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ポーランド ポーランド Poland

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ポーランド
ポーランド
Poland

正式名称 ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska 。面積 31万2679km2。人口 3821万6000(2011推計)。首都 ワルシャワ。中央ヨーロッパ東部,バルト海に面する国。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ポーランド

第2次大戦後にソ連圏に組み込まれたが80年代から自主管理労組「連帯」(ワレサ議長)などによる民主化運動が活発になり、89年9月に社会主義圏初の非共産政権が発足。「欧州への回帰」を目標に掲げ、99年3月に北大西洋条約機構(NATO)に、04年5月に欧州連合(EU)に加盟。05年9月の下院選ではEU内最悪の失業率対策が争点になり、左派与党が敗北、「法と正義」など中道右派政党が勝利した。同10月の大統領選でも同党のカチンスキ・ワルシャワ市長が当選した。

(2006-07-12 朝日新聞 朝刊 1外報)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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百科事典マイペディアの解説

ポーランド

◎正式名称−ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska/Republic of Poland。◎面積−31万2685km2。◎人口−3851万人(2011)。
→関連項目トルン

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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デジタル大辞泉プラスの解説

ポーランド

ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーの交響曲第3番(1875)。名称は第5楽章がポーランドの舞曲のリズムを用いていることに由来する。

出典|小学館
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世界大百科事典 第2版の解説

ポーランド【Poland】

正式名称=ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska∥Republic of Poland面積=31万2677km2人口(1996)=3873万人首都=ワルシャワWarszawa(日本との時差=-8時間)主要言語=ポーランド語(公用語)通貨=ズウォティZłoty東ヨーロッパの北部にあり,バルト海に臨む共和国。国土の面積は九州と四国を除いた日本のそれにほぼ等しい。東と西を強国に挟まれたこの国の歴史は,まさに興亡の繰り返しであったが,ポーランドの人びとはその中でコペルニクスミツキエビチショパンザメンホフボードゥアン・ド・クルトネマリーキュリー,そして現代のワイダらに至る個性的な文化を創造してきたのであった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ポーランド
ぽーらんど
Republic of Poland英語
Rzeczpospolita Polskaポーランド語

ヨーロッパ中央部にある共和国。北はバルト海とロシアカリーニングラード州)に臨み、西はドイツ、南はチェコスロバキア、東はリトアニアウクライナベラルーシに囲まれる。ポーランド語ではポルスカといい、「ポーランド」Polandは英語名。正称ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska。「ポーランド」(ポルスカ)とは、本来、畑または森の中の草地の意であり、国名は「平原の国」を意味する。面積31万2685平方キロメートル、人口3823万0080(2002年センサス)、3813万2000(2006年推計)。首都はワルシャワ(人口167万1700、2002)。
 第二次世界大戦後は人民民主主義を経て社会主義政権が確立し、ソ連を中心とする社会主義陣営の一翼を担ってきたが、1989年、限定的自由選挙の結果、社会主義圏で初の非共産党勢力の政権が誕生し、その後の自由主義政治体制への道を開いた。古くからロシア民族とドイツ民族の中間の地に国家を建設してきた歴史をもち、その地政学的位置から、建国以来、複雑な係争と独立の舞台となってきた。西スラブ民族に属するポーランド人が国民の97%を占めており、キリスト教受容の歴史も古く、文化的には西ヨーロッパとの結び付きが強いキリスト教文化圏にある。
 国旗は白と赤の2色からなり、1919年に公式に制定された。国歌「ドンブロフスキのマズルカ」は、『軍隊の歌』ともよばれ18世紀末から歌われていたが、1926年に国会で正式に制定された。[山本 茂]

自然


地形・地質
国土は、大きくみると広大なヨーロッパ大陸の北縁にあたる低平な卓状地の一部である。この卓状地は中生代や古生代の地層からなり、新生代第四紀の氷河期まではスカンジナビア半島から張り出してきた大陸氷河に覆われていた。氷河は、最盛期には南部のカルパティア山脈やスデティ山脈の山麓(さんろく)に及んでいた。国土の90%以上が平野で、標高200メートル以下の低地が75%にも及ぶ。山地は南部にあり、スデティ山脈が南西部国境を形づくり、カルパティア山脈が南部および南東部の国境となっている。最高峰はカルパティア山脈を構成するタトラ山脈中のリシRysy山(2499メートル)で、スロバキアとの国境上にある。チェコとの国境にあるスデティ山脈はヘルシニア期の複雑な地殻運動を経験し、南東部のカルパティア山脈はアルプス造山運動の一部を担う。これらの輻輳(ふくそう)する地質変動の結果、ポーランドは石炭、褐炭、天然ガス、鉄鉱石、銅、鉛・亜鉛、岩塩などの鉱産資源に恵まれることとなった。
 北部のバルト海沿岸の海岸平野では、海岸は砂浜で、砂丘や砂州、ラグーン(潟湖(せきこ))などが発達している。海岸平野の背後には、ときには標高200~300メートルにも及ぶ氷河性のモレーン(堆石(たいせき))丘陵が、東西方向にいくつもの層をなして並走しており、その間に大小無数の湖沼群が散在する。とりわけ、北西部のポメラニア地方や北東部のマズーリ地方を中心に、国全体で9000を超える湖沼群があり、氷河性の凹地を埋めている。後氷期の典型的な自然景観である。最大の湖沼はバルミニスコ・マズーリ県にあるシュニアルドビー湖とマムリ湖である。中部の広大な地域を占めるのは、北ヨーロッパ平野の一部をなすポーランド平野である。その大部分は平坦(へいたん)な構造平野で、その表土はおもに完新世(沖積世)の氷河堆積物で覆われている。ビスワ川(1047キロメートル)、オドラ川(オーデル川)(742キロメートル)、バルタ川(808キロメートル)、ブク川(587キロメートル)などの河川(括弧(かっこ)内の数字はポーランド国内の長さ)とその支流がビエルコポルスカ、マゾビエツカ、ポドラジェなどの平野を北流し、末端モレーン丘を横断してバルト海に注いでいる。[山本 茂]
気候
比較的温和で湿潤な海洋性気候と、寒暖の較差の大きな大陸性気候との漸移地帯にあり、東方に進むにつれてより大陸性の気候が濃厚となる。1月の平均気温は、バルト海沿岸や西部地域で零下1℃、中部地域で零下3℃、山地で零下6℃である。ポーランド平野を南に行くにしたがって気温は徐々に低下する。夏にはこれとは逆に、バルト海沿岸やポメラニア、マズーリのモレーン地域でもっとも低い。7月の平均気温は、前記各地域の順に16~17℃、18~19℃、10~14℃である。年降水量は平野部で500~600ミリメートル程度、丘陵地で600~700ミリメートル、高地では800~1200ミリメートルになる。タトラ山脈では1800ミリメートルにも達する。[山本 茂]
生物相
農用地が国土面積の約60%を占め、森林面積は29.7%を占めている(2000)。北部や東部には針葉樹林が多く、もっとも著名な大森林地域はビアウォビエジャとアウグストフの森林である。山岳地帯にはマツやモミなどの球果類が多くみられる。しかし国土の大部分、とりわけ西部・南部や中央部には広葉樹と針葉樹の混交林が多く、ブナ、カシ、マツ、スギ、モミなどがみられる。西方のドイツからポーランドにかけての林相は、おおむね連続的である。動物相も林相の連続性に対応してほぼ連続的である。[山本 茂]

