柳条辺牆(読み)りゅうじょうへんしょう(英語表記)Liu-tiao bian-qiang; Liu-t`iao pien-ch`iang

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳条辺牆」の意味・わかりやすい解説

柳条辺牆
りゅうじょうへんしょう
Liu-tiao bian-qiang; Liu-t`iao pien-ch`iang

中国,清朝満州に築いた防衛のための境界線の柵。長城東端の山海関から北上して広寧の北を通って開原にいたり,1つはさらに北上して吉林に,1つは南下して興京の東を通り,鴨緑江河口の西の海岸に達するものであった。第2代太宗の時代から第4代康煕帝時代にかけて完成。境界線の外側 (場所によっては内側にも) に堀を造り,その土を盛上げて土塁とし,その上に柳で柵を構成したのでこの名がある。モンゴル系遊牧民の侵入,明の侵攻,朝鮮人の越境を防ぐために築かれたものであるが,同時に漢民族の満州流入阻止の役割も果した (→満州封禁 ) 。

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世界大百科事典(旧版)内の柳条辺牆の言及

【吉林[省]】より

…明末以後満州族の南下,清王朝の成立の結果,満州族は大量に南遷し,また祖宗の地には漢族を流入させないよう封禁(ふうきん)政策をとったため,農地は荒廃した。特に長白山地地域は,ニンジン採取と狩猟場とされ,また東豊,海竜,輝南,盤石一帯は清の囲場とされたし,松花江沿岸の法特から長春の南,開原県北東を経て山海関に至る〈柳条辺牆〉の西方がモンゴル族の牧地とされ,東に越えることは許されなかった。だが封禁政策は必ずしも厳守されたわけでなく,華北の窮民で東北に流出するものは後を絶たず,モンゴルの王公も18世紀末には長春一帯で漢族農民に農地開墾をさせるようになり,1799年(嘉慶4)には清朝の政府も既成事実を認めて,長春庁を置き,範囲を定めて開墾を許すことになった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」