アイヒマン裁判(読み)あいひまんさいばん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイヒマン裁判」の意味・わかりやすい解説

アイヒマン裁判
あいひまんさいばん

ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンKarl Adolf Eichmann(1906―1962)が1960年5月、逃亡先のアルゼンチンで捕らえられ、1961年4月からイスラエルエルサレムで付された裁判。この結果、数々の蛮行が明るみに出された。アイヒマンはドイツ生まれだが青少年時代をオーストリアで過ごし、1932年オーストリア・ナチ党に入党、そこでのちにナチス親衛隊(SS)幹部となるカルテンブルンナーと知り合う。オーストリアでナチ党が非合法化されるとドイツに移って党活動を続けたが、1938年独墺(どくおう)合併後オーストリアに戻った。イディッシュ語ができるところから、ウィーンに設置されたユダヤ人移住局の責任者となり、のちに国家保安警察本部(RSHA)のユダヤ人担当課(第Ⅳ局B4)課長となる。アイヒマンは親衛隊中佐の身分だったが、ドイツ占領下におけるヨーロッパのユダヤ人取締りの中心人物だった。彼の指揮逮捕され、強制収容所で殺されたユダヤ人は600万人に上るといわれる。敗戦時、南ドイツに進駐した米軍に捕らえられたが脱走し、姿をくらましていた。1960年5月、アルゼンチンのブエノス・アイレス郊外にリカルド・クレメントと名のって家族とともに潜んでいるところをイスラエル秘密警察に突き止められ、勤務先から帰宅途中、強制的に連行されイスラエルまで秘密裏に護送された。裁判はエルサレムで1961年4月から4か月間開かれ、同年12月に死刑判決があった。翌1962年5月死刑は執行された。この裁判は、イスラエル秘密警察による執拗(しつよう)な追跡、他国の主権を無視した強引な逮捕と連行などの問題があった。また、公判中のアイヒマンの「1人の死は悲劇であっても、数百万の死は統計上の問題にすぎない」などの発言で有名になった。

[藤村瞬一]

『ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン』(1969・みすず書房)』

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