漢民族と一般に通称されている民族とはいったいどんなものなのであろうか。彼らが漢族とも漢人とも呼ばれていることは周知のことである。かつて李済は《漢民族の形成》という著書を著しているが,まさに漢民族と汎称される民族の構成はきわめて煩雑であり,その言葉の持つ意味のとらえ方も多様である。ただ漢民族といわれる集団がどのようにして形成されてきたかということを推測してみると,おそらく往古より肥沃な黄河の中・下流域地方を中心とする華北の地に,それぞれ系統を異にした諸民族が,おのおの固有の文化を持ち寄り凝集し,相互に接触を交わし,その異文化の集結によって生じる文化摩擦のエネルギーが燃焼して,おのずと相互の文化が融合し,あるいは変容をとげて,特異な高文化を作り出したものに相違ない。その高文化を共有する個々人が,集団となって隣接する周辺諸地方にも強い影響を与えながら,後に漢民族と呼ばれるようになる民族集団が形成されたものと考えられる。
このようにして形成された民族集団が漢民族と称されるようになったのは,いうまでもなく,その集団のなかから統率者としての傑物が現れ,漢帝国なる王国を興し,その王国ないし王朝の支配下に包括され従属してみずから漢帝国の一員であることを認めた個々人または集団が,漢人と呼ばれ,漢民族と称されることを自他ともに容認したことによって漢民族とか漢人という名称として徐々に固定し,今日にまで受け継がれているものである。しからば漢代以前にこの種の民族集団は何と呼ばれていたかといえば,彼らは秦の始皇帝により統治されたため秦人と称され,それがのちのシナすなわちChina,Chineの名称として,いまなおその名がとどめられている。このように,時代をさかのぼってみれば夏・殷・周各王朝ごとに,その住民はそれぞれその王朝名で夏人または殷人などの名で呼ばれ,今日漢人たちがみずからを夏人と称するのも,夏の初代の天子禹が夏后氏すなわち夏の后(きみ)と呼ばれているように,これまた夏王朝名の名残りなのである。このようにしてみると漢民族と称される民族集団のたどってきた歴史の歩みははなはだ古く多彩なものである。
諸民族,諸文化の複合的集団とみなせる漢民族が,最も顕著な高文化として生み出したものの一つに文字の創造があげられる。すなわちそれは〈漢字〉であり,その文字の原形は殷墟の遺跡に知られる甲骨文字,すなわち当時の人々,主として宗教的祭祀をつかさどる呪術者,祈禱師たちがもっぱら行う占卜に使用した亀甲獣骨に刻んだ符号ないし象形的記号に求められ,それが文字として使用されるようになったことはいうまでもない。しかしこのような占筮(せんぜい)に関する宗教儀礼ないし習俗は,より古く,人類文化の知的遺産のなかにその起因を探り出すことも可能であろう。いずれにしても,この種の占卜儀礼に用いられた符号や印章が,やがて意志を伝達する記号または文字として使用され,篆書(てんしよ)や隷書(れいしよ)そして漢字として発達し,それが今日の河南省周域を中心として集まる民族共同体の文化的象徴の一つとして,広く四周に伝達普及され,漢字という文字文化を紐帯とする漢民族の中核がいっそう強固にされたものと思う。
漢民族にそなわるこのような文化的体質が,諸民族諸文化の集結のもとに育成されたものであればこそ,その文化内容も豊かであり,生活文化もまた多様性に富むものとなったといえる。そのような土壌のなかに高度の文明都市や国家が生まれたこともまた当然といわねばならない。俗に漢民族の発祥の地を中原と称しているが,世に〈中原に鹿を逐(お)う〉という言葉があるように,広い野原の中央に高文化を求めて競い集まる人々も増し,漢民族の成員たらんと欲する人士も加わって,漢民族なる民族共同体の構成も急速に拡充され,強力なものとなった。このような解釈の下に漢民族といわれる民族集団をとらえてみると,その民族集団の持つ複合的性格なり,文化の多様性がよく理解できると思う。このような漢民族の形成やその文化の構造基盤の根源をさらに深く探るならば,それは古く先史時代までさかのぼることができる。この種の問題については,すでに古くは李済,近くは張光直などの著書・論文にも論じられているように,漢民族の文化史的系譜は,中国史前史文化にまでさかのぼってたどることができる。すなわち後期洪積世に属する北京原人やそのあとに現れる黄土文化,あるいは華北の農耕生活との関係が求められる彩陶土器によって特徴づけられる仰韶(ぎようしよう)文化,または黒陶土器によって特色づけられる竜山文化,また系統を異にする灰陶文化,さらに塞外的細石器文化とこれら土器文化と混合する文化等々,諸文化の歴史にまでさかのぼりうる。