地誌


 ポーランドでは、ビエルコポルスカ地方、シロンスク(シュレージエン)地方、ポモジェ(ポメラニア)地方、マズーリ地方などの、長い歴史の検証を経た慣用的な地方名が用いられている。以下、これらの地方単位を踏まえた八つの地域区分(大経済地域という)に従って解説する。
 また、ポーランドは行政区画として、1975年以降全国を49の県に分けていた。しかし、1996~1997年の中央省庁再編・行政機構改革に伴い地方行政改革が行われ、1999年(法律可決は1998年)から全国を16県(ウージ県、オポーレ県、クヤフスコ・ポモジェ県、ザホドニオポモジェ県、シフィエントクジ県、シロンスク県、ドルノシロンスク県、バルミニスコ・マズーリ県、ビエルコポルスカ県、ポドカルパティ県、ポドラジェ県、ポモジェ県、マウォポルスカ県、マゾフシェ県、ルブスコ県、ルブリン県)に改編し、地方自治を拡大する方向となった。[山本 茂]
中央地域
マゾフシェ県、ウージ県が中心。ポーランドの政治、経済、社会、文化の中心地ワルシャワと総合繊維工業都市ウージを中核としている。ワルシャワはポーランド最大の総合機械工業地で、自動車、電気機械、印刷、化学工業がある。[山本 茂]
中西部地域
ビエルコポルスカ県、クヤフスコ・ポモジェ県が中心。ビエルコポルスカ平野の集約的な農業が特徴的で、歴史的にも早くから豊かな農業地帯であった。比較的規模の大きい富裕な個人経営が中心で、ポズナニ、トルニ、ビドゴシュチ、カリシュなどの地方都市は農産物の集散地として発展した。ポズナニには古くからの総合機械工業のコンビナートがあり、発電(コニン)、化学(イノブロツワフ、ビドゴシュチ、トルニ)、ゴム、食品加工などの工業が全域に広く分布している。[山本 茂]
南部地域
シロンスク県、オポーレ県が中心。ポーランド最大の重化学工業の中心は、カトビーツェ、ザブジェ、グリビーツェ、ソスノビエツなどの工業都市群が集中する上シロンスク工業地帯である。この地域には、豊富な石炭や鉛・亜鉛など、恵まれた鉱産資源を基礎に金属・各種機械工業、化学工業が発達している。地域経済の発展ももっとも高い水準にある。[山本 茂]
南西部地域
ドルノシロンスク県、ルブスコ県が中心。この地域は、第二次世界大戦後にドイツから得たいわゆる「回復したポーランド領」で、高い工業発展とともに集約的な農業が行われている。オーデル川左岸の肥沃(ひよく)な土壌、温暖な気候、長い作物生育期間に恵まれている。住民の多くは、戦後広く全国から、また東方のソ連に割譲した地域から移住した。多くは農業改革によって土地を得て農民となり、国営農場の比重も他の地域より高かったが、1989年の東欧革命以降は個人農の育成が進められている。また、石炭、褐炭、銅鉱石、ニッケルを産し、機械、化学、銅などの工業のほか、食品加工、繊維工業などの伝統工業が盛んである。スデティ山脈は保養地として知られる。[山本 茂]
北部地域
ポモジェ県、ザホドニオポモジェ県が中心。北部の「回復したポーランド領」で、グダニスク、グディニア、シュチェチンはポーランドを代表する海港都市である。造船業の中心であるほか、バルト海に沿って多くの保養地がある。農業は市場指向的な国営農場が卓越していたが、1989年以降は個人農中心の農業に移行しつつある。[山本 茂]
南東部地域
マウォポルスカ県、ポドカルパティ県が中心。クラクフは長くポーランドの首都が置かれた、古い文化と学術・芸術の中心地である。南東部は農業地域で、第二次世界大戦後、天然ガスや硫黄(いおう)の採掘が進み、化学肥料、セメント、機械などの新しい工業が発展した。南部国境のカルパティア山脈は年間を通した保養地で、ザコパネなどの観光都市が発展している。[山本 茂]
中東部地域
ルブリン県が中心。一般にビスワ川以東の地は工業発展の遅れた低開発地域で、農業地域である。なかでもルブリンを中心とする中東部はその典型である。[山本 茂]
北東部地域
ポドラジェ県が中心。経済発展水準が相対的に低い農業地域で、深刻な戦禍、工業の欠如、厳しい自然条件(不毛な土壌、寒冷多湿な気候)のため、農家の経営基盤は弱く、農業の集約化が求められている。繊維工業、製材業が盛んである。[山本 茂]

