朝日日本歴史人物事典 「岡上景能」の解説
岡上景能
生年:寛永4頃(1627)
近世前期の江戸幕府代官,知行高150石。代官岡上景親の養子。通称は次郎兵衛。北条氏の家臣であった祖父が徳川家康に仕えて代官に取り立てられ,以降代々代官を務める。祖父(2代続けて甚右衛門景親と同名であるため,父とされることもある)は上野国吾妻郡岡崎新田に岡上用水を引き開発した。景能は武蔵,上総,上野,下野,越後などの幕府領および足尾銅山を支配した。銅を搬出する銅山街道を整備し,上野国新田郡大原本町(群馬県新田郡藪塚本町)に銅問屋を新設し,宿用水と助郷人馬の確保のために渡良瀬川から引水して岡登用水を開削し,同郡笠懸野を開発した。しかし,貞享4(1687)年,幕府から八丈島流罪を言い渡され,その後さらに死罪を命ぜられ切腹。上総国での村境論の裁定が不届きであり,また用水開発に不正があったという理由であるが,真相は不明である。岡登用水は廃絶され,幕末に再興された。墓所は新田郡笠懸町の国瑞寺にあり,岡登霊神社が同郡藪塚本町にある。<参考文献>萩原進,丑木幸男『代官岡上景能』
(丑木幸男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報