロシアのイワン4世(雷帝)が反対し,以後およそ1世紀も続くことになるリボニア戦争が始まることになった。このロシアからの脅威に対抗するためには,もはや従来のような同君連合では不十分であった。69年にルブリンで開催されたセイムにおいて,ポーランドとリトアニアの統合が決定された(ルブリン合同)。
ところが〈旧法執行運動〉のよき協力者であり,またルブリン合同の積極的な推進者でもあったジグムント・アウグストが,子どもに恵まれないまま72年に死んだため,ポーランド王国は最初の空位期と最初のシュラフタ全員による国王選挙を経験することになった。73年にワルシャワで最初の国王選出セイムが召集され,バロア家のアンリ(ヘンリク・バレジHenryk Walezyのちのアンリ3世)が国王に選出された。しかしアンリは翌年フランス王位に就くために帰国してしまい,75年にあらためて国王選挙が実施され,トランシルバニア侯ステファン・バトーリStefan Batory(1533-86)が選出された。ジグムント・アウグストの妹アンナ・ヤギエロンカAnna Jagiellonkaとの結婚と,アンリが即位に際して認めた〈ヘンリク条約〉の再確認が即位の条件であった。財政改革と軍制改革(とくに有名なのがフサリアHusariaと呼ばれる重装騎兵軍の創設。また登録したコサックをポーランド軍に編入)によって強力な軍隊をつくり上げたバトーリは,その在位期間のほとんどを費やしたイワン4世との戦争(1576-82)に勝利してリボニアを確保することに成功した。しかし86年にバトーリが死去し,ポーランドは再び空位期を経験することになった。
次に国王に選ばれたのは,ジグムント・アウグストのもう一人の妹カタジナ・ヤギエロンカの子ジグムント・ワーザZygmunt Waza(1566-1632)であった。ワーザ王朝の始まりである。アンリ以来やつぎばやに変わってきた3人の国王の選出は,いずれもJ.ザモイスキをはじめ絶対主義を恐れる反ハプスブルク的なシュラフタたちの支持のおかげであった。ところがジグムントが目ざしたのは,絶対主義の導入と親ハプスブルク政策であった。しかもワーザ家は元来がスェーデンの王家(スウェーデンでの呼名はバーサ家Vasa)であり,父ヨハン3世(1537-92)が死ぬと,ジグムントはスウェーデン王位も継ぐこととなった。しかし熱心なカトリック教徒であったジグムントは,ルター派のスウェーデン貴族に嫌われ,叔父のカール9世(1550-1611)によってスウェーデン王位を追われてしまった(1599)。ジグムントの不寛容政策は,1573年に信仰の自由を決議したシュラフタにも不人気であった。1606年に起こったゼブジドフスキの反乱(ロコシュ)は,伝統的なシュラフタの特権を無視するジグムントのやり方に対して,シュラフタが起こした抗議行動であった。この反乱は2年後に両者の妥協で終わるが,おかげで国王の権威は大きく傷つくことになった。マグナートの台頭と相まって,ポーランドはしだいに国家としてのまとまりを失っていくことになる(マグナート寡頭制)。
〈大洪水〉
さらにポーランドの国内情勢を混乱させたのは,周辺国の大規模な侵略であった。ジグムントとの対立で自分を支持してくれたスウェーデン貴族に報いるため,カール9世は1601年にリボニアへの侵入を開始した。スウェーデン王位とリボニアをめぐるスウェーデンとの戦争は,60年のオリワの講和でヤン・カジミエシュJan Kazimierz(1648-68)が両者を最終的に諦めるまで断続的に続くことになる。とくに1655年に始まるカール10世グスタフ(1622-60)の侵略はほぼポーランド全土に及んだ。翌年になると,さらにスウェーデンと同盟を結んだプロイセン・ブランデンブルグ侯国(1618年に統合)が北方から攻め入り,また翌々年にはトランシルバニア侯のラーコーツィRákóczi György(1621-60)が南方から攻め入ってきた。そもそもスウェーデンが侵略を開始したのは,1648年にウクライナ地方でフミエルニツキBohdan Chmielnicki(フメリニツキー)を指導者として反乱を起こしたコサックたちをロシアがその保護下に置いてポーランドへの侵入を開始したからであり(1654),こうしてポーランドは外国人の〈大洪水Potop〉に見舞われることになった。
対外的危機に対応するために王権を強化しようとしたヤン・カジミエシュの試みも,シュラフタが再び起こしたルボミルスキJ.S.Lubomirskiの反乱(ロコシュ)で阻止されてしまった。1655-67年のことである。翌年ヤン・カジミエシュは退位して,フランスに向けポーランドを去っていった。4度目の空位期である。シュラフタはウクライナ地方に広大な領地をもつマグナート,ミハウ・コリブトMichał Korybut Wiśniowiecki(1640-73)とヤン・ソビエスキ(1629-96)をそれぞれ支持する二つのグループに分かれて対立した。
