岡登用水(読み)おかのぼりようすい

日本歴史地名大系 「岡登用水」の解説

岡登用水
おかのぼりようすい

寛文年間(一六六一―七三)幕府代官岡上(岡登)景能により開削された用水。かつては笠懸野かさかけの用水とよばれた。本格的な通水と利用は幕末以降である。寛文元年代官として赴任した景能は、銅山あかがね街道の整備とともに笠懸野一帯の開発を企て、渡良瀬川から用水を引く計画を立てた。寛文四年に着工、同一二年完成、幕府の巡見があったという。景能により開かれた流路は、渡良瀬川から山田郡蕪町かぶつちよう(現桐生市)取水南東へ流れて蕪町村・天王宿てんのうじゆく村・下新田しもしんでん(現同上)を通り、南西へ向きを変え、阿佐美あざみ(現笠懸村)北方竹沢の三俣たけざわのみつまた二流に分れる。西方水路稲荷いなり山裾を北から西へ回り、いわした溜井(現同村内鹿の川沼)を経て銅山街道沿いに南流、おお(現新田町)溜池に至る。東方の水路は阿佐美村内を八王子はちおうじ丘陵裾沿いに南流している(元禄一〇年「笠懸野新田絵図」片山家蔵など)。流路延長は約三里三三町とされる。

寛文一二年の幕府巡見使中山茂兵衛・御手洗伝左衛門による検分の結果、取水後も渡良瀬川下流の水は減らないものの、笠懸野用水は毎年九月一日より翌年三月晦日の間に限って水取が認められ、四月一日より八月晦日までは堰口に三尺の戸を立て築堤し、水を留めることとされた(「水取証文」柳文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡登用水の言及

【笠懸[町]】より

…町域は笠懸野と呼ばれた大間々扇状地の扇央部を占める。江戸時代初期に岡登用水が開削されてから開墾が進み,用水沿いに新田集落が発達した。かつては養蚕が中心であったが,近年はダイコン,トマトなどの野菜生産が中心である。…

【関東地方】より

…江戸時代には交通路も整備され,水利事業も進んだが,特に江戸の都市用水を供給する神田上水玉川上水は,武蔵野の新田開発にも貢献し,明治に入ってからは東京水道に組み入れられ,1960年以後の利根川ダム,武蔵水路などの水系を完成する端緒として高く評価される。新田開発は,16世紀後半から始まり,17世紀には渡良瀬川の水を岡登(おかのぼり)用水として笠懸野(かさかけの)を灌漑し,また九十九里浜の椿海干拓などが進んだ。日本橋を基点とした五街道と河川交通,および大坂,奥州との海上交通が整備され,国内の往来,流通が活発になった。…

※「岡登用水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」