略史


 9~10世紀にドイツ人の東方進出に触発されて国家形成を行ったポーランドは、絶えず西欧文明の影響を受け、15~16世紀にはヤギェウォ朝のもとで社会的・文化的繁栄の時代を迎え、ヨーロッパの国際政治において重要な地位を占めるに至った。しかし、17世紀中ごろより国家は弱体化し始め、18世紀末には隣接諸国家による領土分割によって独立国としての地位を失った。その後、シュラフタを中心とするポーランド人たちは民族解放運動に献身し、19世紀中ごろまでにたびたび敢行された独立蜂起(ほうき)はすべて敗北に帰したが、強烈な民族意識を保持し続け、第一次世界大戦後にようやく独立を回復した。とはいえ、強国のはざまに置かれて第二次世界大戦中はふたたび国家の独立を失い、数々の悲劇的なできごとを体験した。戦後は、ソ連の後押しによってポーランド人民共和国が誕生し、社会主義国としての道を歩んでいたが、党・政府と一般民衆との対立から、その歩みは困難を極めていた。1989年に体制転換を実現したが、政治的な混乱が続いている。[安部一郎]

経済・産業


概況
ポーランドは第二次世界大戦後、ソ連型の社会主義体制をモデルに、政治制度については一党支配体制を、経済制度については中央集権型の計画経済制度を移植した。工場、設備機械、土地などの主要な生産手段は国家所有に置き換えられ、生産、分配、投資、さらには貿易、流通、消費まで、国民経済の根幹にかかわる領域を国家が一元的に管理する経済体制を敷いた。計画経済制度のもとで、重工業中心の工業化が推し進められた。
 1989年後半、ポーランドは社会主義体制を放棄し、政治経済の制度改革を開始。体制転換後の1990年代は、中央計画経済を支えてきた制度を取り除き、市場経済を機能させるための新制度を導入、定着させる移行期であった。
 ポーランドでは1970年代前半、東西関係の緊張緩和を背景にして西側諸国から借款を受け、積極的な投資政策が打ち出された。産業基盤の近代化のための再工業化路線がとられ、石油精製、製鉄、自動車、造船などの基幹産業分野で、西側の先進技術、生産設備が導入された。1970年代前半の成長率は年平均9.8%を記録。だが後半に入ると、原材料、エネルギーの供給の隘路(あいろ)にあい、しだいに高度成長政策のひずみが露呈していった。借款の返済に加えて、新規に導入した生産設備への原材料の購入、向上した国民の消費生活への対応のため、西側諸国からの輸入が増大し、対西側債務は急増した。経済戦略の見直しが行われ、輸入が控えられるなかで成長率は鈍化し、1970年代末にはマイナス2%にまで落ち込んだ。
 1980年7月、基礎食料品値上げの政府発表を引き金に、全国で抗議運動が沸き起こり、全国規模の「連帯」として組織された。「連帯」は政府との直接交渉に臨み、値上げを撤回させるとともに、経済制度の改革、職場の待遇改善、自主管理の労働組合の設立などのさまざまな要求を行った。「連帯」の攻勢に対抗するため、1981年12月、党と政府は戒厳令を布告。戒厳令施行に対して、アメリカを中心に西側諸国は禁輸、新規融資の凍結、債務繰り延べ交渉の中止などの経済制裁を課した。西側諸国との経済関係が正常化したのは1980年代後半に入ってからであった。戒厳令の下でも国営企業の自律機能を高める目的で経済改革に着手したが、経済の回復にはつながらず、1980年代を通して、ポーランドの経済は停滞していた。
 1980年代後半、ソ連でゴルバチョフ改革が進行するにつれ、ポーランドでも改革の気運が醸成されていった。ソ連は過去の東欧の改革の障害であったが、ソ連首脳自らが改革を推進していることから、ソ連はもはや東欧諸国の改革を抑制する意志がないものと理解されたからであった。1988年夏、南部の炭坑でストが頻発した。事態の収拾にあたり、党・政府は戒厳令下で非合法化した「連帯」を交渉相手に選んだ。1989年2月、党、政府、「連帯」の代表が一堂に会して、円卓会議が開かれた。大統領制の導入、自由選挙の実施などの政治制度の改革とあわせて、経済関係では賃金の物価上昇分の補填(ほてん)、農産物の価格の自由化などの実施を決定した。
 円卓会議の合意に基づき、1989年6月、部分的ながら自由選挙が実施され、「連帯」側が圧勝した。9月マゾビエツキ連立内閣が成立し、バルツェロビッチ大蔵大臣が経済政策の担当になると、10月、経済改革案(俗称バルツェロビッチ・プログラム)が発表され、10月から12月末にかけて、財政法、価格法、関税法、外為法など20に上る経済改革の関連法案、修正案が採択された。そして、1990年1月1日を期して、市場経済に向けて経済改革が開始された。一部の公共料金を除いて大半の品目の価格の決定が市場に委(ゆだ)ねられ、通貨は交換性を回復し、国家が独占してきた貿易は自由化された。この時期、円卓会議の決定に従い農産物価格が自由化され賃金の物価スライド制が導入されたことから、年率600%のインフレが進行していた。インフレ抑制のための安定化政策は、バルツェロビッチ・プログラムの重要な柱であった。それと並ぶ重要な政策課題は、市場経済の構築に向けて競争を促す制度政策にあった。
 制度の急激な変化により、ポーランド経済は打撃を受け、生産国民所得は1990年11.6%減、1991年7.6%減と大幅に低下した。大量の失業者が発生し、失業率は15%を超えた。1992年ごろより経済は回復の兆しをみせ、マイナス成長からプラスに転じた。国内総生産の動向も順調に推移し、1993~1999年の平均成長率は約5%であった。1999~2000年はロシアの金融危機の影響を受けたが成長率は4.1%を維持した。2001年中央銀行がインフレ率を抑制するために実施した金利引上げにより経済が停滞し成長率は1.2%と低下した。しかし継続的な金利引下げにより設備投資、個人消費などが回復、2003年には3.7%、2004年には5.3%と好調に推移している。一方、失業率は1998年に10.4%に低下したものの、2001年16.2%、2004年19.4%と上昇傾向にあり厳しい雇用情勢が続いている。