69年まず国王に選ばれたのはミハウ・コリブトであり,彼はフミエルニツキの反乱を引き起こす原因をつくったイェレミ・ビシニョビェツキJeremi Wiśniowiecki(1612-51)の子であった。しかし,ウクライナ地方へオスマン・トルコが侵入を開始した翌年にミハウ・コリブトが死に(1673),ソビエスキが国王に選ばれた。ソビエスキは83年にウィーンをトルコ軍の攻撃から守ったことで有名だが,トルコ問題への過度の介入はポーランドにとって不利な結果しかもたらさなかった。84年に結成された神聖同盟にポーランドも参加するが,カルロビツ条約でポーランドが得たものは何もなかった。のちにポーランドを分割することになる3国がこの条約によって大国の地位を確立したのに対し,かえってポーランドはオスマン・トルコと並ぶ〈ヨーロッパの病人〉におちぶれていくことになる。かつてシュラフタの政治的な台頭を支えたライ麦の輸出も,17世紀に入るとフランドル地方やイギリスの農業革命によりしだいに不振になっていった。
→ヤギエウォ朝
ヨーロッパの病人
1697年にウェッティン家のアウグスト2世(強力王)がポーランド国王に選ばれたのは,ひとえにロシアの支持があればこそであった。また北方戦争(1700-21)の最中にスウェーデン国王カール12世によって廃位されたあと再び復位できたのも,ピョートル大帝のおかげであった。1715年にポーランドでの発言権を強化するために強力王がザクセンから軍隊を導入すると,シュラフタはタルノグルト連合(コンフェデラツィア)を結成して強力王の廃位を要求した。この時もピュートル大帝が〈啞のセイム〉を開催して,シュラフタの特権擁護を条件に強力王を救っている(1717)。〈啞〉の名は〈リベルム・ベト(自由な拒否権)〉の行使によるセイムの機能停止を防ぐため,全議員に発言を禁じたところからきているが,それを強制したのは議場を取り囲んだロシア軍の銃口であった。こうしてロシアは,ポーランドを自らの一方的な影響力のもとに置いていくことになる。1734年にアウグスト3世がウェッティン家出身の2人目のポーランド国王として即位できたのも,ロシア軍のおかげであった。彼にはポーランド国王としての自覚もなく,ポーランド領内をロシア軍が自由に行き来しても,プロイセンが北部地方で勝手に課税したり偽造貨幣を大量に持ち込んだりしても,何の対抗手段もとろうとしなかった。もはやポーランド王国は名目だけの存在になってしまった。
中央政府が機能を失ったとき,それに代わって機能を果たしたのが,マグナートの支配する地方セイムである。ポーランドはマグナートが各地に割拠するアナーキーな状態に陥っていった。1764年にロシアのエカチェリナ2世の指示に従ってポーランド国王に選ばれたスタニスワフ・アウグストが改革を試みるが,所詮それが可能な範囲は限られていた。H.コウォンタイら下級シュラフタ出身の改革派およびチャルトリスキ一族など一部のマグナート以外には,彼が頼れる勢力はどこにも存在しなかったからである。むしろ,伝統的な特権を守るためには,ロシアの援助を要請することすらいとわないシュラフタの方が多かった。ポーランドは,周辺国がその気になれば,いつでも分割できる状態になっていたのである。早くからポーランド分割に積極的であったプロイセンは,オスマン・トルコとフランスへの対応に迫られたロシアとオーストリアの対立と苦境を利用して,ポーランド分割を実現していった。
独立運動の世紀
ポーランドにとって幸いなことに,ポーランド分割が行われた時期は,フランス革命の時期でもあった。三つの分割国を相手に戦うフランスは,ポーランドの独立運動にとって重要な切札たりえたのである。すでに1794年,T.コシチューシュコは蜂起を前に,フランスに援助を要請している。この時は援助は具体化しなかったが,1797年にはイタリアで,最初のポーランド人部隊がナポレオンの了解のもとにつくられており,その多大な犠牲のおかげで1807年にワルシャワ侯国が実現することになった(ティルジット条約)。しかしワルシャワ侯国はあくまでもナポレオンによってつくられたものであり,ナポレオンの敗北とともに消えていくべきものであった(侯国内の農奴解放を実現したナポレオン法典は残る)。このフランスに頼るという構想に対抗して,ロシアでは皇帝アレクサンドル1世を国王に頂くポーランド王国の再興という構想が,アデム・チャルトリスキによって提案されていた。この構想が15年にウィーン会議において実現することになる(会議王国Kongresówka)。
なおウィーン会議では,さらにクラクフ共和国(ロシア,プロセイン,オーストリアの共同管理下に置かれ,1846年のクラクフ蜂起のあとオーストリア領に併合)とポズナン大侯国(プロセイン王国内の自治領とされるが,1848年の蜂起のあと自治権を否認される)がワルシャワ侯国領からつくられている。チャルトリスキが起草した会議王国の憲法は,たいへん民主的なものであったが,ロシア皇帝はその規定を尊重しようとしなかった。そもそも憲法のすばらしさをたたえる演説をした最初のセイムでアレクサンドル1世は,憲法を無視して政府の予算案を提出しようとしなかったのである(1818)。ニコライ1世にいたっては,デカブリストとの接触ゆえに反逆罪に問われていた愛国者協会Towarzystwo patriotyczneのリーダーが,憲法の規定に従ってセイムで裁かれたとき,判決が軽すぎるとしてこれを無視し,彼らを勝手にシベリアに送ってしまった(1828)。基本的に十一月蜂起は,こうしたロシア皇帝の専制的なやり方に対して特権擁護のためにシュラフタが起こした蜂起であった。