上記の土器文化はいずれも独自の特殊性を示して存在しており,おのおのの文化は,あるいは地域を異にし,あるいは時代の差異を示すなど,個々の文化間の相関関係にかかわる問題については種々論議が交わされているものの,しょせん,これらの諸文化はみな黄河流域あるいは長城以南の華北農耕地帯に現出した諸文化であった。それら諸文化は,あるいはそれが一つの地方に単独に発達したものと考えられるものであれ,相互に交流し混合したものであるとするにせよ,広く華北一帯に存在した文化的諸現象の流れは,たとえすべてといわないまでも,それらと同じ地域に居を占めて形成された漢民族の文化のなかに受け継がれていることを否定できない。
このように旧石器や新石器時代以来の長い年月の流れを背景として形成された漢民族は,種族的にも文化的にも複合的性格の強い民族集団であるから,そこに生み出された高文化とは,幾種もの異民族・異文化の総合体として築かれたものである。すなわちそれは異文化の接触作用によって生ずるアカルチュレーションacculturationすなわち変容の果実であり産物なのである。それはまたあたかもスズと銅の合金によって青銅がつくられるのと似ていて,中原の地にきわめて目新しく華やかに咲きほこった文化として四周の民族から驚異の目が注がれたかもしれない。
しかし,その新しい文化とは,それぞれ自己の持つ固有の文化を持ちはこび,その文化づくりに参与した個々民族の結晶のたまものにすぎないものであり,その目を見張る新しい文化のなかには,個々民族固有の文化がそれぞれ姿がわりをしてとけ込み生かされているものなのである。それゆえ,漢民族とその文化は中原の地に君臨し,みずからを中華と称し,四周に隣する民族を東夷,西戎,北狄(ほくてき),南蛮と呼んで誇り高き歴史を歩んできたが,それはまた四隣諸民族の参与によって築かれた歴史であるといえる。このようにして創られた漢民族集団とその文化は,その華やかさゆえに四隣の人の憧れの的となり,その高文化は四周に大きな影響を及ぼし吸収された。その文化の拡散はいわばその高文化の創造に参与した諸民族への逆流ともいうべき現象である。その逆流ともいうべき周辺諸民族への高文化の浸透と受容は,きわめて自然に進められた。なぜなら,その逆流して流れ込む中原文化のなかには,かつてみずから中原に持ち込んだ独自の固有文化が,変容の結果姿を変え形を変え,さらに異質文化をも携えて個々の民族集団社会に戻り帰ってきたからである。そこにこそ複合的民族集団として形成された漢民族とその高文化の特質をかいま見ることができるといえよう。
一方,言語学的立場から見ても,そこにはシナ・チベット語族,あるいはシナ・タイ語族という語族群が設定されており,シナ語とチベット語,またはシナ語とタイ語との間に親縁関係のあることが指摘しうる。考古学的側面からのぞいて見ても,殷墟の出土文物中に太平洋沿岸産出とみなされる魚具類が見られ,長江(揚子江)以南すなわち華南地方に生息する象骨などの遺物も発見されている。近年中国で急速に研究が進められている長江以南諸地域の文化事物のなかにも華北文化と対比しうるものが数多く現れている。周代における祭祀儀礼や用具などには北方遊牧民のシャマニズム的要素も見いだされ漢民族と北アジア遊牧民との接触を無視することは不可能である。《史記》や《漢書》をはじめとする歴代王朝の編になる正史を見ても,漢民族の形成に参画する周辺諸民族の動向を見のがすことはできない。歴史学はもとより,民族学や文化史的観点から観察すれば,漢民族が往古より諸民族諸文化の複合体として形成されていることは,疑う余地のないところである。
今日中国では漢族を含めて56種の民族を認定し,みずから多民族国家と称している。もとより人口数の上からみれば少数民族は全人口の6%を占めるのみであり,漢族の人口は圧倒的に多数である。しかし等しく漢族と称される人々のなかには,方言をはじめ風俗慣習,生活,文化の面からみればきわめて多くの地方的偏差を見いだすことができる。それは黄河中・下流域地方を中心とする中原の地に集結した漢民族や,その高文化とかかわる深度の濃淡により,地方的偏差の度合を計りうることも可能であろうが,広大な領域を有する中国全域のなかで,諸民族が集合し複合的な都市社会を形成しそれが文化の中核地帯となっている所は各地にあって,華北の中原だけが諸民族の集結地ではないことが,近年ようやく認識されはじめてきている。そこにはまた漢民族の形成を考える上にも新しい問題が含まれていると思われる。