 1996年9月ポーランドはOECD(経済協力開発機構)の加盟国となり、さらに2004年にはEUに加盟している。[渡辺博史]
財政・金融
バルツェロビッチ・プログラムにおいて、財政金融は安定化政策のための重要な政策手段とされた。緊縮的な財政政策がとられ、金利を大幅に引き上げるとともに、通貨の切下げが行われた。市場経済への移行に対応するため、財政制度についても抜本的な改革が行われた。形骸(けいがい)化していた国会の予算審議権が強化される一方、中央銀行は事後的に財政赤字を補填することが禁じられた。企業の経済活動への補助金の多くが撤廃あるいは大幅に削減された。移行期の国家財政の傾向としては、歳出項目については、各種の補助金にかわって経常支出に続いて大きいのは社会保障費への支出であり、ついで国内公的債務の返済となっている。歳入については国営企業、協同組合などの法人を財源としていた構造から、個人からの所得税、間接税へと財源が移された。1993年より導入された付加価値税が歳入の大きな柱を担うようになってきている。
 地方自治体(市町村単位)による地方分権への流れを受けて、地方の財政基盤を強化する目的で、中央予算と地方予算とが明確に分離された。旧来の交付制度を変更し、県レベルの中間的な段階を排除し、中央予算から地方自治体の予算へ直接交付される。
 社会主義のもとで整えられていた銀行制度の改革も、政治体制の転換に伴って進められている。1989年の銀行法、国立銀行法に基づき、ポーランド国立銀行の九つの支店、ポーランド国立銀行の傘下にあった五つの特殊銀行が本部から切り離された。ポーランド国立銀行は、中央銀行の本来の機能である通貨価値の維持に専念することになった。1990年代中ごろより分離した国営銀行の民営化が進められ、シロンスク銀行、商工業銀行、グダニスク銀行、ビエルコポルスカ銀行、ポモジェ銀行など9行が商業銀行となった。さらに2004年にはポーランドの最大手であるPKO-BP(Powszechna Kasa Oszczednosci-Bank Panstwowy)銀行が民営化された。
 1991年7月ワルシャワ証券取引所が50年ぶりに正式に再開され、資本市場の整備が開始された。ワルシャワ証券取引所は近年急成長しており、2006年4月末現在上場企業数は266となっている。[渡辺博史]
民営化
市場経済への移行期にあって、国営企業の民営化は重要な政策課題となっている。経済の自由化に伴い、私企業の数は飛躍的に増加した。2000年末の時点で、ポーランド国内で38万を超える事業所が経済活動を営んでいる。企業数では98%以上を私企業が占めるに至った。だが国民経済に占める比重では国営企業の存在は依然として大きい。
 1990年の時点でポーランドには約8700社の国営企業が存在していた。1990年から1991年にかけて、独占禁止法が導入されたことにより、国営企業300社が1000社に分割された。1999年末では国営企業のうち、民営化の手続を開始したのは約6400社で、うち約42%が民営化を完了した。約26%の企業は手つかずのまま国営企業として活動している。
 ポーランドでは国営企業民営化法(1990)などに沿って民営化が進められており、その方法には清算による民営化、資本民営化などがある。清算による民営化はおもに経営状態の悪い小規模の国営企業の民営化に採用される。国営企業の既存の債権・債務を清算したうえで民間へ売却する手法と、国営企業をいったん国有株式会社に転換してから競売・公募を行う手法がある。資本民営化は大規模な国営企業の民営化に採用されることが多い。国営企業を国庫が全株を保有する株式会社とし、各投資家に株式を売却するという手法である。国民投資基金による民営化も資本民営化に含まれる。1993年4月「国民投資ファンドと民営化」法が採択され、「大規模民営化プログラム」が発表された。プログラムに従い、15の国民投資基金が設置され、それぞれの基金を運営するファンドマネージャーが国内外の証券会社、コンサルティング会社のなかから入札により選ばれた。1995年9月512社の国営企業がプログラムに参加することになり、1995年11月から国民に「一般証券証書」が配布された。1997年6月15日、国民投資基金が同時にワルシャワ証券取引所に上場され、「一般証券証書」と国民投資基金の証券との交換が1998年末まで行われた。
 国営企業民営化による政府の歳入は年々増加し260億ズロチ(2000)に達したが、主要な国営企業の売却は大半が終了し民営化収入はしだいに減少してきている(2004年の歳入は102億ズロチ)。一方、民営化により大規模な人員削減を行う企業は多く、失業者数は増大し深刻な地域格差も生み出されている。また多くの企業が2004年のEU加盟による国際競争激化のなか、民営化後の経営体質の改善、生産性向上、設備の近代化などの改革を迫られており課題は多い。[渡辺博史]
対外経済関係
社会主義時代のポーランドの対外経済関係の主要な枠組みであったコメコン(経済相互援助会議)が1991年に解体した。体制移行の過程で、EU(ヨーロッパ連合)への21世紀初めの加盟を目ざす一方(2004年EU加盟)、近隣の中・東欧諸国との経済関係の再構築に努めた。この間、ECとの連合関係を定めたヨーロッパ協定(1994年2月1日より発効、貿易に関する暫定協定は1992年3月1日より発効)、中欧自由貿易協定(CEFTA)(1993年3月1日より発効)、EFTA(エフタ)諸国との自由貿易協定(1993年11月15日より発効)が締結された。国際経済機関への参加については、体制転換の時機を挟んで、IMF、世界銀行に復帰したのをはじめとして、1995年7月にはWTO(世界貿易機関)へ、1996年9月にはOECD(経済協力開発機構)への加盟を果たしている。対西側債務は社会主義時代ポーランド経済の大きな負担となっていたが、西側諸国はポーランドの体制移行を支援するため、パリ・クラブ(主要債権国会議)で会合を重ね、1991年3月ポーランドの公的債務の削減に応じ、1994年4月返済繰延べについてポーランドと合意した。