この蜂起の結果,約1万人のポーランド人が西欧に亡命していった(大亡命)。この知的エリートの大移動により,独立運動の指令部はパリを中心とする西欧の諸都市に移されることになった。その活動の中心になったのがチャルトリスキをリーダーとするオテル・ランベール派(保守派。名はリーダーのチャルトリスキの宿舎にちなむ)と民主派を結集したポーランド民主協会である。保守派がもっぱら西欧列強の介入によって独立の達成を考えていたのに対し,民主派は農奴解放や農地解放によって農民を味方につけることで自ら独立を戦い取るべきだと主張した。
1846年のクラクフ蜂起は,民主協会の指令で起こされたものだが,当初に予定されていたロシア領とプロセイン領での同時蜂起は,当局の予防逮捕で不発に終わり,またクラクフの蜂起もガリツィア地方でオーストリア当局が扇動した農民暴動に妨げられて成功しなかった。この事件により農民の問題が単に理論にとどまらず,現実性をもつ切実な問題として受け取られることになる。〈諸国民〉が〈春〉を謳歌した1848年,ポーランド人の活発な動きがみられたのはプロセイン領だけであった。2年前に予定されていた蜂起の準備中に逮捕されて死刑の判決を受けていたミエロスワフスキLudwik Mierosławski(1814-78)がドイツ人民衆の熱狂的な歓迎を受ける一方で,すでにドイツの統一運動がポーランドの独立運動と必ずしも利害を共通にするものでないことが,フランクフルト国民議会で明らかになっている(ポズナン大侯国のドイツ併合を要求するドイツ人とこれに反対するポーランド人が対立)。なおプロイセン領とオーストリア領の農奴解放は1848年に実現している。
十一月蜂起後の弾圧で鳴りをひそめていたロシア領で新たな動きが始まるのは,ニコライ1世の死とクリミア戦争の敗北で,ロシアの支配体制に緩みがみえてきた55年のことである。その3年後には,進歩的な地主貴族を集めた農業協会の設立が許可され,61年にはクローネンベルクの主宰するワルシャワ市委員会の設立が許可された(いずれも一月蜂起のなかで穏健派を構成することになる勢力である。)。さらにワルシャワ中央学校の開設などで貢献するところが大きく,ポジティビズム運動の先駆者ともいうべきビエロポルスキAleksander Wielopolski(1803-77)の民政官就任などがロシア皇帝からの妥協策として示された。しかし,それがかえって過激派を勢いづかせることになって一月蜂起が勃発することになる。一月蜂起は十一月蜂起と違って〈地下組織〉による反乱であり,それだけに敗北後の弾圧策は峻烈をきわめた。
その反動として出てきたのが蜂起に批判的なポジティビズム運動である。シフィエントホフスキやプルスがその代表的な論客であった。ポジティビズム運動が影響力をもったのは70年代であり,80年代になると新しい形の独立運動が登場してきた。R.ドモフスキをリーダーとする国民民主党の展開したナショナリズム運動がそれだが,独立運動はポーランド社会党の重要な課題でもあった。新しい形の独立運動が登場してきた背景には,1871年のドイツ帝国の成立とその結果ドイツ領ポーランドで強まってきたドイツ化政策に対する危機感があった(ビスマルクの文化闘争など)。また新しい形の独立運動に活動の場を提供したのは,オーストリア領であった。1866年の普墺戦争で敗北したオーストリアは,その支配体制を維持するため,翌年ハンガリー人と〈妥協〉を図るとともに,旧ポーランド領のガリツィア地方にも大幅な自治権を認めた。そこでルブフ(リボフ)やクラクフは,かっこうの印刷所や集会場所を提供することになるのである。
こうした運動にとって大きな転機となったのは,1904-05年の第1次ロシア革命であった。それまで少数の知識人(その大部分はシュラフタの出身)の集まりにすぎなかった名ばかりの政党が,大衆化するのはこの時である。そのために一方で国民民主党のもとから農民組織が自立していくとともに(のちのポーランド農民党=解放派),他方でポーランド社会党を追われたJ.ピウスーツキのグループが彼らの支持を受けてオーストリア領で軍事訓練を展開することになる。なおロシア領におけるこうした農民運動のありかたに対して,自治を認められていたオーストリア領では議会選挙のために農民党が早くから結成され(1895。のちのポーランド農民党=ピアスト派),ドイツ人の経済的な支配力に対抗するために協同組合運動が盛んだったプロイセン領では,農民運動も協同組合運動の形をとっている。それ自身が,形を変えたナショナリズム運動であった。またプロイセン領に独特なものに,カトリシズムを組織の基盤にしたキリスト教民主党の結成がある(1902)。これも形を変えたナショナリズム運動であった。
第1次世界大戦と独立