漢民族とは何かという問に対して,事実,正当な回答を与えることははなはだ難しい。
執筆者:白鳥 芳郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
民族意識のうえで中国黄河(こうが/ホワンホー)中下流域の中原(ちゅうげん)地域を原郷と考え、沿岸諸島嶼(とうしょ)、東北地区にも移住して生活し、海外ではとくに東南アジアを中心に、中国籍の華僑(かきょう)、移住先諸国籍の華人として、世界各地に居住する世界最多人口の民族。漢族、漢人ともいう。中国国内の人口は13億人余りとされ、うち漢民族は約92%を占めるといわれている(2010年センサス)。
[渡邊欣雄]
漢民族はおよそ紀元前10世紀ごろ、西北の中央アジアから中原地域に周という部族が移動定着し、徐々に周辺諸部族を統合していく過程で形成されたとされる。「民族」という概念は、ヨーロッパ近代の影響で初めて認識されたカテゴリーであるから、むろん周代に漢民族が存在したわけではない。漢民族が自他ともに民族として認識されたのは日清(にっしん)戦争以後であり、中国国内の少数民族との相対において自覚されたのである。したがって近代に形成された漢民族は、それ以前のおよそ3000年にわたる諸集団との融合によって形成されてきたといえる。言語の漢語は漢民族という概念の成立以後、北京(ペキン)官話を共通語として採用したものである。漢語はシナ・チベット語族に属し、多くの方言に分岐している。しかし、およそ3300年前から用いられた甲骨文字以降の文字が「漢字」の名において連綿と用いられてきており、国家統一に役だつとともに、漢字も統廃合がなされてきた。漢民族の成立とともに、漢字は漢民族固有の文字と考えられるに至る。
[渡邊欣雄]
「北京原人」の名で知られるように、中国には前期旧石器時代以来の人類が生活していた。漢民族の母体としての文化の淵源(えんげん)は、長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン))流域に同様の古さの農耕文化があったにもかかわらず、彼らの意識のうえで黄河流域にあった新石器時代の農耕文化に求められてきた。彼らの歴史認識によれば、以後この華北の原郷から周囲の諸集団、ことに長江流域以南の異部族を包摂していく過程を通じて、地方色のある独自の文化を発展させてきたと考えられている。
漢民族の大部分は灌漑(かんがい)農耕による集約的定着農耕民である。華北は麦、アワ、コウリャン、トウモロコシなどの畑作穀物やジャガイモを主として栽培しているのに対して、華中、華南では水稲耕作とサツマイモの栽培が盛んである。こうした栽培作物の多様性と高度の料理技術とが結合して、地方色豊かな中華料理を生み出してきた。住居も、東北地区や華北の防寒を目的としたれんが造りや土造りの平屋家屋が多いのに対し、華中、華南では防暑、防湿に重点を置いた2階建て木造家屋が多いなど、環境に即した生活様式が認められる。
[渡邊欣雄]
漢民族の社会は伝統的に父系出自集団がその基礎をなしている。子供は父の姓を名のり、結婚後も妻は生家の姓を保つ。一夫一婦制で夫方居住が通則であるが、同姓の男女は結婚できない同姓不婚の原則があった。同祖同姓の一族は「宗族(そうぞく)」とよばれ、祠堂(しどう)に共祖を祀(まつ)り、族長が数百、数千人の族員を統轄している。漢民族の宗教は儒教、仏教、道教の3教、あるいはこれにイスラム教、キリスト教を加えて5教とされるが、基幹宗教は「敬天崇祖」の民俗宗教である。崇拝の対象である諸神には最高神である玉皇上帝(ユーファンシャンティ)をはじめ幾多の機能神がおり、人々の現世利益(げんぜりやく)の対象となっている。また祖先崇拝は漢民族社会の宗教的根幹をなすものであり、さらに悪鬼、邪霊の防除を行う祈祷呪術(きとうじゅじゅつ)も宗教生活に欠かせない。このような漢民族の社会と宗教の伝統は、1949年の中華人民共和国成立以後、大陸では幾多の変革を受けたが、改革開放政策の実施以後復活を遂げた。
[渡邊欣雄]
『石川昌著『中国を知る事典』(1981・日本実業出版社)』▽『橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(1983・山川出版社)』▽『曽士才・西澤治彦・瀬川昌久編『アジア読本・中国』(1995・河出書房新社)』
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