 移行期にあって、ポーランドの経済に占める貿易の比重は増加している。貿易依存率は、1990年の19%から1995年には22%、2004年には31%に上昇した。同時に貿易相手地域が大きく変化した。EU諸国との貿易が急速に拡大する一方で、旧ソ連諸国、中・東欧諸国との貿易は大幅に縮小してきている。1988年のポーランドのEC諸国との貿易のシェアは、輸出で26%、輸入で25%であったのに対し、1995年には対EU諸国輸出は全輸出の70%、輸入では65%に、2005年には全輸出の79%、輸入では67%に達している。一方、旧東側諸国との経済関係は1990年初頭、大幅に縮小した。体制転換以前にはポーランドの最大の貿易相手国であったロシアのシェアは、輸出では4%台に、輸入では8%台(2005)に縮小している。商品別では、輸出では、原燃料のシェアが低下する一方で、半製品、その他工業品のシェアが拡大している。輸入については、加工用の工業半製品のシェアが拡大している。しだいに、中進工業国としての貿易構造の姿をとりつつある。[渡辺博史]
産業基盤・鉱工業
ポーランドに埋蔵する鉱物資源は、銅、銀、亜鉛、鉛などの非鉄金属資源、石炭、褐炭などのエネルギー資源である。銅、銀の鉱山は戦後開発され、2001年現在銅鉱石の確認埋蔵量は3900万トン(世界第5位)、生産量53万3000トンである。銀とともにポーランドの主要な輸出品目に育ってきている。ポーランドに埋蔵するエネルギー資源のなかで経済的に意味をもつのは、石炭、褐炭である。その他、バルチック海沿岸に油田、南東部に天然ガス田が点在するが、いずれも採掘量は少量にとどまっている。石炭の確認可採埋蔵量は140億トン、生産量は7140万トン(2004)であり、ポーランドはヨーロッパ屈指の石炭の産出国、輸出国となっている。
 豊富な石炭を背景として、ポーランドのエネルギー源は石炭に大きく依存してきている。電力の97%が石炭、褐炭による火力発電によって生産される。1980年代、電力の需給バランスが逼迫(ひっぱく)したことから、褐炭の採掘田の開発とそれに隣接する火力発電の建設が進められ、電力生産の増産が図られた。だが、1990年代に入ると、市場経済への移行に併行して産業構造の転換が進むに伴い、電力の需給バランスは大幅に緩んできている。
 ポーランドの鉱工業の主力は、時代とともに変化してきている。1950年代には鉄鋼産業、繊維産業が、1960年代前半には石炭産業が、後半には化学産業が重点産業とされ、計画経済のもとでこれらの産業に優先的に資材が投入された。1970年代に入り、デタントによる国際情勢の変化のもとで西側諸国からの借款を受け、再工業化路線がとられた。西側技術が導入され、鉄鋼、自動車、石油化学、電子機器、工作機械など産業の近代化が図られた。だが、1970年代後半になると、対西側債務が急増したことから、既存の工業化戦略は修正を余儀なくされ、新規の投資は控えられた。
 1980年の「連帯」事件の影響から、鉱工業生産は大きく落ち込んだ。1980年代を通して、エネルギー基盤の整備を除くと、目だった投資プロジェクトはみられなかった。1989年の体制移行開始まで、ポーランドの産業基盤は1970年代に形成されたものが温存されたかたちとなった。
 移行期に入り、ポーランドの産業構造は大きく変わりつつある。社会主義経済のもとで培われてきた重化学主体の産業構造からの脱皮が進んでいる。政策的に重視されてきた石炭、鉄鋼などの産業が活動を縮小しているのに対し、輸送機械、電機、食品加工など製造業が伸びている。とくに自動車部門は外資系企業の本格的な操業や2004年のEU加盟により著しい伸びをみせており、生産・販売とも中欧最大規模となっている。[渡辺博史]
就業構造
体制移行期に入り、産業構造の変化とともに、就業構造は大きく変化してきている。鉱業部門では、1992年から2000年にかけて、約5割減にあたる23万人の減少がみられた。そのなかでも、ポーランドの基幹産業とされてきた石炭産業では、大幅に縮小している。製造業部門では、近年順調に推移しているところから、就業者数の減少が止まり、食品、軽工業、化学などの部門を中心に、わずかながら増加する傾向がみられる。商業、サービス部門では、新たに50万人規模の雇用の場が生まれている。大型店舗、中小の商店やレストラン、自動車の特約販売サービス店などが大量に出現した。商業・サービス産業の伸長は、サービス産業を軽視してきた旧体制の不備を補う性格をもっている。流通業に加えて、金融、保険、法律、コンサルタント、不動産、広告、報道などの事業が新たに展開されている。第三次産業の隆盛、経済のソフト化の流れがみてとれる。
 ポーランドの就業構成の特色として、農業部門のシェアの大きさがあげられる。農業部門の就業者は全就業者の26~28%(1990~2000)を占めている。1950年代なかばにポーランドでは集団化の試みが頓挫(とんざ)し、その後、個人農がポーランド農業の主力を担ってきていた。社会主義体制のもと、工業化の過程で農業部門から工業部門へと農村の過剰労働力の移動がすすんだ。移行期においては、逆に工場をレイオフされた労働者が帰村する動きがみられ、農業部門がポーランドの失業問題の緩衝(かんしょう)装置ともなっている。[渡辺博史]
交通
国内輸送の主力は長らく鉄道であったが、近年鉄道輸送の割合は低下傾向にある。鉄道網の総距離は2万3852キロメートル(2003)、鉄道輸送による貨物数量は1990年には2億8170万トンだったが、2000年には1億8720万トンとなっている。1970年代に道路網の整備が進み、自動車による貨物輸送が急増、道路輸送による貨物数量は10億8310万トン(2000)で、貨物輸送におけるトラック輸送の割合は80%を越えるに至った。また第二次世界大戦後は海上輸送の育成に努め、商船隊も充実した。
 なおチェコ、スロバキア、ハンガリーの海上輸送にはシュチェチン、グディニア、グダニスクのポーランド三大港が利用されている。[渡辺博史]