七年戦争で危機に陥ったプロセインを救ったピョートル3世(1728-62)の即位(1762)以来,ロシアがプロセインと敵対関係に陥ったことは一度もなかった。その両国が第1次世界大戦で,およそ1世紀半ぶりに戦争を始めることになったのである。少なくとも両国の関係が敵対的なものにならない限り,ポーランドにとって独立のチャンスは存在しなかった。果たせるかな1914年8月14日にロシア軍最高司令官のニコライ・ニコラエビチは,漠然とした内容ながら,ポーランド人に独立を約束する声明を発表した。大攻勢を前に,少しでも多くポーランド人の協力を獲得したかったからである。また16年11月5日には,旧ロシア領ポーランドを占領したドイツのイニシアティブで,ドイツとオーストリアの両皇帝による声明が発表された。ポーランド人を同盟軍として動員するためには,形式的にでもポーランド政府をつくる必要があったからである。こうして摂政会議がつくられ,18年11月14日にピウスーツキはこの摂政会議から権限を引き継ぐことになる。
またロシアで二月革命が起こると,それまでポーランド問題をロシアの内政問題としていた協商国が,対ドイツ戦を有利に展開するために,ポーランドの独立問題に積極的な姿勢を示すようになった。1917年9月にはフランス,さらに10月にはイギリスがドモフスキやパデレフスキらのポーランド国民委員会をポーランドの在外機関として承認した。18年1月にはウィルソン大統領の〈14ヵ条〉が発表され,3月には協商国の独立に対する保障を獲得することができたのである。ただしピウスーツキが摂政会議から権限を引き継いだときのポーランドの状況は,かつての分割国の統治体制がことごとく革命によって崩壊した〈権力の真空状態〉といってよいものであった。本国の状況に関するかぎり,独立は勝ち取られたものではなく,転がり込んできたものであった。
執筆者:宮島 直機
独立の夢と現実
独立後のポーランド(第二共和国Druga Rzeczpospolita)は議会制民主主義の国として出発したが,しだいに権威主義体制へと傾斜した。
(1)1918-26年 混乱を伴いながらも基本的に議会制民主主義が維持された。1921年のいわゆる三月憲法はフランス第三共和政憲法を範として三権分立,二院制(ただし下院の方が強い),普通・直接・秘密・平等・比例選挙制などを定めていた。しかし,その理想主義は国境確定,国際的承認,国内的統合,社会改革といった困難な課題を抱えた新生国家の現実に必ずしもそぐわなかった。
複雑な地域,社会,民族構造を反映して無数の政党が誕生し,離合集散を繰り返した(最高時には議会に代表を送ったものだけで31党)。そのなかで大きな指導力を発揮したのは,社会党出身で幅広い支持基盤をもったJ.ピウスーツキと国民民主党の領袖R.ドモフスキである。ピウスーツキは宗教的に寛容な多民族連邦国家,反ロシア親ドイツ外交を構想し,ドモフスキはカトリックを国教とする中央集権的単一民族国家,反ドイツ親ロシア外交を唱えた。
政争において一歩先んじたのは,ポーランド軍指導者としての声望を背景に初代国家主席となったピウスーツキであった。ドモフスキはポーランド国民委員会議長として協商国の承認を得,パリ講和会議で活躍したが,当初国内での足がかりをもたなかった。しかし,選挙での国民民主党の成功によってしだいにその影響力を高めた。パデレフスキ以後の歴代内閣は直接間接に国民民主党の影響下に置かれた。憲法の制定に際しては,ピウスーツキの独裁を恐れた国民民主党の圧力で大統領の権限が削られ,議会の地位が強化された。この結果,政府は不安定な議会多数派に依存することとなり,しばしば行動不能に陥った。1922年初代大統領に選ばれたナルトビチGabriel Narutowicz(1865-1922)はその年の12月に暗殺され,ボイチェホフスキStanisław Wojciechowski(1869-1953)が後を継いだ。
国境問題は隣接国家との激しい緊張を引き起こした。ピウスーツキはこれを西方では住民投票あるいは住民蜂起によって,東方では戦争によって解決しようとした。ポーランド・ソビエト戦争はこうした背景において起こった。戦争は中途半端な形で終わり,ポーランドは連邦制をとることも単一民族国家となることもできなくなった。うちには小数民族の不満,外には隣国,とくにドイツ,ソビエトの敵意が残った。新生国家は当面親イギリス・フランス外交によってこの危険に対処しようとした。
それまでロシア,ドイツ,オーストリアの経済に組み込まれ,相互の有機的つながりを欠いていた三つの地域をひとまとめにするのは容易なことではなかった。加えて国土は戦争で荒廃しきっており,独立後深刻なインフレーション,失業問題に見舞われた。ようやく25年の通貨改革によって経済の統合と安定が緒につくかと思われたが,相前後してドイツとの関税戦争が起こり,その効果の多くが失われた。農地改革はとりわけ貧富の差のはなはだしかった東部地方において焦眉の課題であったが,大土地所有者の抵抗によってほとんど実効をあげなかった。
(2)1926-35年 議会制民主主義の外見が維持されながら権威主義体制が定着した。ピウスーツキは26年5月クーデタを敢行し,国政の実権を握った。政府側の抵抗は予想外に強く,鉄道労働者の支持ストがなければクーデタは失敗しただろうといわれる。このためピウスーツキは急激な改革を避け,大統領権限の強化など最小限の憲法修正を行っただけで,もっぱら既存の政府機構を通じて支配しようとした。また自ら大統領にならず,短い期間を除いて,政府責任を負うことも回避した。その支配は正常なものでなく,ピウスーツキの個人的権威に依存していた。
ピウスーツキは既成政党を嫌い,大統領モシチツキIgnacy Mościcki(1867-1946)や首相バルテルKazimierz Bartelのような専門官僚,首相スワベクWalery Sławekのような軍団以来の側近(いわゆる〈大佐グループ〉)を重用した。議会選挙に対応するため〈政府翼賛無政党ブロック〉という政治組織がつくられたが,〈サナツィヤsanacja(浄化)〉というあいまいな標語とピウスーツキへの個人的忠誠以外に政綱を欠いていた。30年以降体制はしだいに抑圧的となり,選挙干渉が公然となった。反抗的野党政治家はブジェシチBrześć(現,ソ連領ブレスト)の強制収容所に送られた。
経済的にこの期前半はイギリスの炭鉱ストに助けられて石炭の輸出景気を味わったが,後半は世界大恐慌に直撃されて国民所得が1929-33年に25%も下落し,失業率が33-35年に40%に達するなど悲惨な状態となった。農産物価格の下落によって農民の窮乏化がいっそう進んだ。農地改革は農民の土地購買力減退によってむしろ遅滞気味となった。外交政策はピウスーツキの晩年に劇的な転換を遂げた。ポーランドはそれまでの親イギリス・フランス政策を捨て,ナチス・ドイツとの間に1934年1月不可侵条約を結んだ。
(3)1935-39年 権威主義体制が公然となったが,同時にそのほころびも露呈されるに至った。35年のいわゆる四月憲法はピウスーツキ体制を成文化したものであったが,肝心のピウスーツキの死去によって大きな空白を生じた。後継者はもはやその空白を埋めることができなかった。支配グループは専門官僚派,側近派,さらにファッショ的なグループとに分かれて争ったが,彼ら自身の国民からの疎外がしだいに目だち始めた。政府は選挙法を改正して野党候補者の締出しを図ったが,逆に大量の選挙ボイコットを招く始末であった。社会党,農民党などの動きが活発化し,急進化する一方で,労働者,農民のストが各地に頻発した。他方でようやくこの時期に官僚機構が充実し,国家資本主義的方法による不況の克服と急速な工業化が企てられたことは注目に値する。しかし,そうした努力が実を結ぶ前に外交政策が破綻をきたし,39年のドイツ,ソ連の進入,国家の崩壊を招くことになる。
占領と抵抗
戦争勃発とともに,1939年7月国土はドイツとソ連に折半された(1941年6月,独ソ開戦後はドイツ単独の占領下に置かれた)。国外には亡命政府,軍が形成され,国内にもこれと連絡をとる地下政府,軍の機構がつくられた。
ソ連占領地域(国土面積の51.7%,総人口の38.4%)はウクライナ人や白ロシア人(ベロルシア人)が多く居住する地方で,形式的な住民投票ののちソ連に併合されてしまう(ビリニュス(ポーランド名はビルノ)地方のみはさしあたりリトアニアへ)。ポーランド系住民中,約150万がソ連の辺境に流刑となり,その半数が悪条件で死亡した。
ドイツ占領地域は併合地域と〈総督府(植民地)〉とに分かたれた。独ソ開戦後加わった地方はさまざまな植民地行政機関の間で分割された。占領当局は経済的に搾取するだけでなく,知識人を根絶することによってポーランド人の民族性を剝奪しようとした。ナチスの人種イデオロギーはとりわけユダヤ系市民を直撃した。600万にのぼる占領政策の犠牲者のうち半数はユダヤ系であった。
亡命政府はかつてピウスーツキの政敵だった軍人シコルスキWładysław Sikorski(1881-1943)を首相とし,戦前,野党の立場にあった諸党の協力を得てパリで旗揚げし,のちにロンドンに移った。それは直ちに西側連合国の承認を得,独ソ開戦後ソ連の承認をも得た。国内にはよく機能する地下政府機構と最盛時35万の地下軍(〈国内軍〉),また西部戦線に20万の亡命軍を維持した。しかし,領土問題をめぐってソ連との関係が悪化し,カティン事件を契機として国交が断絶するに及んで,その外交的基盤は弱まり,ワルシャワ蜂起の敗北によって国内的基盤が弱められた。他方ソ連は労働者党(共産党)の党員を中心としてポーランド愛国者同盟,国内国民評議会を発足させ,ソ連軍によって解放された地方にポーランド国民解放委員会を樹立して戦後政権の準備を行った。
社会主義政権の下で
戦後ほぼ一貫して人民民主主義の名における共産党の一党支配--単に政治の領域だけでなく,少なくとも支配政党の抱負においては社会生活の全領域にわたる--が維持されている。ただ時期によって共産党の支配の及び方,またあり方に顕著な変化がみられる。
(1)1944-48年 三月憲法の復活から出発したが,初めからソ連軍の存在によって共産党の優越的地位が保障されており,しだいにその独裁へと進んだ。国民解放委員会はやがて臨時政府と名のり,次いでヤルタ協定に基づいて一部亡命政府指導者を加えて挙国一致臨時政府に改組された。政府内では労働者党の党員およびその影響下にある者が治安相のような枢要ポストを掌握した。しかし,政府外では労働者党の力はなお弱く,農民党,社会党のような独立政党や武装抵抗運動(〈森の人ludzi z lasu〉)が存在した。反政府ゲリラの掃討は2年を要した。1947年1月労働者党は合法政党の反対を封じ,衛星政党化するために単一候補者名簿方式の選挙を強行する。これに反対した政党指導者は警察的手段によって排除され,統一リストへの参加を拒んだ元亡命政府の首相ミコワイチクStanisław Mikołajczyk(1901-66)の率いるポーランド農民党は厳しい迫害にさらされた。