文化


西欧的文化の発展
966年のラテン典礼によるキリスト教受容によって、ポーランドは、民族・言語はスラブでありながら、とりわけイタリア、フランスなどの西欧と深く結び付いた文化を発展させることになった。長い国家消滅の時期には、その民族的一体性を文化の「連続性」によって保ち続けた。コペルニクスやクラクフ大学の隆盛にみられる15世紀の学芸の発展、ポーランド文語を確立させ「ポーランド文学の父」とされるレイ、当時のスラブ世界最大の詩人でその後幾世代もの手本とされたコハノフスキらを輩出した16世紀ルネサンスが、ポーランド文化の絶頂期であった。バロック期に訪れた国家の没落と文化の衰退を救おうとする啓蒙(けいもう)主義は、クラシツキに代表される優れた作家・思想家を生んだが、彼らの努力は実らず、ポーランドは18世紀末以来三次にわたる列強の分割を受けた。[小原雅俊]
ロマン主義と民族意識
19世紀前半の独立回復を目ざす相次ぐ民族蜂起(ほうき)の時期に成立したロマン主義は、強い愛国的性格をもつことになった。この時期以降、文学はポーランド人の民族意識の保持と民族的統合の核としての役割を担い、ポーランド文化のなかで特別な地位を占めることになった。ロマン主義はおもにフランスを中心とする亡命地で栄え、愛国心とフォークロア性、幻想性や神秘性の強い作品を生み出し、ミツキェビッチ、スウォワツキ、クラシンスキ、ノルビッドらポーランド文学史上最高の詩人群を輩出した。ポーランド・ロマン主義の真骨頂は詩の領域にあったがゆえに(またそのあまりにも強い愛国心のゆえに)世界的価値を獲得することがむずかしかったとすれば、それを補ったのがポーランド・ロマン派「ピアノの詩人」ショパンである。
 1863~1864年の一月蜂起敗北のあと、学問や教育、経済の発展を通じて独立の準備を目ざそうとする「実証主義」の運動がおこり、『クオ・バディス』のノーベル賞作家シェンキェビッチやオジェシュコバ、プルスらの優れた散文作家を生んだ。この流れのなかから出たのが現代物理学の礎(いしずえ)を築いたキュリー・スクウォドフスカ(マリー・キュリー)である。
 そのほか、文学者としては19世紀末から20世紀にかけて、自然主義とモダニズム運動のなかから長編四部作『農民』でノーベル文学賞を得たレイモントや、ポーランド・ロマン主義の伝統をよみがえらせたジェロムスキ、ポーランド現代演劇の祖ウィスピヤンスキらが出た。第一次・第二次両世界大戦の戦間期はトゥービムや戦後アメリカに亡命しノーベル文学賞を受けたミーワッシュ(ミウォシュ)も含む多くの詩人、ドンブロフスカ、ナウコフスカやもっとも20世紀的な作家群――ビトキェビッチ、シュルツ、ゴンブロビッチらを生んだ。[小原雅俊]
第二次世界大戦後のポーランド文化
第二次世界大戦後のポーランド文化は、社会主義政権の誕生に伴う新しい文化政策と伝統的なカトリック的西欧への志向との間でさまざまな軋轢(あつれき)を経験しながら、高い芸術性と実験精神あふれる作品を生み出してきた。1976年ごろに始まる国家検閲を拒む地下出版の出現と1989年の社会主義体制の崩壊の結果、戦後文化を支えてきた制度的基盤が崩壊し、戦後文化自体の価値が疑問に付された。制度転換に伴う過渡期のなかから、文化と民族、政治、社会との結び付きの伝統やそれを生み出してきた言語とは決別した文化が育ちつつある。
 文学ではイワシュキェビッチ、アンジェイエフスキ、映画監督でもあるコンビツキの散文、レムのSF、ムロジェク、ルジェビッチの戯曲、カルポビッチTymoteusz Karpowicz(1921―2005)、ヘルベルト、1996年ノーベル文学賞を授与されたビスワバ・シンボルスカの詩が知られる。地下出版を経てヘルリンク・グルジンスキGustaw Herling Grudziski(1919―2000)、1980年ノーベル文学賞受賞者ミーワッシュ、フワスコなどの亡命文学も復権を遂げた。また、アイザック・シンガーやコジンスキー(コシンスキ)など亡命ユダヤ系ポーランド人作家やかつてポーランドの地で生まれたイディッシュ語のユダヤ文学の翻訳が次々と紹介されるようになった。ショパン以後の音楽では20世紀初めのシマノフスキー、第二次世界大戦後のルトスワフスキ、ペンデレツキ、ベールトTadeusz Baird(1928―1981)らが世界の作曲界での地位を確立した。
 第二次世界大戦中ドイツ占領下で徹底的破壊を受けた多くの文化遺産の復原作業が1970年代初めにいちおう完了し、10世紀ロマネスク以来の諸様式の建築が各地で保存されている。とりわけゴシック、ルネサンス、バロックの優れた建築、彫刻、絵画が各都市やよく整備された美術館でみることができる。戦後のポーランドのグラフィック・アートは世界的に高い評価を得ている。戦後のポーランド文化をもっともよく代表するのが、『灰とダイヤモンド』や『地下水道』のワイダ、『尼僧ヨアンナ』のカワレロビチ、さらにムンクAndrzej Munk(1921―1961)、ポランスキらの「ポーランド派」の映画、グロトフスキ、カントルらの演劇である。
 学問分野で世界的貢献をなした人では、社会学のズナニエツキ、民族学のマリノフスキー、論理学のウカシェビチ(ルカシェービチ)、タルスキー、現象学のインガルデン、言語学のボードアン・ド・クルトネー、クリウォビチ(クリロウィチ)、経済学のランゲ、カレツキ、数学のバナッフ(バナッハ)、オルリッチWadysaw Orlicz(1903―1990)、哲学のコワコフスキLeszek Koakowski(1927―2009)、シャフなど数多くあげることができる。[小原雅俊]
放送・新聞
テレビの本放送は1953年に開始され、1970年テレビ第二放送が開始、カラー放送は1971年ワルシャワ局で始まった。1975年に衛星放送、1980年代にケーブルテレビが開始された。1992年末、それまで国営であったテレビ・ラジオは公営(日本のNHKのような形態)になった。テレビは1993年から、ラジオは1990年から民間放送が開始された。現在、テレビは公営の2局のほか、民営のポルサト、カナル・プルスと12の地方局がある。ラジオは公営の4局のほか、ラジオ・エスカ、ラジオ・ゼット、ラジオ・エルエムエフ、ラジオ・マリヤなどの民間局がある。
 新聞は社会主義時代は政党・政府の機関紙が主であったが、地下出版の開始とともに少部数の無数の新聞・雑誌が出た。1989年以後、「ガゼタ・ビボルチャ」など大部数の独立系の新聞が発行され、1990年の新聞・雑誌の民営化によって、「ジェチポスポリタ」「ワルシャワ生活」「トリブナ」など現在出ているおもな大部数の新聞がそろった。[小原雅俊]