戦争によってポーランドはカーゾン線以東の18万km2を失ったが,西方においてドイツから10万km2を得た(差引20%の領土減)。領土の異動は内政面で少数民族問題の消失のような好結果をもたらした。また獲得した領土は失った領土よりも経済的により豊かで進んでいたので,経済面でもプラスであった。私企業の自由はなお認められていたが,比較的急テンポの国有化がさほどの抵抗に遭うことなく進んだ。急進的な農地改革が実施されたが,集団化への圧力,無理押しはなお存在しなかった。ドイツを犠牲にしての西進はおのずからその永続的敵意を予見させ,ソ連への宿命的な外交的依存を結果した。しかし,戦後第1期にはポーランドはなお一定の外交的自由を有し,西側諸国と経済・文化面で活発に交流している。
(2)1948-56年 共産党の全面的な独裁が確立し,社会・経済体制の改造が急激に進んだ。まず諸政党の強制的画一化が実施された。社会党は1948年12月に労働者党に吸収されて統一労働者党(共産党)となり,ポーランド農民党は共産党の衛星政党であった農民党に吸収されて統一農民党となった。統一労働者党内では民族主義的偏向批判が盛んとなり,書記長ゴムルカ(正しくはゴムウカ)をはじめとして戦争中国内で戦った党活動家の多くが追放された。変わって全権を握ったのは中央委員会議長ビエルトBolesław Bierut(1892-1956)を先頭とするモスクワ亡命派である。52年7月に人民民主主義憲法が採択されたが,内実はソ連の体制の引写しで,イデオロギー的にもほとんど差がなくなっていた。
1940年代末に自給自足モデルに基づいた重工業中心の野心的な工業化計画が採択された。その強行によって確かに短期間に工業化の基本的課題が達成されたが,国民の消費生活が犠牲となり,国民経済に大きな歪みが生じた。農業集団化政策も採られたが,農民の抵抗が強く,あまり進展しなかった。貿易はマーシャル・プラン拒否(1947)以降,完全に東寄りとなった。軍事的には49年にソ連の軍人が国防相に就任し,55年にワルシャワ条約機構に加盟するなど東側への人的組織的統合が進んだ。
(3)1956-70年 共産党支配がとくにイデオロギー面で弛緩し,若干の外交的自由が回復された。ソ連共産党第20回大会でのスターリン批判とポズナン暴動の衝撃は統一労働者党の支配を大きく揺るがした。56年10月,党第一書記に返り咲いたゴムルカは一連の改革を実施した(〈十月の春〉)。内政面では統一労働者党の指導的役割(独裁権)が堅持されたものの,選挙民に若干の選択の幅が与えられ,カトリック教会や知識人の団体にはかなりの自治が認められた。ソ連との不平等関係は大いに是正され,ラパツキ案(A.ラパツキ)のような独自の外交的イニシアティプが許されるようになった。経済面では消費財生産の重視,農業,小売業,手工業における小経営の振興が図られたが,思いきった経済改革は見送られた。
ゴムルカの政治指導は晩年しだいに権威主義的,抑圧的となった。いわゆるパルチザン派が台頭し,68年3月学生デモを契機として大規模なユダヤ人排斥運動が起こった(〈三月事件〉)。経済は改革の機を逸し,停滞気味となった。外交面で70年12月に西ドイツとの国交が正常化され,宿年の領土問題が解決されるというプラスがあったものの,同じ月に食糧品値上げに反対するバルト海沿岸都市労働者の暴動が起こり(〈十二月事件〉),その余波でゴムルカ政権は崩壊した。
(4)1970-80年 70年代は対外開放政策と反体制派の活動黙認を特徴とするが,制度の根幹にはなんら手が触れられなかった。ゴムルカの後を襲ったギエレクは次々と競争者を排除し,同郷出身の側近(〈シロンスク・マフィアMafia Śląska〉)で党指導部を固めた。また政治色のないテクノクラート(専門官僚)を好んで登用した。76年に党の指導的役割とソ連との友好をうたった新憲法が採択されたが,戦後30年の現実追認以上の意味をもたなかった。
ギエレクは経済改革抜きで,大量の外資を導入して高度成長を実現しようとした。これはテクノクラートと大衆から歓迎され,70年代前半のデタント(緊張緩和),余剰オイルダラー,ソ連のエネルギー・原材料低価格政策に助けられて成功するかにみえたが,70年代後半になって矛盾が表面化した。76年6月に再び食糧品値上げに反対する労働者の抗議行動が起こり,それに続いて社会自衛委員会(KOR)をはじめとする知識人の反体制的な運動が活発となった。
(5)1980年以後 自由労組運動の勃興と軍政の出現によって共産党の独裁体制が崩れ始めた。1980年8月労働者の抗議ストが全土を覆い,政府は譲歩を迫られた。スト労働者との間に結ばれたグダンスク協定は国家と社会の二元体制,すなわち一方における党の指導的役割と,他方における労組活動の自由を定めており,以後15ヵ月間擬似憲法的役割を果たした。これに基づき設定された自主独立労働組合〈連帯〉Niezależny i Samorządny Związek Zawodowy“Solidarność”(略称NSZZ “Solidar-ność”)はたちまちのうちに950万の組合員を獲得し(委員長ワレサLech Wałęsa,1943- ),農民組合,学生連合,その他の自立的社会組織の成立を促した。他方,党側も第一書記のカニアStanisław Kania(1927- )を中心として党内自由選挙を実施するなど,体制刷新に努めたが,新しい状況に対応しえなかった。この結果権力の空白状態が生じ,81年12月すでに首相,党第一書記を兼任していた国防相ヤルゼルスキWojciech Jaruzelski(1923- )による戒厳令布告となった。ヤルゼルスキは自立的な社会勢力を厳しく弾圧したが,他方で党,政府の要職に軍出身者を配し,戒厳令解除(1982年12月31日)後も事実上の軍支配を維持している。
経済は破局的状況にあり,10年間の成長が帳消しとなった。巨額の累積外債のため対外的にも破産状態にある。このためヤルゼルスキ政権は改革を一枚看板にしているものの,社会・経済政策において臆病となりがちである。投資,賃金,価格政策はなかなか自由化されず,かえって統制色が強まっている。官製の社会組織の再建が思うようにはかどらず,カトリック教会の発言権が高まる傾向にある。外交的には一時極度に孤立し,ソ連への依存を深めたが,対西側関係改善の努力が徐々に実を結びつつあるようにみえる。
執筆者:伊東 孝之
社会
市場経済の導入によって急速に貧富の差が拡大し,深刻な問題が生じている。これには社会政策の充実によって対応すべきであるが,制度の不備が目立っている。社会主義時代の社会保障制度は十分とはいえず,個人農にその恩恵が及んだのはようやく70年代に入ってからであった。また国家予算によって担保されたもので,市場経済には適合しなかった。体制移行後,どの基金も財政困難に陥り,失業保険,医療保険,生活保護などの給付は低水準にとどまっている。年金制度だけは政府の努力によって維持されているが,これが財政赤字の主因となっている。
活発な社会団体の活動がある。社会主義時代には〈大衆組織〉と位置づけられた官許の社会団体とカトリック教会や〈連帯〉労組のような独立の団体とが並存していた。変動後,後者が活気づくかと思われたが,意外にも前者が健闘している。たとえば,かつての官許労組,全国労組協議会(OPZZ)は今日470万の組合員を誇るのに対し,〈連帯〉労組はわずかに150万を擁しているに過ぎない。これはヤルゼルスキ時代に官許組織が成員の利害を代表する自由を与えられたのに対し,反政府的な団体が政治運動に走ったためである。同じことはカトリック教会にも妥当し,変動後,カトリック教会の影響力が目だって衰えている。とはいえ,どの団体も変動後の政治に小さからぬ影響を及ぼしている。
深刻な社会問題が国外移民を促している。このため移民を通じての国際的なつながりが強い。19世紀半ばから1920年代までに何百万という移民をアメリカ,ドイツ,フランス,ベルギー,オーストラリアなどに送り出した。その波は第2次大戦前後を除きしばらく途絶えていたが,70年代に出国規制が緩和されると再び国外移住熱が高まり,以後毎年平均2万数千人を送り出している。それは89年の変動後も大きく変わっていない。移住者に教育程度の高い層が多いのが近年の特徴である。
社会主義時代に経済成長が優先された結果,環境条件が極度に悪化した。とくに石炭・鉄鋼産業が集中している高地シロンスク,マウォポルスカ地方では,煤塵公害で癌を含む呼吸器障害患者が著増した。ドイツとの国境沿いでは酸性雨で枯死する森林が目だった。河川汚染が全国に広がり,しばしば飲料水さえ汚染された。変動後,工業生産が後退し,そのぶん公害も目だたなくなっている。他方,政府はEU加盟に備えて環境基準を西欧並みに高めようと努力している。
平均余命は先進国に比べて低く,近年になっても格差は縮まっていない。男は75-76年に67.3歳,女は75.0歳に達したが,その後低迷を続けた。ようやく変動後しばらくしてから再び伸びはじめ,95年に男67.6歳,女76.4歳に達したがなお高いとはいえない。この間,乳幼児死亡率は低下しているので,成人死亡率の高まりが低迷の主原因と思われる。
住宅の平均面積は88年末に59.1m2,1人当り17.1m2。改善されてきてはいるがなお苦しい。住宅建設は共産党時代,国家の責任だったが,変動後私人の責任となった。住宅価格が高騰し,庶民には入手しづらくなっている。
教育
教育は社会主義時代すべて無償であったが,変動後は義務教育が無償,それ以外は有償となっている。初等8,中等4,高等5年制をとっており,義務的なのは初等教育。中等教育はフランスのリセにならった4年制普通科学校と5年制職業学校とに分かれている。変動後,初等,中等学校における宗教教育が全面的に復活した。90年に小学校で宗教の授業を受けている生徒は95.8%,中等学校(日本の高校)で90.1%に達した。公教育へのカトリック教会の行き過ぎた介入には反省が起きている。一般に70年代半ばをピークとして中等学校以上の就学者が減る傾向にあった。1975年に同年齢人口のうちの普通科中等学校(高校)生の割合は24.5%,大学生の割合は13.5%であったが,1985年にそれぞれ19.0%,10.6%に落ちた(人口1000人当りの普通科中等学校生(高校生)は1975年の18.2人から1985年の10.3人へ,また大学生は1976年の14.2人から1985年の9.1人へ)。しかし,この傾向は変動後に歯止めがかかり,高校生,大学生の数が微増している。ただし,中等教育以上における労働者農民の子弟の減少傾向は社会主義時代から依然として続いている。