日本との関係


 日本とポーランドの正式な国交が樹立するのは、ポーランドが第一次世界大戦後に独立してからのことであるが(1921年公使館相互設置、1922年通商航海条約締結、1941年第二次世界大戦による国交断絶、1957年国交回復)、相互への関心はもちろんそれ以前にも存在した。まずポーランドでは、19世紀末にフランスなどの影響もあって文学、美術、民俗学などを中心に日本への関心が芽生えたが、それが学術研究だけでなく一般のレベルで飛躍的に高まるのは日露戦争を契機としてである。独立を目ざすポーランド人が「敵の敵」日本に親しみを抱いたためで、1904年(明治37)のJ・ピウスツキ、ドモフスキという2人の傑出した政治指導者の来日もこの延長線上にある。
 独立後のポーランドにおいても、基本的には、日露戦争時に形成された日本観が受け継がれていったといえるが、とりわけ日本が第一次世界大戦で戦勝国となり西欧列強の仲間入りをしたことで、いよいよ「強国」日本のイメージが定着した。日本研究も独立とともに本格化し、1919年にはワルシャワ大学に初の日本語講座が開設された。第二次世界大戦後は日本の復興・高度経済成長に伴い、従来の「伝統の国」というイメージに「経済大国」「技術大国」のイメージが重ね合わされるようになり、その限りでは他の国々の日本観と大差はないが、日露戦争以来の親日感情はいまも健在である。戦後の日本研究は、国交回復に先だつ1955年ワルシャワ大学に再建された日本学科を足掛りとして再出発した。以来、世界的にみても高水準の日本語教育と、文学や古典芸能を中心とする地道な研究・啓蒙活動が行われている。1980年代にはクラクフのヤギェウォ大学、ポズナニのアダム・ミツキェビッチ大学にも相次いで日本学科が開設され、ポーランドの日本研究はいっそうの発展に向かっている。
 日本におけるポーランド観としては、政治的・歴史的観点からの「悲劇の国」および文化的観点からの「作曲家ショパンの国」という二つのイメージが併存しているといえよう。前者はそもそも明治維新後、富国強兵が進められるなかで定着したもので、ポーランドは反面教師ととらえられ、軍歌『波蘭(ポーランド)懐古』にも歌われた。しかし、こうしたイメージは他方で、歴史に翻弄(ほんろう)されてきたポーランド人への同情や共感として表現され、1980年代の自主労組「連帯」の運動への大きな関心も同一線上にあるものであろう。この一方でショパンからポーランドを想起する日本人は依然として多い。ポーランドに留学する日本人ピアニストも多く、ワルシャワのショパン・コンクールへの参加者は回を追うごとに増え、参加国中1、2位を争うまでになっている。第二次世界大戦後の日本映画に大きな影響を与えたといわれるポーランド映画の人気は根強いが、文芸作品のみならず、政治性・歴史性に富むワイダの作品への大きな関心は、以上のような日本人のポーランド観を反映しているように思われる。日本におけるポーランド研究は、ポーランドの日本研究が戦前からの伝統を有しているのに比べればまだ新しい。政府留学生の交換が始まり、ポーランド語を駆使できる研究者が育ってきた1960~1970年代からようやく本格化した。1991年(平成3)には初のポーランド語専攻課程が東京外国語大学に開設された。
 政治関係では、1987年1月、中曽根康弘(なかそねやすひろ)が日本の首相として初めて公式訪問し、同年6月国家評議会議長ヤルゼルスキが日本を訪れた。
 1989年のポーランドにおける共産党独裁体制の崩壊後は、官民とも交流は確実に拡大している。1990年1月には首相海部俊樹(かいふとしき)がハンガリーとともにポーランドを訪問し、冷戦終結を導いた立て役者としての両国に本格的な民主化支援を約束した。これ以後、日本は対日債務の返済免除、技術協力、食料援助などの形でポーランドの改革を支えている。1994年10月には日本の協力でワルシャワに私立の「ポーランド・日本情報大学」が設立された。また同年11月には映画監督のワイダが提唱し、日本の企業、一般市民が資金面などで協力したクラクフの「日本美術・技術センター」が開館した。ここは葛飾北斎(かつしかほくさい)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などの浮世絵や日本の美術工芸品、約1万点を集めた世界でも有数のコレクションが展示されている。1994年にはワレサ大統領、1998年にクワシニエフスキ大統領が訪日しており、2002年には天皇・皇后によるポーランド訪問が実現した。翌2003年には首相小泉純一郎がポーランドを訪問、2008年にカチンスキ大統領が訪日している。なお、2007年は日本とポーランドの国交回復50周年にあたり、各種記念行事が行われた。
 経済関係では、近年貿易額は徐々に拡大しており中東欧諸国のなかではハンガリー、チェコにつぐ貿易相手国となっている。おもな対日輸出品目は自動車部品、木材板など、輸入品目は機械類、電気機器類、輸送用機械などである。また、東欧最大の人口をもつポーランドの市場としての将来性や安く質のよい労働力を求めて日本企業の進出が進んでおり、投資や現地生産が徐々に拡大している。[柴 理子]
『●地理・一般 ▽ポーランド大使館編、小原雅俊訳『ポーランドの国と人々』(1978・恒文社) ▽阪東宏編『ポーランド入門』(1987・三省堂選書) ▽宮島直機編『もっと知りたいポーランド』(1993・弘文堂) ▽吉田忠正著『ポーランドのくらし――日本の子どもたちがみた、森と平原の国ポーランド』(1996・ポプラ社) ▽足達和子著『ポーランドの民族衣裳』(1999・源流社) ▽田辺裕監修・山本茂訳『図説大百科 世界の地理13 東ヨーロッパ』(2000・朝倉書店) ▽渡辺克義編著『ポーランドを知るための60章』(2001・明石書店) ▽田村和子著『ワルシャワの春――わたしが出会ったポーランドの女たち』(2003・草の根出版会)』
『●歴史 ▽矢田俊隆編「東欧史」新版(『世界各国史 13』1977・山川出版社) ▽宮島直機著『ポーランド近代政治史研究』(1978・中央大学生協出版局) ▽山本俊朗・井内敏夫著『ポーランド民族の歴史』(1980・三省堂選書) ▽ステファン・キェニェビッチ他編、加藤一夫・水島孝生訳『ポーランド史』全2冊(1986・恒文社) ▽木戸蓊・伊東孝之編『東欧現代史』(1987・有斐閣) ▽伊東孝之著『ポーランド現代史』(1988・山川出版社) ▽A・ポロンスキ著、羽場久子監訳『小独裁者たち――両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』(1993・法政大学出版局) ▽家本博一著『ポーランド「脱社会主義」への道――体制内改革から体制転換へ』(1994・名古屋大学出版会) ▽中山昭吉著『近代ヨーロッパと東欧――ポーランド啓蒙の国際関係史的研究』(1995・ミネルヴァ書房) ▽阪東宏編『ポーランド史論集』(1996・三省堂) ▽高橋了著『ポーランドの九年――社会主義体制の崩壊とその後 1986~1995』(1997・海文堂出版) ▽伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新版(1998・山川出版社) ▽早坂真理著『革命独裁の史的研究――ロシア革命運動の裏面史としてのポーランド問題』(1999・多賀出版) ▽伊藤定良著『ドイツの長い十九世紀――ドイツ人・ポーランド人・ユダヤ人』(2002・青木書店) ▽白木太一著『近世ポーランド「共和国」の再建――四年議会と五月三日憲法への道』(2005・彩流社) ▽アンブロワーズ・ジョベール著、山本俊朗訳『ポーランド史』(白水社・文庫クセジュ)』
『●政治・社会・文化 ▽加藤正泰・石川晃弘編『ポーランドの文化と社会』(1975・大明堂) ▽工藤幸雄著『ワルシャワの7年』(1977・新潮社) ▽中山研一著『ポーランドの法と社会』(1978・成文堂) ▽工藤幸雄・岡田春夫・佐久間邦夫著『ポーランド革命――なにが問題なのか』(1981・亜紀書房) ▽B・ゲッタ著、大空博・川島太郎訳『ポーランドの夏――激動の20日間』増訂新版(1981・新評論) ▽工藤幸雄・筑紫哲也著『ポーランドの道――社会主義・虚偽から真実へ』(1981・サイマル出版会) ▽D・シンガー著、加藤雅彦他訳『ポーランド革命とソ連』(1981・TBSブリタニカ) ▽藤村信著『ポーランド――未来への実験』(1981・岩波書店) ▽ヴェルシェフスキ著、小山真理子・影山純子訳『ポーランドの女性問題』(1981・三一書房) ▽Y・マラノフスキ著、小山真理子訳『ポーランドの労働者たち』(1982・三一書房) ▽ポーランド資料センター編訳『ポーランド不屈の「連帯」』(1983・柘植書房) ▽梅本浩志・足達和子著『「連帯」か党か――ポーランド自主管理共和国へのプログラム』(1983・新地書房) ▽D・マクシェーン著、佐藤和男訳『連帯――ポーランド自主労働組合』(1983・日本工業新聞社) ▽T・コンヴィツキ著、工藤幸雄訳『ポーランド・コンプレックス』(1984・中央公論社) ▽土谷直人著『ポーランド文化史ノート』(1985・新読書社) ▽鳥山成人著『ロシア・東欧の国家と社会』(1985・恒文社) ▽アンドルー・ナゴースキー著、工藤幸雄監訳『新しい東欧――ポスト共産主義の世界』(1994・共同通信社) ▽伊東孝之編『東欧政治ハンドブック――議会と政党を中心に』(1995・日本国際問題研究所) ▽ステファン・シレジンスキ他編、阿部緋沙子他訳『ポーランド音楽の歴史』(1998・音楽之友社) ▽小林浩二・佐々木博・森和紀他編著『東欧革命後の中央ヨーロッパ――旧東ドイツ・ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリーの挑戦』(2000・二宮書店) ▽A・J・シュヴァルツ著、西原春夫監訳、高橋則夫他訳『ポーランドの刑法とスポーツ法』(2000・成文堂) ▽今野元著『マックス・ヴェーバーとポーランド問題――ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説』(2003・東京大学出版会) ▽渡辺克義著『ポーランド人の姓名――ポーランド固有名詞学研究序説』(2005・西日本法規出版)』
『●経済 ▽岩田昌征編『ソ連・東欧経済事情』(1983・有斐閣) ▽吉野悦雄訳・評注『社会主義経済改革論』(1987・木鐸社) ▽小川和男・渡辺博史著『変わりゆくロシア・東欧経済』(1994・中央経済社) ▽青山繁著『欧州の大国ポーランド――高成長の秘密』(1997・大蔵省印刷局) ▽大津定美・吉井昌彦編著『経済システム転換と労働市場の展開――ロシア・中・東欧』(1999・日本評論社) ▽木村武雄著『欧州におけるポーランド経済』(2000・創成社) ▽木村武雄著『ポーランド経済――体制転換の観点から』最新第2版(2005・創成社) ▽西村可明著『ロシア・東欧経済――市場経済移行の到達点』(2004・日本国際問題研究所) ▽田口雅弘著『ポーランド体制転換論――システム崩壊と生成の政治経済学』(2005・御茶の水書房) ▽和田正武・安保哲夫編著『中東欧の日本型経営生産システム――ポーランド・スロバキアでの受容』(2005・文眞堂) ▽世界経済情報サービス編・刊『ポーランド(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』
『●日本との関係 ▽日本東欧関係研究会編『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(1982・東欧史研究会) ▽国際交流基金編・刊『ソ連・東欧における日本研究』(1984) ▽ポロニカ編集室編・刊『ポロニカ 特集日本・ポーランド人物交流史』(1995・恒文社発売) ▽阪東宏著『ポーランド人と日露戦争』(1995・青木書店) ▽兵藤長雄著『善意の架け橋――ポーランド魂とやまと心』(1998・文芸春秋) ▽阪東宏著『世界のなかの日本・ポーランド関係 1931―1945』(2004・大月書店)』

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