マスコミ
マスコミは変動後大きく変貌した。新聞雑誌は政党系,〈大衆組織〉系のものが激減し,代わって情報,娯楽,趣味中心のものが増えた。紙の質や印刷技術が向上し,レイアウトも西側諸国とほとんど変わらなくなった。購読料が高騰し,定期購読者の数が激減した。広告収入への依存度が高まり,大衆紙では3行広告が紙面の半分以上を占めるようになった。外資の進出がめざましく,世論が外資によってコントロールされる恐れが出てきた。テレビやラジオにも同様の傾向が現れている。テレビはユーロビジョンとの接続によって事実上EU加盟を先取りしている。
執筆者:伊東 孝之
日本との関係
古くは,フビライ・ハーンが北条時宗にあてた国書の中にポーランド征服について触れた個所があったという記録があり,またポーランド人宣教師メンチンスキ(1598-1643)が長崎で殉教している。さらに18世紀後半にバール連合(ポーランド王スタニスワフ・アウグストとロシア皇帝の支配に反対する貴族たちの同盟)に参加してカムチャツカ半島に流され,そこから船を奪って逃れる途中,長崎のオランダ商館あてにロシアの南下を警告する書簡を送ったというベニョフスキの記録などが知られている。しかし,これらはいずれもエピソードの域を出ず,日本とポーランドの関係という点からみれば,ほとんど意味をもたない。
日本人にとって,ポーランドが意味をもつ国として登場してくるのは,明治維新以後のことである。何よりもまずポーランドは他山の石とすべき悲劇の国と考えられた。コシチューシュコが登場する東海散士の《佳人之奇遇》(1885)や福島安正中佐のユーラシア大陸単独横断をたたえて落合直文が作った長編詩《騎馬旅行》(1893)の一部〈波蘭懐古〉(のちに軍歌として愛唱される)にそれをうかがうことができる。
またこの国は,ノーベル物理学賞(1903)と化学賞(1911)の受賞者キュリー夫人,ノーベル文学賞(1905)の受賞者シェンキエビチの国としても知られている。この面では,ポーランドは,日本が模範とすべきヨーロッパ文化の一端を担う国としてとらえられているわけであるが,このイメージをつくり上げるうえで大きく貢献している人物として,ほかにコペルニクスとショパンがいる。もっとも,この2人に関しては,ポーランド人であるかどうかの判断がむずかしい。そもそもコペルニクスは民族への帰属が問題になる以前の時代を生きた人物であり(ドイツではコペルニクスはドイツ人だとされている),またショパンもどこまで自分をポーランド人だと考えていたか疑問だからである。
日本とポーランドの政治的な関係は,第1次世界大戦後にポーランドが独立してから初めて公式なものになるが,すでに日露戦争のときに日本の援助を求めるJ.ピウスーツキと,これに反対するドモフスキが日本を訪れている。彼らが戦間期のポーランドで果たした大きな役割から,この2人の訪日がポーランド人の対日イメージ(ロシアに対する戦勝国)を定着させるうえで貢献するところは大きかった。また同じころ,ユゼフの兄B.ピウスーツキとB.シェロシェフスキがアイヌ研究のためにサハリン,北海道を訪れているが,このアイヌ研究を通じてつくり上げられたポーランド人の対日イメージ(文明の光をあまり浴びていない極東の一国)も見のがせない。そして現在ポーランド人の間で見られる対日イメージは,日露戦争まで西欧を通じてつくり上げられていた極東のエキゾティックな国というイメージ(その具体的な成果がクラクフの国立博物館に現在も残っている浮世絵,刀の鍔(つば),根付などのヤシェンスキ・コレクション。〈ポーランド美術〉の項目参照)と,さらに最近やはり西欧を通じてつくり上げられた先進工業国というイメージに,すでに述べた〈戦勝国〉イメージと〈非文明〉イメージを積み重ねたものと考えればよい。
なお公式の政治的な関係はつぎのような経過をたどっている。1921年公使館の相互設置(1937年に大使館に昇格)に始まる。つづいて翌22年通商航海条約の締結を経て,39年在ワルシャワ日本大使館は閉鎖された(在日ポーランド大使館の閉鎖は1941年。なお同年にポーランドは日本に宣戦布告)。第2次大戦後は57年に国交回復と大使館の相互設置が行われた。経済面では60年代から日本の商社の進出がなされているが,概して両国の関係は活気に乏しい。文化面では,60年代末ころからポーランド文学の日本への紹介が本格化し,現代作家の作品の翻訳も増えている。また,ポーランド映画は日本でも根強いファンを獲得しており,演劇などの交流も盛んである。さらに近年は,政治,経済,歴史,言語などの分野でも日本のポーランド研究は大きく前進している。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報